はてなキーワード: いらすとやとは
その通りと思うが実際にならない理由は戦後発展の共同体任務なく生活できる解放感の体感価値が高すぎと人身御供の儀式の意義と必要性義が喪失しているので継続的に慣習を維持できないところかと。
前提として
金があればみんな黙るともあるがそんなのは当たり前で金がないから文句をいう始末。文句を言うだけならいいけど金がないのを理由に感染を広めているのだから金がないなら感染させていいという感覚より金がないけど感染させたら死ぬからどうしたらいいの≒死んでということを暗に理解をするべきところ。
人間一人が生活できなくなることが問題だから社会で生活する10人なり100人なりに感染させてそれらに活動を停止させるリスクを背負わせる事のほうが倫理的でそれが社会の共同体、助けあいってもんだろというのならそうだろうけど、感染を拡大させるようなやつをどうすべきかははっきりいってやってほしい。
病院の受け入れがどうのということにもなるだろうけどそれいまさらいってもそういう金をもらえたら休むけどという人がさきに入り詰めてもうあふれてるわけなのだから第二陣以降は金がなくなって死ぬなら死ぬしかない。
全員に回らなかった金も人数が少なくなれば少しばかり出せるようにもなるかもしれない。
まずその団体への貢献が必要という思想が海外の宗教徹底からくるそれとは大きく異なるし、個別に分断されることがどれだけ個人にとっては楽しくメリットがあるかという甘い汁は依存性の高い麻薬のようなもの。
しがらみや血縁のストレスからいったん解放されたものはもう団体に属すのは金をつくるためだけの疑似人格がやっていることで本当の自分は仕事以外の時間にいるしむしろ死んだら自分が支配する側(されるのはどれだけ嫌がっていたのか記憶していないのか)になりたいと言い出す始末。
個人が村から追い出すのはその行動の残酷性が楽しくしかも団体が責任と批判を肩代わりしていくれるので、自分は意見を言っただけといえるのでおそらく陰口私刑は多く行われる可能性は高い。
村の存亡をかけた使命感から悪役を買って出るなんていう人間はまずいないだろう。
そうすると観測点から匿名で行動する者が増えるだけで、それらを逃れた潜在的な問題は浮上するまで目につかないところでリスクを増大させることになる。
具体的に人物ないしは役職がそれらをくまなく取り上げ批判する団体行動が必要になる。
その批判側の団体ですら属することができない人間が単発で提示された情報に食いついて扇動した人間の意図どおり攻撃する以外できない。
直線方向にしか飛ばない火をつけたら飛んでいく兵器と同じである。たしかに有用ではある。だがお祭りのように直上に放って炸裂するのを見て楽しむ風流ものではない。
その使いどころの微妙な要素を具体的に結果を望む方向にあわせ必要なタイミングを待ち効果的な配置で使う指導者やその命令が直接伝達されなかった場合に独自の判断で行動するための指針が必要になる。
団体を形成した時点でルールや定義はある程度理解をしているだろうしさせられることもある。それに従えばよいのだが局面としてその指示を得られず単独で判断を必要とする場面がくる。
それは個が団体の一員として行動をする瞬間そのものでもあるし、行動作戦中でもあるだろう。
確実に団体へ有益な結果を出すべく個人行動をするときに考えるのがリーダーの名前であったり家族の名前であったりすると、固定的に帰着する必要性の対価がある。
自分の命が、何と交換されるのかという式において、神に返す天皇万歳、残された家族にコミュニティから手厚い補償があるはずだという信念、それらを抱くための偶像が必要になる。
自分の大切なものは自分で考えろと、個に浸りきった考えでは至るだろうけれども自分で考えた主神に祈ってその効果が期待できるだろうか。
ぼくがかんがえたさいきょうのあんぱんまん、というメモを胸にそのさいきょうのあんぱんまんが家族を救ったりコミュニティを守ったりすることを妄想しながら自分は死ねると覚悟ができるだろうか。
できる人間はいるだろうしそれはもうこの話の指摘に含まれるほど大多数ではないので、イケるなら個人で逝っておいてほしい。
天皇や親鸞やキリストやあこがれの先輩や王なり首相なり、その名前に少しでも威厳を感じたりそれらに自分は損害を払っても貢献したいと考えるそれが必要になる。
その自分がポリシーとしている事についてなにをすべきで何がすべきでないか、自分の人生を形成しているそれともいえる対象のサブストーリーを考えれば自身の成すべき行動も必然的に選択されるはず。
従っている上位存在についてそれらが怒らず喜び、受けつけ歓迎されて失望されず見放されない、すでに周知されているはずのそれらについて自分の可能な行動が選択できるようになる。
短期的に前例のない突発事項へそれを行使するためには、単発的な神が必要。その神というのが人身御供、実際に最初に目的のために死んだ人間をつくることでその意思を複製し行動することに意義を感じ忘れず方向性を個別に同じ方向へ維持できるようになる。
かつて女児がそれを担っていたのは村で一番価値のある生命といえば生命を生み出すことができる女性であり若くてだれからも愛でられる人の子であればまさにそれである。
その無念を晴らすという感情や、無駄にしない行動を慎重にとるという基礎行動ができる。
この団体行動のデメリットの不快感が現在手に入れている個の解放感に比べ非常に大きいのと、継続的に意思を維持できない偶像の消耗具合がそれらを成功に導かないと想像される。
問題点を具体的にあげてダメだというだけであればただのネット論客()と同じなので、これらを現代に差し替えられる提案を一つしたい。
私個人が挙げる候補としての一つなので、人の数だけ提案はあるだろうしそのうち成功できる策もあるだろう。
個の魅力は無限である。部屋に閉じこもって生きてさえいれたらそれだけでいいという人間すらいる。絶望とはなにかを問う事すらできない。
永遠の命に魅力を感じるという人間はみなこの性質があるだろう。
生きていけないという条件に個を追いやると、全部の個がそれに当たってしまいコミュニティの維持が出来なくなるのは必至。
生かしたまま、とそれだけで個のメリットを充分に満たすのでそれ以上のが必要なくなる。まさに生きる無駄となる。
オンラインゲームですらメリットしかないはずなのにコミュニケーションの不和から天国で殺し合う結果になる人間。
言語による意思伝達しかもたないのでそれに変換できる行動理解でしか他人を理解できないため齟齬がおきる。
ならばコミュニケーションを団体が代行し個人は完全に個のままで行動できるように形成する。
国家の国民管理方法をオーバーライドして氏名や住所や身体そのものという動員をもって行動をしたりするだろうそれを完全に匿名にする。
そして団体の行動は個で行いその集積は団体で行う。個人間のコミュニケーションは無し。メリットの変換は個人の特定されないもの。
現金などを団体から個人に平等に。コミュニティの貢献が実質自分の手取りになり上下や不平等貢献度の差など感知されないようにする。
個と個のリレーを行う仕組みをネットや端末で補うことで可能なはず。
構成員同士が顔を合わせる可能性をあらかじめ禁じた方向で維持をする。
手段が分散しては即時完全に意味を無くすので唯一無二の連絡方法をもってその団体とするのであれば可能だと考える。これが団体行動への一案。
人身御供については実際に志村けんが第一波でなったそれだと考えるが維持性能としてはそれを継続的に支える母体がなかったため消滅したと思われる。
志村けん財団やファンクラブなんてものが存在しそれがコロナによる死を無駄にしないという提言をしていれば、また志村けんをふたたび殺すなと行動ができるはず。
支持を継続できる人物、あまり深く知られていないが表面上愛されて価値があるそれ、アイドルなりを掲げればと思うが実際に人間がそうなる意義をもはや失っている現在効果は期待できない。
ならばアニメや漫画、Vtuberのようなものを人身御供にするのはどうだろうか。
あのアニメがもう10年前、15年前、20年前のものだったと世代差に驚くトゥギャッターがときどき浮上するそれを掲げるのだ。
しかし実際に葬儀を行われたアニメキャラや数多くのキャンペーンに使われたものたちもなんら方向性を代弁したり団結する意思の基礎とはなっていない前例から難しいだろう。
では継続的に伝承となっているキャラクタの特性を利用するのはどうだろうか。
平将門、アーサー王、ゼウス、サタン、定番とされているような名前以外なにもよくわかっていないのになにかしらの方向性を決定するのに大きな推進力となる現在に存在していない人型のものの名前は多くある。
なぜ名前だけしか存在しないのにそれだけ利用されているのか、それは支持層があるから。実際にそれが存在しているという文章や建築物、そこに人を集める方法があり公知されるしくみがある。
これらを象徴とすることで行動の指針とできるしそれを語るだけで人を説得することができる。モニュメントの意義とはこれだ。
ガンダムを実在させたというアトラクションもあった。何かはわからないけれども炭治郎というのもなんとかの呼吸をしていた。
これらを維持継続させるオブジェを存在させるか、支持する団体を存在させればその認知度がすなわち行動指針への再利用価値としての生贄になりえるのではないか。
ガンダムや鬼滅、アイドルといえば何か、現在結果からみてそれらの共通点といえば「ごり押し」だろう。
ごり押しの失敗例としては剛力彩芽があるだろうけれどもあれは個人だったので好き嫌いが別れて分断することは当然であった。
ポスト和田アキ子みたいなものを企画側が創造できることを実証したかったのかもしれないが結果失敗に終わっている。
では団体にしてしまってどれがどの顔なのかもわからないような女子集団にすればどうか。これは成功している。
毎年もっともよい状態の女子を人としての情報が出てこない間に使う。無料で配布することの威力はK-POPが示している。
無料配布で素材利用ができる一定量の女子団体を形成して順番にコロナで消滅させていけば、全員が息絶えるそれまでのドラマを行動に使えるのではないか。
攻勢に予防をするためのキャンペーンキャラクタでもよいし、感染して死んでいくキャラクタでもそれは運営の手腕による。
それ以外の選択肢を無くして動員を図ると自然と動員は成される。他にないから行かないとならないのは実証済みである。
収益について関係各位が綿密に分配を算段する必要があるだろうけれども、その収益活動が金銭とそれをさらに継続的に生み出す人の命も救うのだと思って計画が成されたらというのが一案。
いらすとやのようなフリー素材として使える期間限定アイドルグループ、コロナで私刑を容認する村社会アイドルを全国デビューというわけだ。
これが現実的でない理由を二次創作かさねていだく必要はない。実際に存在していないしこれからも存在しないだろう。
存在していないものについてさまざまに論じていただく「だまされておどけた姿を晒してそれにより本題がいかに愚かしいか」という恥ずかしい踊りをしていただく必要はないのだ。
案があればそれを出してそれをもってこの案を否定していただいたらよい。
取り組むべきではないと考えるそれならば、口をつぐんでおくのが得策であろう。
特にはてな界隈で度々取り上げられて話題となっていた「いらすとや」のことを、前からなんとなーく気にはなっていたので
今年の年賀状で思い切って使ってみた。
まず、イラストの種類がとても豊富だったので、表現してみたいと思っていた通りのイラストをすぐ見つけることができた。人物だけでも、老若男女、あらゆる服装、あらゆる表情のイラストがあるので、表現してみたいと思うものについての選択の制約がほとんどなかった。
次に、画像は透過PNG形式なので、画像の加工の手間がほとんどなかった。例年だと、どこかの画像を持ってきてから、年賀状に使いたい部分だけ切り出したり、背景の色を潰したりの作業で地味に時間が掛かっていたが、いらすとやの画像ではそのような作業は一切不要だった。
今年は皆さんご存知の通りの世界的事情なので、私も今年の年賀状の人物には、どうしてもマスクをつけないわけにはいかなかった。
いらすとやのトップページにはPC版の場合、イラスト検索欄のすぐ下に、マスクのイラストがついている。
失礼ながら正直なところ、こんな画像が使い物になるのだろうかと半信半疑だったが、マスク画像を人物のイラストの上に置いて拡大縮小の操作をしてみると、これがなんと全く違和感なくピッタリと顔に合ったのだ。
もちろんいらすとやには、最初からマスクを着けた人物のイラストがかなり豊富に用意されているのだが、マスクを着けていない人物とマスク画像との組み合わせを行えばほとんど何の問題もないので、今後出てくるであろう新しいイラストでは、マスクを着けた人物のイラストは一切不要ではないかと思ったほどだ。
ちなみに、私が年賀状作成に利用したソフトはExcelだ。例年はExcelとペイントを使っていたが、今回はペイントの出番は全くなかった。
いらすとやを初めて実際に使ってみて、これがはてな界隈だけでなく、研究者や役所などでも重宝されているのは全くもってもっともなことだと納得した。
わかる気がするわ。いらすとやで泣きそうになることもある。
要するにSkebとかPixivリクエストとかで依頼したのに納品期限超過して絶望した話し。
「Skeb 不満」で検索すると言いたいことを書いていた人がいたのでコミッションサイトの問題点をあげつらうのは省略するが「人がお金を払って交わした約束事(契約)をほったらかしてアニメ見たりゲームしたり無料のお題箱に来たリクエストを平然と描いたり挙句には納品期日当日に他人家で遊んで”楽しかった~”とTwitterでクライアントが見ている可能性があるにもかかわらず平然とツイートする」社会性が一切合切ない絵描きが平然といることに気づいた。
それと同時に所謂イラストレーターや漫画家が社会的地位が低い理由も理解してしまった。
一部の漫画家は平然と「締切すぎちゃった~」とか「締切だけどゲームしてたわwww」とか平然と描いて担当者と揉めたとか漫画にして書いているけど、それはただ単に自身は約束事(契約)を守らないと告白していることに気づいたほうがいい。
いまじゃどこでも見かける”いらすとや”が出てきたときに自分は怒りを覚えた。
「イラストを描くことで生活しているプロの漫画家やイラストレーターを侮辱するとんでもない外道だ!こんなのを許してはいけないし使ってはいけない!」と。
しかし今、”いらすとや”がなぜ顕現してきたか、その理由がよくわかる。自分はこれから”いらすとや”様が制作されたイラストを積極的に使っていきたいと思う。
信用ないんだもの、イラストレーターに対して。平然と約束ぶっちぎって謝罪の言葉もないとか”ふざけるな”と怒鳴りつけたい。
Skeb や Pixivリクエストは納品期限超過したら全額返金はされる。しかし、依頼したクライアントからすればそれだけでは賄いきれないほど精神的ダメージが大きい。それもずっと見守ってきた好きな絵師であれば尚更。
納品されるまで二~三か月はかかる。短いと思うかもしれないが人生何があるかわからない。不慮の事故に巻き込まれる可能性だってあるし、身内に突然襲い掛かった不幸でイラストを描く気力を完全に奪われてしまい、依頼どころの話ではなくなってしまうこともあるだろう。
前者ならTwitterを見れば更新されてない、イコール、あっそういうことか…と想像つくし、後者ならTwitterで「身内の不幸によりリクエスト消化が難しくなりました。申し訳ありません」と一言書くだけで「それならどうしようもないな」とあきらめもキレイにつく。
でもね、締切当日に他人家で遊んでいるとかはないだろ?いくらなんでも。挙句にSkebアカウント消してんじゃねえよ。
「お前が過度な期待をしているだけの話だろ?」と言われたらその通りかもしれないが金銭が発生している約束事を反故にされたらキレたくもなるわ。