はてなキーワード: くびきとは
二十代前半、物心ついた瞬間(とき)から時を喰らうものとあなたの心に語りかける形ある真実はあった気がする。精神隷属機は内なる闇と闘いし者くらいから流行り始めた。
メールよりLINEのフォースが主流になって、ラグナロクの索引が特別じゃ無くなって、いつでもどこでも我が大いなる影に潜む「モノ」...そう、貴様とでも繋がれる現世に闇に心を奪われた。大体のことは瞬息の間に調べられる混沌の時代に魂を奪われた。
どうみても格好良くない言霊遣いがクラウド似だと持て囃されたり、どうみても可愛くないサブカル騎士団の虚構の偶像達が可愛すぎ修正されるねと騒がれたり。
黎明の一方で、己が愛を捧ぐスフィアヴィジョン番組は時代に完全調和〈マリアージュ〉していないなどとアカシックレコードで酷評されまとめられたり。
1つも響鳴出来ない「こんな嫌なやつにあった私可哀想だべ?これも全て宝条って奴の仕業なのよ。かつて聖府によって禁じられたのは全部『かの者』!私は迷惑帝国にあるカフェでお茶をしようと声をかけて…思い出の中にしかない!」なんていう拡大変容に信じられないくらいの反響がついたり。
私にはきっと、クリスタルが国民的賢者の石を生み出して、灼熱の焔な存在(もの)がみんな似たりよったりだった時代のフォースがあっていたんだと想う。
私には帝国の威信にかけて、数多の縁という名の鎖で繋がれし世界なんかなくて、クオリアが狭かった方があっていたんだと回想(おも)う。
私の魔法力は、もう”俺たちの時代”には合わないんだと彷彿とさせる。
英雄のいない現代(いま)には、禁忌とされるほどに魔力感知が高い人が衆すぎる気がしてしまう。
傷つけられた、と囁く運命<こと>を禁忌とされるほどに底知れず受け止めすぎな気がする。断罪のくびきを背負えば傷はつく。繋がれし意識でエインフェリアぶってる人だって、『ノイズ』にならないだけで、ヘッドに出ないだけで、創られし物を傷つけたことは絶対にある――予想できていたはずなのに、英雄の名が傷つけられたとたん其なるものをスペル化して拡散して。
闇の血族を滅ぼしたところで、媒体に関わらず神の導きのままに言葉にできる人だけが痛みを表明できるような時代になってしまったように感じる。
かつての予言書の事実はもう通じない。幾ばくかのルーンの刻まれた魔石の掛け違いで相手に少しでも傷つけてしまったら、インフィニティ世界に向けて私がまるで悪の根源のように幻想変換されて。其なるものに慰めの言の刃(コトノハ)がいっぱい預言書に記されたままにて。
この戦乱の時代が違えば私は完全に無知なる平民どもだった気がするんだけどな。
この乱世は選ばれし戦士をクリスタルと同等にする混沌の時代だ…預言書にはそうあるから。如何なる場合においても我が魂の宿りし器の魔法力に基づいて魂の波動を感じているだけ――ただそれだけなのに、僅かばかりでも傷つけてしまったら無知なる平民どもの愚者に預言書に示された通りのこと告げられた哀れな存在を抹消されしものっていう叙事詩にされちゃうもんな。
何が詠唱したいか分からなくなって…畢竟、その一つ事への拘りが炯眼を曇らせた。
神装(こせい)なんて叫ばないで。更なる高み単一生命《コスモ・ワン》な不可視世界の核(なか)に生まれたかった、…俺は、お前…を…愛、して…い…た。
左右いずれもガチガチの政治家は、いつまでもガチガチのまま、一割の支持者層で人生を終えてしまいます。私は共産党の人たちにもずっと言い続けました。
「政権を取るぐらいの気持ちで政治をやらなければ、いつまでも一割政党でどうするのですか。これが正しい、あれが正しいと言って政権も取れず、あなた方は政党として支持者に応えているのですか。あなた方を信じて何十年も付いてきた支持者に不誠実ではないですか」 一割で正しいことを言っても、残りの九割に誰も興味を示さないのなら、政党としてやっている意味がないのではないか。 現在の日本の政党状況のように、「一強多弱」では政治が行き詰まってしまいます。それぞれ一定程度の勢力を持ちながら勝ち負けがあるからこそ政治に緊張感が生まれ、民意がそこに反映されるのです。それは政治家がいつも意識していなければならないことだと思います。
私は革新側も批判しています。「憲法九条があるから日本は平和だ」と主張する人たちは、憲法の埒外にあった沖縄の負担のもとで、戦後日本の高度経済成長、平和の継続があったという視点が抜け落ちています。
今の日本の政治はまったく民意を顧みない。国権の最高機関たる国会も、行政府の監視という役割を果たしておらず、与党内においても異論が封殺されています。日本の民主主義が危機に直面しているのです。
そればかりか、「(普天間基地の)もとは田んぼで何もなかった」「基地の地主はみんな年収何千万円」と発言した有名な作家のように、自分たちで日本の安全保障を守ろうという気概もない人たちまでもが、実態とかけ離れた暴言を吐いています。そこには沖縄に対する無知と無理解、差別意識があります。
沖縄という小さな島が、日米両国という大きな権力を相手にして戦うことは困難を極めます。 そうした状況を前にして、「沖縄は独立することを考えているのですか?」という問いが発せられます。 そして、そんな問いを受けるたびに、私は沖縄県民がここまで日本国民として受け止めてもらえないのか、と絶望的な気持ちになるのです。
もちろん、独立論は沖縄で積極的に支持される意見ではありません。これまでは居酒屋談義とされてきました。独立論がまじめに語られ始めた原因は、むしろ本土側にあります。 基地削減を求める沖縄県民の声が無視され続け、これに対して「日本の四七分の一として認めないのなら、いっそ日本というくびきから外してほしい」「独立すれば沖縄の意思で基地をなくせる」という気持ちの表れとして独立論が語られます。
今後、事態の成り行きによっては、独立の意思を表明する人たちが、沖縄から数多く出てくるかもしれません。しかし、それ自体が沖縄の不幸につながると私は思います。
そして、沖縄の独立を語る前に、日本本土が覚悟を決めて、米軍基地を全国で受け入れて、しっかりとした日米同盟をつくってもらいたいと私は思っています。日本国民一人ひとりが、基地問題を自分のこととして考えて、そしてその集約が日本の政治をうごかしていくようにならなければ、真の民主主義がこの国に根付くことはないでしょう。
沖縄の基地問題は、結局自治体と国の闘争という単純な話ではないのだ。基地問題に限らず、政治に関する無関心は、最終的に、大きな民主主義の傷となって日本国を蝕んでいくだろう。
ところで、この場合、基地問題の議論を終着させるのは誰の意見なのか?日本国民の多数決?沖縄県民の多数決?まぁ、現時点ではおそらくそれのどちらでもなく、「政権の多数決」なのだろうな。
まぁ、「多数決」が「民主主義」と思っているような人も多いので、この国の民主主義には期待できそうにもない。(ヘーゲル弁証法や「止揚」は、現社でやったっけ?)
下方婚であきらかに成功している例として自分を挙げたいがもうすでに終わったのとソースを出せないので、
リアタイ例としてhttp://www.kawauchisyun.com/ こちらの主夫さんを挙げておく。
また、勝間和代さん、女性芸能人(覚えてる限りで夫は歯医者など比較的高給とりだけでなく、ADや脚本家などもいる。歯医者にせよさほどの高給取りではないと思える)なども
おそらくすべて下方婚にあたるとおもう。
そのすべてが失敗例とはとても見えない。
(あとりゅうちぇるご夫妻なんかも最初色物扱いで女性のほうがしっかり稼いでいたように見えた。これは逆転婚とでもいうべきか)
勝間さんなど、結局は離婚しているものの、また再婚というかパートナーを見つけて子供を育てている。
旦那さんの意識を変えるのと、自分の属している方の意識を変える簡単な手として、
今は産休・育休を使って将来を見据えたり、あと体にうめこまれた出産ダメージという爆弾を除去してほしい。
だれにとってもこどもという愛しいくびきをつけたままの自己実現というのは難しいけれど、そのすべてが下方婚のせいではない。
これを言うのは残酷なことかもしれないが、あなたよりちゃんとできてる下方婚女性は現実にいる。
だんなさんも「生まれたての子供さえいなければ今すぐにも転職して上方婚状態にしてあげたい」と思っているかもしれない。
話し合うことが第一歩。
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26日の追記みたけど、貼ったリンク先を一個も読んでないよなーと。
ようするに、「男がこんなに気が利かないなんて。下方婚なんてするんじゃなかった」は二重に誤認がある。
あなたの男だけが気が利かないのであって全体に演繹してはいけない。
なので炎上ネタとしては男女ともにケンカを売るという基本的なやり方で成功してますが、
ほんとに胎盤剥離とかしたんならネットなんかしてないでとりあえず寝れば。
親戚に写真送って子守相談できそうな人を探すとか保育園活動とか解禁と同時に注射しまくりとか、別にやるべきことが相当あるわけで。
人事で他人のくびきりまくって有能だったけど恨みをかって駅のホームで突き落とされて死んだエリートサラリーマン
神と話して、お前女になって戦時に転生して苦労しろって言われて転生
でも魔法能力みたいなのと、生来のまじめさ、頭のキレがあいまってどんどん出世、活躍していく
本人は安全な後方でエリートコースでぬくぬくしたいと考えた結果のふるまいをしてるのに、「こいつそんなに前線で戦いたいと思ってるのか(驚愕」みたいに相手には受け取られて本人の目的とは真逆の方向にばかり進むギャグ(?)
アニメ1話だけみたけど、あの女キャラはちょっとしかまんがにはでてこんかったな
幼女である意味あんまねーなと思ってたけど、漫画やアニメだとビジュアル的にすごくインパクトあって、こういうラノベならコミカライズ、アニメ化する意味あるなあとなんとなく腑に落ちた
作中で幼女であることに対するのが「幼く見えるのに異常なやつだ」的な反応ばっかりでつまらんなー
幼年学校?では幼いのに主席?だったから上級生を半殺しにしようとして問題になったとかそこらあたりの話をリアルタイムで見たいな
転生してから貧しい家でどうふるまってあそこまでいったか、学校とかどうしたかとかのところ
最初からそんなのをチンタラやってたらつまんないからやってないのかもだけど、見れるもんなら見たいな
無職転生的な感じで
3巻の途中で視点がブルージャイアントみたいな「将来の人物から、今の人物がいかにやばかったかを語る」的な話もあって、戦記っぽい?というかちょっと珍しく感じた
悪い所編
・最強装備は買える(トレジャーハント度が低い)
ROとかはレアドロップ狙いみたいなとこありましたが、DQ10は装備は基本プレイヤーが生産しているのをマーケットで買う。
指輪、ネックレスなどのアクセサリーは、入場券必要なボスでトークンを集める(現物が出ることも)
従来のDQだと宝箱から出た武器防具が殆ど最終装備だったので悲しいといえば悲しい
・トレジャーハント要素がクソ
トレジャーハントをしたいという要望で実装されたシステムがめんどくさすぎたので、
もう今の時代レアドロップとかレアドロップ金策は肌に合わないのかもしれない
過去の幻影を見てるんだよキミたちは
FF14は召喚士のみだったので他のキャラ放置してたけど、ドラクエは職レベルを上げる事で、
キャラの素のステータスがあがるパッシブスキルがあるのでどの職もとりあえず50レベル前後まで上げないとならない
今は緩和されて60までは経験値3倍とかだけど、このパッシブ上げが苦痛すぎて1年間休止したことある(当時も50まで2倍とかだったけど)
まぁ、それで興味なかった職に興味を抱く、というきっかけにはなるかもだけど
初期実装マップ内の一度しかない宝箱の中身が笑っちゃうくらいクソ。
メインストーリの前提として、途中で必ずクリアーしないといけないクエストが科せられる。苦行
・バトルUIがクソクソ
→たたかう
じゅもん
とくぎ
どうぐ
さくせん
じゃねーよ!!!!!
とくぎ
じゅもん たたかう どうぐ
さくせん
って十字配置も選ばせろよクソが!!!!
パーティ→なかま
ギルド→チーム
ってややこしすぎませんかね?
・メニューがややこしい
はなす、つよさ、どうぐなどのおなじみの物にまじって、
せんれきとさくせんがイメージ難しい
しかもよく使う作戦のが遠いし。毎日せんれきを間違って選んでしまう。
それぞれの中に10項目くらい選ぶメニューがある。初期から煩雑になりすぎた。
基本体感でそろそろ溜まったなーってやる。クソか。
一応バトルログにも表示されるけど、バトルログは基本画面に表示されず、
開くと画面8割がふさがれる。バカか。
バフは5,6個とかすぐに超える。点滅で順番に表示される。
しばらくアイコンを注視しないと今かかってるバフを把握できない
・8人PTだと他の4人分の状況が見えない
ホイミ選ぶ所でもページ送らないと見えないしマジクソ
・視点が狭い
最大に引いてても敵に密着するとカメラが寄る
敵の行動の吹き出しが見えない。クソ。
・NPCしゃべりが長い
長い。石板っていう強化アイテム受け取るのに1個ずつしかもらえず、そのたびに2ページ分のセリフが流れるの本当クソ。
(その後のシステムもクソ)
昨今の強化システムの弊害で、職業チェンジ後のセッティングがめんどすぎる。
別に僧侶やりたくないのに切り替えめんどくて最近ずっと僧侶してる。
ドラクエらしさを重視しすぎてる。
あの設定なら、世界としてはかなり狂ってる。
あれだけ大仰に演出して一回ってことはあるまい。
あの世界、轟沈しない艦娘は史実上生き残った艦だけに限られる。
それ以外はくびきの餌食だ。
なぜ、雪風や響でないのかとか思う所はあるけれども、少なくともあの海域を支配していたのは、深海棲艦吹雪だ。
問題は、吹雪が融合しても、他の深海棲艦が消えたわけではない点で、作品世界的には終わりと言うより始まりなのだろう。
あれで吹雪が「卒業」するなら、もっと端的にゴールを示せるのだが、ゲーム的にもプレイヤーへの配慮的にも、出来ない演出とも言える。
http://togetter.com/li/1056062
なんていうかさ、あの世界が時間が巻き戻らないループ世界と仮定した場合、深海棲艦が同じ場所に同じように湧いて同じように戦闘がおこるってわけでさ・・・・
アホらしいと思わんか?その設定。
何度やっても、「くびき」とやらに引きづられ、いろんな艦娘が入れ代わり立ち代わり再着任してたはず。
吹雪の着任だって、着任前の記憶とか、劇場版で初めて確認するようなことじゃないでしょ。
まるまる1期使ってスルーされてたのに、真剣な顔でさも重大事のように確認する赤城と加賀。
興醒めも良いところだよ。
提督はいないんだからともかくとしてさ、長門や加賀辺りは、もっと諦観してないとね。
出撃に意味がないような空気を感じさせたり、抗ってる焦燥を出さないと。
劇場版を受けた補完で、それっぽくTVアニメを語ることはできるけれど。
あの箱庭を維持するために無理が為されてたのだとしても、もっとディストピア感ださないと、後付過ぎてさ・・・・
あの設定なら、世界としてはかなり狂ってる。
日本海軍は壊滅なんだから、ほとんどの艦娘は、「くびき()」とやらで轟沈するはずで、そのつど深海棲艦としてPOP。
轟沈から再着任のサイクル、どの程度なのかね?とか、そっちが気になったよ。
マジないわ。
アホくさいわ。
ないわ。
837 : 没個性化されたレス : 2010/04/20(火) 00:09:36
ACを商売にしてる人はACに根拠が無い事がばれてくると今度は
「負の連鎖」とか「虐待の連鎖」というこれまたまっったく根拠の無い概念で
新たなお店を開いているようです
838 : 没個性化されたレス : 2010/05/01(土) 18:57:32
根拠あるでしょ。十分に。
839 : 没個性化されたレス : 2010/05/02(日) 13:58:54
(傷付きやすく騙されやすい)ACをターゲットに商売をする人たちは
距離の近い親の本質を暴くことは、世の中の危険な人の本質を見抜くよりも簡単。
世の中、表面的にはイイ顔をしてても、中身は毒親みたいな搾取的な
結果として騙されたり、時間を無駄にすることだって多いのかもしれない。
840 : 没個性化されたレス : 2010/05/08(土) 19:27:01
それに騙されて身動き出来ない人がいるということ。
>ACが自身の主体性を取り戻し、社会性を得ることの難しさに、
ウソ概念で騙されているんだから主体性を取り戻せるわけがない。
カネを搾り取ったがもうカネも出て来なくなったら主体性を取り戻せという。
986 : 没個性化されたレス↓ : 2010/06/29(火) 22:37:15
アメリカのソーシャルワーカー達がアダルトチルドレンという無根拠なレッテル貼りを始めてから
もう40年という月日がたってしまった。
それを利用したAC業者やマスコミが被害を拡大させて、日本でも30年近くこの無根拠な概念が暴威をふるった。
このAC概念は無根拠なくせに極めて専横的で疑いを許さなかった。マスコミとAC業者がそうさせなかったのだが。
AC概念は人々を苦しめ、裁き、断罪し、この概念のくびきのもとで生きる事を強い、いささかの救いの道をも与えなかった。
ACは無根拠であるが故に疑いを許さなかった。ヒットラーのように。北朝鮮のように。
AC収容所の人間は小石のようなあきらめをしゃぶり乾きを癒すしか無かった。
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/psycho/1035617398/837-
最近では全てが承認欲求の為ではないかと思うようになってしまった。自分の一挙手一投足が承認欲求の為だと思えてならず、意識する度に死にたくなる。
好きな作家の新刊を手に取る。恐らくこれはSNSに感想をアップして感情を共有し、承認欲求を満たすための行動なのだろう。そもそも好きな作家というものも承認欲求から来たものだ。「新刊買いました!」とでもtwitterでつぶやけば、エゴサーチをしている作者にfavoriteしてもらえるのだ。2000円足らずのハードカバーで1fav。なんて安い出費だろう。そしてそういう思考が頭をよぎったことに気が付き、本を棚に戻す。買ったとしてもどうせ読まないのだ。購入報告の1favで、きっと私は満足してしまうから。感想を共有するなんて面倒ことをしなくても、承認欲求は満たせる。
そういう思考をしている限り承認欲求が満たされることはないし、一生本を買い続ける生活をするだけで終わるんだろう。そして「満たされない!満たされない!」と叫びながら死ぬ。なんて無様な人生だ。承認欲求がある限り、そのくびきからは逃れられない。首をくくりたい。今すぐ死んでしまいたい。でもその自殺という行為すらも、憎むべき承認欲求を満たすための行為であることに気が付いて、ロープを結ぶことすらも出来ない。
承認欲求がある限り、全ての行動は承認欲求を満たすために行われる。全ての感情は承認欲求を満たすためにある。こんな唾棄すべき人生、どうすればいいのだろうか?きっと、一生こうして半匿名のような形で、承認欲求を満たしていくしかないのだ。ガス抜きするしかないのだ。あー死にたい。承認欲求を満たして死にたい。戦争か、シリアにでも行けば救われるのか。
興味のあることを仕事にする。好きなことを仕事にする。たとえばまんがをかくとか。そうすると人は急にバカにする。その仕事を自分より下に見る。そしていう。
「好きなことをしてお金を貰おうなんて考えるな」
自分たちが、厭なことをして、おかねのために、毎日毎日耐えているからって、それをもって攻撃的になるはおかしい。しかし、それをおかしいと思うと、自分がかわいそうになる。
もっと仕事をころころ変えられる社会なら、もっと自分に仕事を合わせられるなら、選べるなら、幸せも少しは近くなるだろうに。人が作ったお金という道具に人は支配される。そして、そのくびきから逃れている人を見つけると攻撃的なる。自分と同じになれ、と呪う。
そんなことを感じた。もうコミケだ。
もともとオスとメスでは、どの生物もメスがオスを選別する側だが、人間の場合はさらに顕著だ。
というのも
基本的に性行為が出来るということは、能動的に動き回れる一定以上健康な個体であり、つまり群れに貢献する立場の個体だ。
特に原始人類の生命線である炎の管理や、暖を取る衣服を作る技術、動物性と違い切らすと即飢えに繋がる植物性栄養源の採取など、群れのライフラインは概ねメスの管轄にあった。
そいつが一匹無駄に死ぬのは群れにとっての損失となる。社会性が強ければ強いほど、そういう損失は個体が子供を残すことより重要だ。
群れの構成員が一匹増えるか、一匹減るかという、五分五分のギャンブルなので、必然的に成功確率が高い間は挑んで良いが、成功確率が下がる年齢になると、メスはとっとと閉経して、以降生殖から解放され、単純に社会を維持する活動に専念するようになる。
更にそもそも生まれた子供は、これまた二足歩行の弊害で、他の哺乳類に比べ極めて未熟児の状態で生まれてくる。
成体まで持っていくには、多分なリソースを注ぎ込まねばならず、あまり育てるのに乗り気がしない子供は、原始社会では産まれてまもなく母の手で間引きされた。
選んで選んで、なんなら一生産まない方が群れへの貢献になるなら、一生産まない選択肢も下手に産むよりは良いことであり、それでもなお育てると選んだ子供だけを群れに加えて良い。
女性はひたすらに選ばなくてはならない性だ。
一方男はリスクがない。
時間がたてばたつほど精子は劣化し、それを示す加齢臭によって女性に避けられるため、選ばれる確率は落ちていくものの、別にそれでうっかり選ばれたとしても、特に子供が出来ないか、問題児が出来ても間引けば良いので、とりあえず生殖能力を維持し続けても群れの害にはならない。
ひょっとすると上手い具合に年を食っていても、育てるに値する子供が生まれる確率もないではないし、棚ボタ狙いも込めて、生殖能力は維持され続ける。
かくして例え一生涯相手にされないままでも、性的な存在であることから免れない。
選ばれることがノーリスクな分、選ばれるに越したことはなく、逆に一生選ばれないというのは、自身が無価値な存在であるということをダイレクトに突きつけられる。
なんで自分はこんなに求めているのに、向こうは誰もが片っ端から自分を断り続けて、自分抜きの方が幸せに生きられるというのか。選ぶ側になれるものならなりたい。選ばれたがる必死な相手から、自分は断れる立場になりたい。
しかし基本的にリスクがある側が、リスクと天秤にかけて選ぶ形になるのは当然だ。リスクのせいでそもそも、相手を求める度合いが釣り合っていないのだ。
一方そんな女達も、ノーリスクで選ばれる側に立てる男を羨む。
自分ではなく相手が「選んだことによるリスクの全て」を背負う。相手はそれだけのリスクを背負う覚悟を持った上で選んでくれる。そんな立場。
選ぶものと選ばれるものでは、結果は常に選ぶ者の責任になるが、その全てを負わなくて良い。選ばれずともデメリットはない状態で、あれやこれやつまみ食いする自由がある。
出来るものなら何の責任もなく、そういう立場になりたい。そう羨む。
しばらくして時代が下り、人口密度が高まると、部族闘争が増え、男の地位が高まり、やがて男達がライフラインを握って、全てを支配する文明の時代がやってくる。
初期は誘拐婚などで、オスが好きなメスを強制的に選ぶ方式ができる。
ただこれ、選ばれたがる相手の中から、優越を持って自分が選ぶ立場になれるようなものではない。
どっちかっつーと、選ばれるせいで女性は不幸になる。つまり女性としては選ばれないに越したことはない。女が男に選ばれたがってくれない。結局形的には選べても、根っこは元のままである。
あるいは交換婚が発生する。女を村の財産として別の村と交換する方式だ。
村と村の関係の円滑化にはなるが、やっぱり女性は嫌がるので、実質誘拐婚と同じである。
やがて社会構造が複雑化し、階級が生まれたあたりで、なかなか上手い制度が生まれる。
上位婚・下位婚。身分の高い男性が、低い女性を選んで結婚する。
社会の中で一番高い身分は大体男性が占めるので、最下層の男性を除けば、誰もがそれなりに結婚機会に恵まれる。
めでたしめでたし……か?
しかしオスにとっては、メスとくっつければそれだけでプラス事象だが、メスにとっては自分が選んだ相手以外とくっつくのは、一生独身であることよりも悪いマイナスでしかないことは、どうあがいても変わらないのだ。いくら文明が発達しても。
女は嫌な相手と結ばれるマイナスを帳消しにするだけの、生活環境の向上が約束されてようやく選ばれたがるようになる。
いずれの場合も、金や地位が女を選ぶ権利を持っているのであり、男は金や地位を持つことは出来ても、女を選ぶ権利を手にすることはないのだ。
相手が地位があれば、それを失うリスクが発生する、と一瞬は考えられる。
男がリスクを推してでも女を選ぶ、そんな幻想が成立するように。
しかし実際のところリスクなんて形式的なレベルくらいしかなく、大した障害もなく男は女を選べてしまう。大した覚悟もいらないままだ。
結局このシステムは、擬似的に男を選ぶ者に、女を選ばれる者にしようとはしてくれるけれど、本質的にお互い選ぶ立場にも選ばれる立場にもなれないものだ。
全員が全員、生物的なくびきと無関係に生きられるほど、余裕に溢れているわけではない。
そして中には、膨らんだ幻想を現実とごちゃまぜにしていく人たちもいる。
今でもはてなには、女同士では絶対に仲良くなれないのがデフォだとか、婚期逃して後悔する女とか、あり得ない女の幻想物語を書き散らす人がいる。
今でもブログ界隈には「仕事と私どっちが大事?」的な質問で自分を選んで職場での不幸に耐えたり、複数の女性をリスクなしに渡り歩いた結果職を失う、ありえない男の幻想物語を書き散らす人がいる。
「お前らも男に選ばれないことで不幸になれよぉぉぉぉ」という男の怨嗟と「お前らも女を選ぶことで不幸になれよぉぉぉぉ」という女の怨嗟が漂っている。
どちらも現実には叶わない夢であるがゆえ、怨嗟の声は終わらない。
女にとって独身より下手な男に目をつけられることのほうが不幸だ。女性は嫌いな男をどれだけ断り続けても、無事閉経すればむしろ男に目をつけらずに済む平和な状態になり、後は女同士で楽しく年を取っていくものだし、男性は女をどれだけほいほい軽率に選んでも、まったくリスクを背負わず、何度失敗を繰り返そうが男性社会での信用を失わず、そのまま平和に生き続けるものだ。
考察が合ってるかどうかはしらんが。
いやでも本当に、ハーレムものはいかにして、主人公に選ばれない女の子を不幸にするかに血道をあげて、逆ハーものはいかにして、主人公を選ぶ男の子を不幸にするかに血道をあげてるからなぁ。
基本ハッピーエンドものだから、両者とも不幸になる可能性を匂わせた上で、概ね結ばれた上で不幸を回避するけども。
ハーレムものだと大体、女の子は何かしか問題抱えていて、主人公と仲良くなりつつも、問題が肥大化して行き、何とかしなければならないと思った主人公の行動が、彼女を救ってめでたしめでたし。
逆ハーだと地位が高かったりするキャラは、大体それを失うリスクを犯してでも主人公を選ぶ展開、ってのをやるためにその地位持ってる。地位を失っても二人で新しい人生歩んで、それはそれで幸せ、的な結末がデフォ。
それぞれドス黒い感情を、上手く綺麗な世界に昇華しているというか。
あ、あと青年漫画・少女漫画の、異性の三下悪役とかも特徴的だよなぁ。
青年漫画でヒロイン苛める意地悪な女の子が、主人公とかに声かけた挙句振られて「女として屈辱」みたいな。
ねーよ。声かけた男に選ばれないのは、大した屈辱でもないよ。はんっ、空気よめねー奴、って思う程度だ。
どっちかっつーと声かけてもいねーキモイのに、声かけたと勘違いされて付きまとわれるほうが、よっぽど屈辱的で不幸だ。
逆に少女マンガで、ワルな男の子が所属するワルな組織で、そいつが主人公選んだせいで、「掟破りだ!!」って、男の子ボコボコにしにくる悪人仲間の男。
ねーよ。ボスの女ちょろまかしたとかでもない限り、こいつが食い扶持に困ったら女のところに転がり込ませときゃいいな、いざとなったらソープに沈めて金づるに出来るし上手くやっとけよ、ってくらいだ。
『数学ガール ガロア理論』の第10章(最終章)がそれまでの章に比べて難しくて挫折するという感想がけっこうあるようなので、その補足的な解説を試みます。『ガロア理論』第10章はガロアの第一論文を解説しているので、解説の解説ということになります。
と進んでいきますが、ミルカさんはその途中で何度も、ガロアの第一論文のテーマが「方程式が代数的に解ける必要十分条件」であることを確認します。
なぜ何度も確認するかといえば、最後の定理5(方程式が代数的に解ける必要十分条件)以外は、一見したところでは「方程式の可解性」に関わることが見て取れないので、途中で確認を入れないと簡単に道に迷ってしまうからでしょう。定理2(≪方程式のガロア群≫の縮小)や定理3(補助方程式のすべての根の添加)は、目的の方程式を解くときに利用する補助方程式に関わる話ですが、やはり定理を見ただけでは「方程式の可解性」との繋がりはよく見えません。
そこで逆に、いったん「方程式の可解性」の話から離れて定理5を除外して、それ以外だけに注目します。
「方程式の可解性」から離れて見たとき、定理1から定理4までで何をやっているかというと、
ということ(ガロア対応と呼ばれます)を示しています。ミルカさんの言葉を使えば(p.362)、体と群の二つの世界に橋を架けています。
この体と群の対応関係を図で見ると、10.6節「二つの塔」の図(p.413、p.415、p.418)、あるいは
http://hooktail.sub.jp/algebra/SymmetricEquation/Joh-GaloisEx31.gif
http://f.hatena.ne.jp/lemniscus/20130318155010
のようになります(この体と群の対応関係は常に成り立つわけではなく、第8章「塔を立てる」で説明された「正規拡大」のときに成り立ちます)。
体と群に対応関係があること(定理1~定理4)を踏まえて、定理5を見ます。
「方程式を代数的に解く」というのは「体の拡大」に関係する話です。
「方程式の係数体から最小分解体まで、冪根の添加でたどりつくことが、方程式を代数的に解くことなのだ」
(第7章「ラグランジュ・リゾルベントの秘密」p.254)(ただし、必要なだけの1のn乗根を係数体が含んでいるという条件のもとで)
そこから、「体と群の対応」を利用して、方程式の解の置き換えに関する「群」の話に持っていくのが、定理5になるわけです(なお「方程式を解くこと」と「解の置き換え」が関係していることは、すでに第7章に現れていました)。
「≪群を調べる≫って≪体を調べる≫よりも(...)」
ここまでの話で、定理4までで行いたいことが「≪体の世界≫と≪群の世界≫の対応関係」だということが分かりました。
しかしこの対応を示すためには、まず、この対応関係における≪群の世界≫というのがいったい何なのかをきちんと定義しないといけません。
≪体の世界≫というのは「体の拡大」で、これは8章「塔を立てる」で説明されています。
一方、その「体の拡大」に対応する「群」は「方程式の解の置き換え方の可能な全パターン」なのですが、これが正確にどんなものなのかは10章以前には定義されていません。
(以下、4次方程式の例をいくつかあげますが、面倒なら流し読みでさらっと進んでください)
たとえば一般3次方程式では、解α、β、γの置き換え方は全部で6通り(3×2×1)あります(第7章p.252)。同様に考えると、一般4次方程式では、解α、β、γ、δの置き換え方は全部で24通り(4×3×2×1)あることが分かります。
ところが、x4+x3+x2+x+1=0という4次方程式を考えてみます。これは5次の円分方程式です(第4章「あなたとくびきをともにして」)。
x5-1 = (x-1)(x4+x3+x2+x+1)なので、この方程式の解α、β、γ、δは1の5乗根のうちの1以外のものだと分かります。したがって、解の順番を適当に選ぶとβ=α2、γ=α3、δ=α4という関係が成り立ちます。
これについての解の置き換え方を考えると、αを、α、β、γ、δのうちのどれに置き換えるかを決めると、それに連動して、β、γ、δがどの解に置き換わるかも自動的に決まってしまいます。たとえばαをβ(=α2)に置き換えると、(β、γ、δ)=(α2、α3、α4)は、
(β、γ、δ) = (α2、α3、α4)
↓ αをβに置き換える
(β2、β3、β4) = ((α2)2、(α2)3、(α2)4) = (α4、α6、α8) = (α4、α1、α3) = (δ、α、γ)
となるので、
(α、β、γ、δ) → (β、δ、α、γ)
のように置き換わります。αの置き換え方は4通り(α、β、γ、δの4つ)なので、この4次方程式x4+x3+x2+x+1=0の解の置き換え方は次の4通りとなります。
(α、β、γ、δ) → (α、β、γ、δ) = (α、α2、α3、α4)
(α、β、γ、δ) → (β、δ、α、γ) = (α2、α4、α6、α8)
(α、β、γ、δ) → (γ、α、δ、β) = (α3、α6、α9、α12)
(α、β、γ、δ) → (δ、γ、β、α) = (α4、α8、α12、α16)
あるいはx4-5x2+6=(x2-2)(x2-3)=0 という方程式を考えます。解は√2、-√2、√3、-√3の4つですが、この場合「√2と-√2の置き換え」や「√3と-√3の置き換え」は許されますが、「√2と√3の置き換え」は許されません。
なぜかというと、(√2)2 -2 = 0、という式を考えると分かります。この式で√2を√3に置き換えると、左辺は(√3)2 -2 = 1となり、一方、右辺は0のままです。このような等式を破壊してしまうような解の置き換え方は認められません。そのため、可能な解の置き換え方は4通りになります。ただし、4通りの置き換え方のパターン(解の置き換えの「群」)は、5次円分方程式のときの4通りの置き換えパターンとは異なっています。(α、β、γ、δ) = (√2、-√2、√3、-√3)と置くと、可能な置き換え方は
(α、β、γ、δ) → (α、β、γ、δ) = ( √2、-√2、 √3、-√3)
(α、β、γ、δ) → (β、α、γ、δ) = (-√2、 √2、 √3、-√3)
(α、β、γ、δ) → (α、β、δ、γ) = ( √2、-√2、-√3、 √3)
(α、β、γ、δ) → (β、α、δ、γ) = (-√2、 √2、-√3、 √3)
となります。
では、「認められる置き換え方」であるためにはどのような条件を満たす必要があるのかというと、それは
というものです。つまり解θの最小多項式をf(x)とすると、解の置き換えをしたときに、θはf(x)の根θ1、...、θnのどれか(この中にはθ自身も入っています)に移らなければなりません。この条件を満たしていれば、等式に対して解の置き換えをおこなっても、等式が破壊されることはありません。
解の置き換えであるための必要条件が出ましたが、この条件だけではx4+x3+x2+x+1=0のときのような、解の置き換えで複数の解の動きが連動しているような場合をどう考えればいいのかは、まだ分かりません。x4+x3+x2+x+1=0のときは一つの解の動きを決めれば他の解の動きが決まりましたが、方程式によっては解の間の関係はもっとずっと複雑にもなりえます。
しかしそれは、たくさんの解を一度に考えるから解の間の関係が複雑になって混乱するのです。
もしもx4+x3+x2+x+1=0のときの解αのように、ただ一つの解の動きだけを考えて全ての置き換えが決まってしまうならば、話はずっと簡単になります。
そして、その「一つの解の動きだけを考える」ようにしているのが、
です。
体に注意を向けたほうがいい。添加体を考えれば、補題3の主張は一行で書ける」
K(α1、α2、α3、...、αm) = K(V)
これによって、「解α1、α2、α3、...、αmの置き換え」ではなく、ただひとつの「Vの置き換え」だけを考えればいいことになります。
これと、解の置き換えの必要条件「解の置き換えをおこなったとき、解は、共役元のどれかに移らなければならない」を合わせると、「解の置き換え方の可能な全パターン」とは、「Vから、Vの共役への置き換えのうちで、可能なものすべて」となります。
そして補題4(Vの共役)は、「Vの(共役への)置き換え」をすると、もとの多項式f(x)の根α1、α2、α3、...、αmの間の置き換えが発生するという性質を述べています。つまり「Vの置き換え」によって「方程式f(x)=0の解の、可能な置き換えが実現される」わけです。
この考えにもとづいて「解の置き換えの群」を定義しているのが、定理1(≪方程式のガロア群≫の定義)の説明の途中の、10.4.4節「ガロア群の作り方」です。
(ガロアは正規拡大の場合にだけ「解の置き換えの群」を定義したので、正規拡大のときの「解の置き換えの群」を「ガロア群」と呼びます)
前節で、証明のかなめとなるVと「解の置き換えの群」が定義されました。Vの最小多項式fV(x)の次数をnとすると、次が成り立ちます(最小多項式は既約で、既約多項式は重根を持たないので、Vの共役の個数は最小多項式の次数nと一致することに注意する)。
※1 考えている体K(V)に含まれない数へのVの置き換えは「解の置き換え」には認められないので、「解の置き換え方の個数」と「共役の個数」は一致するとは限りません。
※2 「最小多項式」は8.2.8節「Q(√2+√3)/Q」と8.2.9節「最小多項式」で説明されていますが、最小多項式が既約であることと一意に決まること(8.2.9節p.282)は、定義(可約と既約)と補題1(既約多項式の性質)から証明されます。
そして、
したがって正規拡大のときには、
という等式が成り立ちます。この関係が「体と群の対応」の第一歩目になります。
ことを主張しています。
そして定理2(≪方程式のガロア群≫の縮小)と定理4(縮小したガロア群の性質)で、
ことを主張しています。
ことを主張しています。
このように定理1、定理2、定理3、定理4によって、体と群の対応が示されます。
方程式が代数的に(つまり冪乗根によって)解けるかという問題は
と言い換えられます。そして、
ので、「適切な冪乗根が存在するか」という問題は「適切な正規拡大が存在するか」という問題になり、体と群の対応により
という問題になります。この「適切な正規部分群があるかどうか」をもっと詳しく正確に述べたのが定理5です。
それでは改めて第10章を読んでいきましょう。
(追記: 数式の間違いの指摘ありがとうございます。訂正しました)
やってなくてもわかる、ドラゴンクエストモンスターズスーパーライト (DQMSL) のガチャの敗因と背景くわしいまとめ
なお、筆者はまだ課金してなかった (課金ガチャはログインボーナスと詫びジェム貯めて引いた)
あと、ガチャの是非について。ガチャがあれば他の課金要素をゴツゴツ用意する必要がないことは大きいと思うんだ。
ガチャをやらないと、以前2chで叩かれたGREEの無料釣りゲームみたいに「無料の竿だと釣れない。2000円の竿を買ってやっとスタートラインに立てる。しかも竿はたまに壊れる。」とか、「モンスターが仲間になりたそうにこっちを見ている。 →無料で誘う(仲間になる確率10%) →200円で誘う(100%)」みたいなゲームを破壊する要素を沢山入れないと、なかなか基本無料での展開が成立しないから。それだったらもうガチャありでいいよ。改訂前の DQMSL みたいな凶悪なのはやだけど。
かつてのドッドッドリランドとかのような、無課金を客として見てなかった時代と違い、モバグリの魔の手を離れたこととパズドラの影響で課金アイテムが頻繁に配られようになったので、「無料でも遊べるし、足りなければ課金する」という流れができたのはまぁいいんじゃないかなと (ソシャゲ初のガチャゲーであるドラゴンコレクションは無課金でも楽しめたんだけどね。後発はドラコレのガチャビジネスだけ真似されて、運営の良心はなかなか真似されず、パズドラでモバグリが廃れるまで業界を荒らされまくった)。
さらに別に基本無料のゲームが増えたからといって、買い切りのゲームがなくなるわけじゃないし。ましてやドラクエモンスターズは3DSでリメイク出たばっかだ。
え、何それ逆切れ?w
だったらキチガイとか言って投げ出さんと最後まで論証の面倒みなよ。一瞬自己紹介かと思ったわw
あとそのネタは知らん。
そういう人も善悪の彼岸まで突き抜けてしまえば(その可能性があるのかないのかわからん)、突き抜けてない限りは正義感の話にとどまれる。突き抜けなければ、突き抜けていない。ほとんど何も言ってないに等しいくらい、当たり前の話だな。
突き抜けてない限り正義感の話にとどまれる、というのがどういう意味かわからん。
釈迦はそもそも正義から出発したのでもなければ正義を目指したわけじゃないし行きついたところも別に正義じゃないのに、それが正義の範疇の話になるのはなぜですか、って聞いてんだよ。
大体彼は確かに良かれと思って説いてただろうけど、同時に「これでは衆生は救えないかもなー、誰にもわかんないかもなー」とも言ってたはずだろ。
勝手にガイキチの話に置き換えて片付けなさんな。
憎悪が「形式を得る」とまずは義憤とかそっちに進化すんじゃないの。
形式と言うのはそれにはめることで無関係の人間とも共有できるようにするフォーマットのことだろう?
正義っていうのは我が身から距離のある物事にマジになるってことで、憎悪は我が身を燃すものだから、
形式だけじゃ利己との距離の取り方が甘いと思うな。
そして正義が美しいのは、「我が身から距離のある物事に」マジになるからだ。
マジになる姿の美しさならある種の憎悪にかなわない。いやこれは個人の好みもあるけど。