はてなキーワード: いたいけなとは
北朝鮮がミサイル飛ばす度に朝鮮学校の可哀想な女生徒が制服のチマチョゴリ切られる事件起きてたじゃない。金王朝は酷いが日本人もたいがい酷いな!って感じで。
どうして似た事件が新型コロナ絡みで中国人相手に全然起きてないの? 日本には中華学校も中華街もあるのに。パンデミックから何人ぐらいの中国人女生徒が服切られたのさ?
やっぱり日本鬼子はチキンだから、見下してる旧植民地人にはヘイトクライムできても、21世紀の覇権国家中国様には畏れ多くて手出しできないってことなのかな?
ところで、北朝鮮は最近も元気にミサイル飛ばしてるけど、昔はセットで報道されてたチマチョゴリ切り裂き事件の方は全然聞かなくなったのも不思議。
でも北朝鮮が悪い!→朝鮮学校のいたいけな女生徒の制服を切る!と統合が失調したような発想する人間が世間の反応に合わせて犯罪をやめたりするものなのかな?
自分はAVやエロ漫画の女性になりきってオナニーするのが好きで、特に巨乳の女性がおっぱいをゆさゆささせながら突かれて気持ちよくなっちゃってるのが最高に好き。
その女性になりきってオナニーするわけだが、長身のヒョロガリ体型で自前のおっぱいは平均以下程度
だから巨乳がほしくて豊胸を考えてるんだけど、オナニーのとき以外使い道がない。上半身が分厚くなってデブに見えて似合う服が限られるだろうし、夫もおそらく細身体型好きなので夫とのセックスの質も下がりそう
でもほしい……ゆさゆさ揺らしたい。いたいけな男子高校生を巨乳で誘惑する女教師のオナニーもしたいし、オジサンに巨乳パイズリさせられて困っちゃうOLオナニーもしたい。
ただの書き散らし。
新生児:圧倒的なピュアさ、まだこの世に定着していないような天上の可愛さ。ただし母親のプレッシャー「生かす」がやばい。頻回授乳やばい。傷が痛い。眠れない。
2か月〜3か月:クーイングが始まる、まどろむ声は耳の奥を抜けて脳天を突き刺す。床上げ、夕暮れなきが始まる。
4か月〜5か月:育児にも少し慣れる、目があうと可愛すぎて脳が溶ける。笑うと脳内世界が震撼する。つかの間の休憩が取れる人もいる。夜寝る子もいるし、寝ない子もいる。
6か月〜8か月:ねがえる。目で第一育児者を追う。人見知りする、泣きながら愛着のある育児者を追う必死な姿は、万難を排しその存在に駆け寄りたい衝動。が、第一育児者の負担パない。何より離乳食。手間。レトルトに頼るとうるさい外野(時に内野)がいる、滅。しかも食わん、食事にかかる手間の激増。
9か月〜12か月:ハイハイする、後追いが始まりし時のいたいけな動きは、生命00億年の歴史の中の貴重な1ページとして刻まれる。至高の存在、ただし自由に動き回り始めると最初の感動をよそに予想外の災害を引き起こし続ける。ティッシュは白い山になる。引き出しはすべて引き抜かれる。
去年の秋、子供産んだ。
第二子。
産んで入園して、あっというまだった。
0歳の可愛さってなんだ、
どんどん大きくなるし、怒涛のかわいいアプデ。めくるめくかわいいの連続。手を変え品を変えかわいいがリリースされる。
こんなに可愛くても、でも何より眠りたい時も逃げたい時もあるけど。
ただ思い出すだけでも、0歳の可愛さ、めまぐるしさ、
前回はこちら
https://anond.hatelabo.jp/20200904203318
ビジネス本を根拠として、娯楽を健全と不健全に分けるのは余計なお世話とか、「人間」と「作者という存在」を同一視するのは不健康とか、コンテンツを精神的に健康/不健康で断ずる行為はよくないなどの意見をいただいた。
特に、「私自身が敵意を持って何かを貶めたい意図を持っているので、記事そのものが精神的に不健康である」という意見には唸らされた。
一般に販売されているゲームで、自分がクリアしたことのあるものに該当はなかった。
やはり倫理基準があるので、人権侵害をメインに扱ったゲームは審査を通りにくいし、そもそも売れないのだろう。
それに、私がここに書かなくても、「グロ 残虐 ゲーム」などの単語でググってもらうと、有志がそういうコンテンツを紹介しているページに易々と辿り着くことができる。
なので、今回はフリーゲームを取り上げたい。フリゲは主に個人が制作するものなので、その人の心の健康がありありと現れる。考察にはうってつけだ。
以下に紹介する。できるだけネタバレはしない。
見た目はほんわかしているが、中身はエログロ(特にグロ)。見た目はMOTHER2のような暖かい印象を受ける。
プレイを初めて1時間以内に、このゲームの異常性に気が付くことだろう。気持ちが悪いタイプの異常性ではなくて、続きが気になるタイプの異常性だ。
ネーミングセンスが独特であり、作中の随所に現れる。
どこが精神的に不健康なのかといえば、ストーリーの救いのなさだ。特に2。1と3は、グロ展開を挟みつつも笑えて感動できる物語なのだが、2はとにかく救いようがない。
特にラストステージ。人によっては恐怖で進めなくなる。ニコニコ動画の実況プレイ動画にも、「怖すぎて〇〇さんの動画に来ましたwww」といったコメントが並んでいる。
私自身も当時は震えた。深夜1時頃にクリアしたのだが、翌日にあった英語の演習でミスを繰り返したのを覚えている。
あの時の私は、恐怖を感じていたんだろうか?
違うと思う。あのラストステージというのは、ぱりぱりうめというキャラクターの抱える苦痛や嫉妬や絶望や愛や夢が、画面を通じてプレイヤーを殴りつけるとしか言いようのない展開だったのだけど、その感情に心を揺さぶられたのだ。だから涙が止まらなかったのだと今では思う。
大学生4人(男2女2)が旅行に行く。そのうちの一人が入巣(いりす)京子。旅行先で楽しんでいる途中、事件が起こって1人ずつ行方不明になっていく。
パズルゲームでの得点によって物語が分岐する。バッドエンドだと、いりすが友人を したのを示唆するEDになる。高得点を取ると、行方不明は友人たちによる仕込みであったことがわかる。サプライズな誕生日パーティーをしたかっただけなのだ。
プレイを続けていると、ゲームフォルダ内のデータが少しずつ置き換わっていることに気が付く。テキストファイルや画像データが現れたり消えたりする。
最後までプレイすると、いりすのキャラクター性や、旅行について考えていたことや、男側の主人公であるうーじの抱える闇が明らかになっていく。
いったいどこが精神的に不健康なのかというと、〇〇と見せかけて、実は〇〇でした!みたいな展開の連続であり、特にその裏側に残虐性(しつこいようだがネタバレはしない)が潜んでいる。
以前の作品である「愛と勇気とかしわもち」でもそうなのだが、プレイヤーを悪い意味でビビらせることに全力を注いでいる。
プレイヤーの心臓に冷たい何かが突き刺さって、心臓が凍り付いて、血管が破裂するような恐怖を味わわせることに作者は快感を覚えているのでは?と邪推せざるを得ないほどに、このゲームはプレイヤーを驚かせてくれる。
数あるフリーゲームの中でも最大級の――精神的に不健康な作品だ。
ゲーム冒頭の説明にあるように、精神疾患の人や未成年は絶対にプレイしてはいけない。一般の人にもおすすめできない。やっていいのは恐怖を快感に変換できる人だけだ。
体調がおかしいと思ったら、プレイしている最中でも中止すべきだ。例えば、2周目に入ったあたりで、「ここで止めたら負けだ」とか、「モニカ、てめーは絶対○す」などの感想を抱くかもしれないが、それでも途中でやめるという選択はありだ。
作者、特に2周目の恐怖演出を担当した人間の悪意が突き刺さってくる。どのような理由でも説明できないほどに悪趣味な演出だった。
「このゲームを作った人たちは、学生時代に苛めや虐待などのひどい目に遭って、社会に恨みを持つようになったんじゃないか? だから、こんな残酷なゲームを作って社会に復讐しようとしたんじゃないか?」
私はそう推測した。
「違う。このゲームは高い評価じゃないか」という意見もあると思うが、典型的な確証バイアスだ。別の言葉で言えば、コミットメントと一貫性。
プレイヤーは、恐怖と戦いながら数時間~数日をかけてゲームをクリアする。敵だと思っていた存在は、自分のことを(以下略)。ハッピーエンドではなかったけど、恐怖に打ち勝ってこのゲームをクリアできた。俺はチキンじゃない!
終わり良ければ総て良しという言葉がある。悪趣味な演出にどれだけイライラしたとして、最後までクリアしてしまった後で、このゲームをプレイした時間が無駄だったと認めることはできない。
そんなことをすると自分は愚か者だったことになる。だからこそ、個性的なゲームだったね、just monicaだったねと高い評価を与えることで、自分の考え方と行動に一貫性をもたせようとする。それがこのゲームが高く評価される理由のひとつだ。
今までにないタイプのゲームだったのは間違いない。ホラーゲームが好きな人にとっては珠玉の一品だったと思う。私も、このドキドキ文学部!に評価を投じた。★4つだったと記憶している。
名前だけは聞いたことがあると思う。エログロかと言われればそのとおりだ。
この作品は、上下巻の約700ページ(しかも行間がほとんどない)に渡って以下のような展開が続く。
①ジュリエット(とその仲間たち)が乱痴気騒ぎを起こして一般人を強姦したり殺したりする
②騒ぎの最中かその前後のパートで、ジュリエット(とその仲間たち)による哲学論議が行われる
③ジュリエット(とその仲間たち)が不仲になって仲間を殺す。あるいは新しい仲間を作る
エログロ小説と世間では見られているが、実は哲学小説だ。作者であるマルキ・ド・サドは貴族出身でありながら、変態行為が露わになって逮捕→投獄というパターンで小説を書き始めたタイプの人だ。
この小説が有名になった理由のひとつは、サド自身が社会に対して抱いていた恨み(今でいう反社会性障害?)から生じるエログロ描写の反面、その知性や教養から精緻に描かれる人間社会に対する哲学的な理解の鮮やかさが奇妙なほどマッチしていることによる。
哲学的な描写の例として以下の例を挙げる。主人公であるジュリエットの序盤の師匠であるデルベーヌ夫人の科白だ。この小説のキャラクターは喋りの量が半端ない。ドストエフスキー並みだ。
※一部のみを抜き出した。この場面の文字数は引用箇所の軽く数倍はある。
「まあ!」とあたしはデルベーヌ夫人に申しました、「それではあなたは、御自分の評判などどうなったってかまわないほど、無頓着でいられるというのですか?」
「そのとおりよ、あなた。本当のことを言うとね、あたしは自分の評判がわるいという確信をもてば、ますます内心で愉快を覚えるの。そして評判がよいと知れば、まあそんなことはないでしょうけれど、きっとがっかりするでしょうね。いいこと、ジュリエット、このことをよく覚えといてちょうだい、評判なんてものは、何の役にも立たない財産なのよ。あたしたちが評判のために、どんな犠牲を払っても、けっして償われはしないのよ。名声を得ようと躍起になっている者も、評判のことなど気にかけない者も、苦労の多い点ではどちらも同じよ。前者はこの貴重な財産が失われはすまいかといつもびくびくしているし、後者は自分の無関心をいつも気に病んでいるの。そんなわけで、もしも美徳の道に生えている茨が、悪徳の道に生えている茨と同じほどの量だとしたなら、いったいなぜこの二つの道の選択にあたしたちは頭を悩ますのでしょう、あたしたちは自然のままを、思いつくままを、そのまま素直に信用していればよかりそうなものじゃありませんか? P.16
今時の心理学の本に載っていそうな感じではある。アドラーの『嫌われる勇気』に通じるものがある。
悪徳の栄えで論じられている思想はニーチェやハイデガーに通じるものがある。この世に存在し続けるものに重きを置いている。
私にとっては面白い小説ではなかった。万人にお勧めできるものではない。というのも、哲学的な論考はあるものの、残虐な場面や、人間的に醜い描写が多く登場するからだ。
今のコンテンツでいえば、『ダイナー』が一番近い。ダイナーを哲学的な内容にすると現代版の悪徳の栄えになる。
私が読むのをやめようと思いかけた場面のひとつを挙げる。ジュリエットが、師匠の一人であるノアルスイユという金持ちに気持ちを打ち明けるところだ。
※上を含めて、引用箇所を探して打ち込むのに2時間半もかかってしまった…いずれにしても引用が多すぎる。これで最後にする。
「おお、 ジュリエット、おまえはまだ全部を知ってはいないからそう言うが……」
「なら全部すっかり話してください!」
「おまえの父御さんや母御さんのことだがな……」
「どうしたと言うんです?」
「生かしておいてはおれのために都合が悪かった……息の根を止めてしまう必要があったのだ。で、二人ともばたばたと死んでしまったのは、おれが彼らを自分の家に招いて、ある飲物を飲ませたからだ……」
ぞっとあたしの総身に冷たいものが走りました。だがすぐに、自然があたしの心の奥底に刻みつけた、極悪人にふさわしいあの無感動な冷静さで、あたしはノアルスイユを正面からじっと見据えながら、「人非人! 何度でもこの名を繰り返してやりたい」と叫んでおりました、「あなたは見るも怖ろしい男です、でもあたしは、そういうあなたをやっぱり愛しております」
「ああ、そんなことあたしに何の関係があるのでしょう? あたしはすべてを感動によって判断します。あなたの兇行の犠牲となったあたしの家族は、あたしに何の感動も生ぜしめてはくれませんでした。けれどあなたがあたしにしてくれたあの犯罪の告白は、あたしを熱狂させ、何とお伝えしていいか分らないほどな興奮の中へ、あたしを投げこんでくれました」 P.57~P.58
ノアルスイユはジュリエットの父母を殺している。そのせいで、裕福だったジュリエットは修道院に送られて貧しい生活を送り、やがては売春宿で働くことになった。
その原因を作った張本人であるノアルスイユに対してこのような言葉を出してくるところに、この悪徳の栄えの醜悪さを感じた。読者をダークサイドに送り込もうとしている。
物語の中で悪事を働く人間の基本になっている考え方のひとつに、「悪事をする人間は自然に有益である」というものがある。考え方自体はとんでもないのだが、文学者が翻訳を務めている関係でやたらと格調高い文章になっており、それが読者の心に響いてしまう。
年末年始を使って上下巻を読んだのを覚えている。今では読むべきではなかったと後悔している。
いわゆる鬱小説というやつだ。心が痛くなるコンテンツ。とにかく痛い。この本も読むんじゃなかった。アマゾンで高評価がついていたので出来心で買ってしまった。
この小説のいったいどこが精神的に不健康かといえば、「いたいけな少女をいたぶること」を主眼に置いているからだ。
アメリカの田舎町に暮らす主人公のデイヴィッド(12)。ある日、隣の家に住んでいるルースのところに、両親を亡くしたという快活な美少女メグ(13才以上)が妹のスーザンと一緒に引っ越してくる。デイヴィッドはメグに心を奪われる。ザリガニ釣りから始まって、次第に仲を深めて、お祭りの観覧車に一緒に乗る。花火が綺麗、みたいな描写だったのを覚えている。
という言葉が脳裏をよぎった。まだ未成年だった頃、某動画サイトにアップされていた『true tears』というアニメを見ていた。眞一郎と乃絵が仲睦まじくしている様子を見て、ほかのみんなが一斉にこのコメントを打ち込んでいたのを思い出した。
この小説は、読者に精神的な苦痛を与えることを目的として、メグに対してありとあらゆることをやってのける。
メグは何でもされる。肉体的な苦痛から精神的な苦痛まで、何でも揃っている。
巧妙なのは、このメグというのが優秀設定のキャラクターであることだ。
運動神経は抜群で頭がよく、そのうえ美少女ときている。いわゆる利発キャラ。例えば、虐待が始まってすぐの段階で地元の警察に相談に行っている。普通の子どもはこういう行動を取ることはできないだろう。
実際、一度はルースの家から脱出に成功しかけるのだが、障害持ちのスーザンを気に掛けるあまり失敗してしまう。
ルースやその子ども達からの虐待はさらに苛烈になるが、デイヴィッドはただ観ているだけだ。傍から虐待されるのを眺めるばかりで何もできない。親に相談しようとするも、恐ろしくてできない…
この小説を読んでいる間に心が相当削られた。品性下劣という感想を抱きながらも、最後まで読まないといけない気分になっていた。悔しいが作者の勝利だ。
今回の記事を書くにあたり、隣の家の少女について調べたところ、ネットフリックスに映画があるらしい。今度見てみることにする。
作者である上原善広の父を主人公に据えたノンフィクション小説。ということになっている。物語というよりは、作者が精神的に不健康な例だ。
あらすじとしては、牛の解体場で働く上原龍造が、自らの腕だけを頼りに食肉業界の経営者として成り上がっていくというもの。
昭和の時代の話なので、解放同盟や共産党や右翼にヤクザが出てくる。彼らと渡り合いながら、少年だった龍造は成長を遂げてゆく。
問題なのは、ノンフィクションと謳っておきながら創作であることだ。
作中では、実際に存在した人物の名前や経歴が書き換えられている(ex 作者の父の名前は龍造ではない)のみならず、解放同盟支部の結成年や支部名その他、多くの事実に誤りがある。
作者と新潮社は解放同盟から怒られた。出版元である新潮社はHPで謝罪文を出している。作者である上原氏もnoteで反省文を書いているが、はっきりいって反省していない。
巻末のところで実父に関連して、自分の来歴や、元嫁や兄について語っているのだが、なんというかもう、ツッコミどころが満載なのだ。本編を読む前にこれを読んでいたら、一生読むことはなかったと思う。
続き
https://anond.hatelabo.jp/20200911202150
アブラハム・マズローの書いた『完全なる経営』(日本経済新聞出版 大川修二訳)という本を読んだ。
その中では、精神的に健康な人間というものが語られている。平たく言うと、自己実現できる人のことだ。
自己実現とは、本に書いてあった内容によると、こんな感じの人だ。
・今の状況をありのままに捉え、不確実な状況でも耐えることができる
・夢中になれる物がある
この対極にあるものとして、精神的に不健康な人間についても述べている。
本文の中で、精神的に健康な人間と不健康な人間が対比されている描写は以下の3つだ。
相当高い発達段階にいる人間は、破壊よりも創造を好むものだ。創造する喜びは破壊する喜びよりも大きい。
ただし、破壊する喜びは確かに存在するし、そのことは看過されるべきではない。とりわけ破壊から強い喜びを得るのは、発達段階の低い人間、つまり神経症患者、未熟な人間、衝動をコントロールできず無意識的に行動を起こす人間、サイコパスなどである。 P.63
彼は予想外の事態に直面しても怖れる気配を見せない(強迫観念にとらわれた硬直した人間は、予想外のできごとを怖れる)。創造的な人間にとって、計画とは先に進む道を探すための足場以上のものではなく、それゆえ、後悔や不安をともなうことなく、やすやすと放棄することができるのである。 P.319
どのレベルの動機づけによって生きているかを判定するには、さまざまな方法がある。たとえば、どのようなユーモアを面白いと感じるかによって判定するというのも、その一つだ。低いレベルで生きている人間は、敵意のこもった残酷なユーモア――老女が犬に噛まれる話や精神遅滞の子どもが他の子たちにいじめられる話など――を面白いと感じる傾向にある。リンカーンが示したようなユーモア――哲学的で教育的なユーモア――は抱腹絶倒するような類のものではなく、むしろ微笑を誘うものであるが、これには敵意や征服といった意味合いがまったく込められていない。このようなレベルの高いユーモアは、低次の欲求レベルにとどまる人間からは、まったく理解されないものである。 P.367
この3つの中で、一番下が気になった。
それって、どんなコンテンツだろうか?自分もこれまでに楽しんだことがあるのだろうか?
気になって考えてみた。
以下は、私の主観で選んだ『精神的に不健康な人間が好きなコンテンツ』だ。
□ 漫画編
この頃のCLAMPはトンガっていた。今の作風からは信じられないほど『精神的に不健康なコンテンツ』だったといえる。個別作品のネタバレはしないので安心してほしい。
人間の手足が千切れる、〇〇の頭部をもぎとって〇〇に見せる、これまで信頼していた人が裏切って主人公をボコボコにして作品完結だったり、自分の部族が皆殺しになるのを割と涼しい顔で眺めている〇〇がいたりと、今に比べれば殺伐とした作風だった。(※もちろん例外はある。「CLAMP学園探偵団」「20面相におねがい!!」「学園特警デュカリオン」など)
このような作品を商業誌で描くということは、当時のCLAMPは精神的に不健康な人間の集まりだったのか?と私は思った。
そのとおりだと思う。
CLAMPに関する情報を集めれば集めるほど確信を深めるようになった。どんな情報を集めたかは言わない。彼女達の名誉を傷つけるおそれがあるからだ。あの〇〇〇〇〇〇を作った奴はどこのどいつだろう。訴えられればいいのに。
CLAMPが今のように精神的に健康なコンテンツを作るようになった境は、『魔法騎士レイアース』『カードキャプターさくら』の辺りだと思う。
この頃からCLAMPの作風が急に丸くなる。魔法騎士レイアースはシリアスな場面が多いが、これまでの作品に比べれば緩い。ギャグも多いし、家族同士の愛情、恋愛もしっかり描いている。
※もちろん今でも殺伐とした物語を描くことはある。BLOOD-Cが好例だ。
作品内容がジェノサイドな方向に行ってしまうというのは、何もCLAMPに限ったことではない。他の有名漫画家にしてもそうだ。それは雁屋哲だったり、板垣恵介だったり――眉月じゅんのような若い作家でもそうだ。
初期の作品というのは、どうしてもそういう方向になってしまう。それは、自分がこれまでに受けた苦しみや、社会への恨みや、一発当ててやるといった決意がそうさせるのだろう。
漫画家として食っていける人間というのは、若いうちは苦労しがちだ。サラリーマンに適合するタイプの人間ではないので、学校で仲間外れにされたり、いじめられたり、日陰の存在になりがちだ。
そんな環境の中で作品を描く力を磨き上げた人間というのは、自分を虐げてきた社会に対する不満を創作活動を通してブチまけてしまうのかもしれない。
あくまで推論に過ぎない。デビュー作品も、今の作品も殺伐とした雰囲気が少ない作家もいる。大御所だと高橋留美子だ。あの人の作品は、初期の物も今の物も人間愛に溢れている。
一般的には、一山当てて名前が売れたり裕福になったりすると、作品内のグロテスクな傾向は薄まっていく。
名前が売れると承認欲求が満たされるし、印税が入って裕福になれば、食事に旅行にファッションに、いろいろと楽しみ放題だ。
「恒産無き者は恒心無し」という故事があるが、まさにこれを地で行くのが人間の性だと思う。
以上は、ほとんどの創作者に当てはまる傾向だ。若い頃に殺伐で辛辣なジェノサイドを描いていた人が、有名になるにつれて人間同士の繋がりを大切にした作風に変化していく。
ここでは個別具体的な作品を扱う。ネタバレはしないが作品の感じは伝わってしまうだろう。
2010年から月刊誌で連載が始まった作品で、2014年にアニメ化された。原作はタカヒロだ。
①グロテスクなシーンがよくある。身体の欠損や理不尽な死は基本。
②読者に残虐なシーンを読んでもらうことを目的とした話がある。特別編の3人娘など。
③グロ以外にも人権を軽んじる描写多数(特に女性と田舎者に厳しい世界だ)
こちらのタカヒロ氏は、ほかにも勇者であるシリーズ(ex結城友奈は勇者である)を手掛けている。この作品も、真面目でいたいけな少女を痛ぶることで読者や視聴者、プレイヤーを楽しませることを目的のひとつとしている。
人は、一体なにが原因でこのようなコンテンツを考えつくのか?
ストレスにほかならない。生きていることが苦しかったり、面倒くさかったり、人が憎いと思ったり――そんな観念が繰り返し脳裏に浮かぶ度に、その邪悪な何かを外に出そうとする。あるいは、他者を自らの仲間にしようとする。
タカヒロ氏のインタビュー記事を可能な限り読ませてもらった。記事内では、常識的な言葉で作品をPRしているように思える。しかし、毒がある。不満であるとは言明しないものの、コンテンツに関する何かに対して、さりげなく毒を吐いている。
さりげないから目立たないだけで、さりげなくない表現を使うとコンテンツの関係者にケンカを売っていることになる。そんなインタビューがひとつ以上あった。
精神的に不健康なコンテンツを作るのは悪いことではない。それが面白いという人がいる限り、価値あるものだ。
私も昔は、そういうコンテンツが好きだったと思う。でも、大人になるにつれて、社会で果たす責任が大きくなっていくにつれて、精神的に不健康なコンテンツよりも、心を健康してくれる、浄化してくれるコンテンツが好きになっていった。(一例として、のんのんびより。ニコニコ動画の再生数を見てもらえれば、私の言っていることが伝わると思う。ニコ動で一番売れている有料アニメだ。あれから一時的に無料期間があったので今は判然としないが、当時は少なくとも1話あたり3000再生は売れていた)
2010年代の前半辺りが最盛期だったと思う。当時は、ふたばチャンネルやニコニコ大百科、pixivなどにゆ虐のイラストや漫画を上げる絵師がいたり、ゆっくり虐待の小説を専門に投稿する掲示板があった。
このコンテンツにおいて示唆されている行為は何なのか?ゆ虐の作品を何度も覗いたことのある方ならお気づきだろう。
ゆっくりというのは、愚かな人間のメタファーだ。そのメタファーを痛めつけたり殺したり、漫画という形で傍目から眺めることで精神的に不健康な人間の欲求を満たしている。
精神的に不健康な人間はこういったコンテンツを好む。一言でいえば、人権侵害をテーマにした作品や論評や意見を好む。
同じ時代でいうと、mixiのニュース引用型日記だ。ニュースを引用して記事を書くことができ、投稿すると下にある引用記事一覧に載る。
今は廃れた光景だが、障がい者や生活保護受給者やホームレス、タクシー運転手に教師、公務員などを扱った内容がmixiニュースで取り上げられる度に、心無い誹謗中傷を述べた日記を投稿するのを楽しみとする人たちがいた。
障がい者が事件を起こすと「殺処分せよ」、生活保護受給者の不正が問題になると「貧乏人は死ね」、タクシー運転手が客とトラブルになると「タクシー運転手は社会の最底辺」など、差別の例としては完成され尽くした日記を投稿する層が一定数いた(しかも彼らは連帯を組んでいる。反論コメントは徒党を組んで煽ったり馬鹿にすることで潰す)。
一番ひどい例だと、東日本大震災が起こった際に、携帯電話の絵文字で津波に流される人々をアスキーアート風に表現した日記を投稿する人がいた。その人自身も、心に問題を抱えているように思える文調だった。
mixiの運営も、一定数の通報が集まるとそういう日記を削除し、ユーザーアカウントも凍結していたようだが、さほどの効果はなかった。
こうした人権侵害を行う人に共通しているのは、「社会に恨みを持っている」ことだ。
私が観察したところ、上記のmixi日記の数名の投稿者は以下のような環境にあった。
・いい大学を出ていい会社に入ったものの、嫁が公然と浮気をしていて、でも子どもがいるから離婚できないという葛藤を抱えている
とにかく強いストレスに晒されている人たちだった。
□ アニメ編
・該当する作品について
※後日追記 強いていえばBLOOD-Cだが、あれはどちらかというとシュールなギャグアニメなのでは・・・?という印象がある。
なぜかといえば、公衆放送なので当たり前なのだが、人権侵害コンテンツなど流せるはずがないからだ。
上記で挙げたアカメが斬る!についても、だいぶマイルドになっている。
アニメを企画する会社や、アニメ制作スタッフらが自主判断でグロシーンをマイルドにしたり、描写自体をなくしている。
あの3人娘は死なない。むしろ最終回で生存描写がある。この改変には痺れた。原作者が精神的に不健康な人間であっても、スタッフには良心があったのだ。
CLAMPの作品もそうだ。初期の作品である『X』には、地震でビルなどが倒壊し、多くの人が犠牲になるシーンが幾つかある。グロシーンも多数だ。
こういう描写が問題になり、漫画版のXは最終回を迎える前に編集側から強制ストップがかかった(もちろんCLAMPは続けたかったらしい)。
アニメ版はだいぶマイルドな描写になっている。残酷なシーンはあるが、気持ち悪さを感じるほどではない。放送コードの力は偉大だ。
今回はこれくらいで。
なんだよなんだよ!!みんな揃いも揃って大人の方の噂ばっかりして!!神も大人の絵ばっかり描いて!!!あれは少年だから最高だったのに!!!みんなメガネショタ尊いって言ってたのに!!顔か??顔が全てなのか???結局尖った顎には勝てないのか??子供のままでも十二分に美丈夫だろうに!!!!ショタだから良いキャラだったのに!!大人にしたら何もかも台無しじゃないか!!!身辺の手入れを全ていたいけな少女に丸投げして!!自分の仕事もロクにこなさず!!他人の批評ばかりして!!ただのダメ男じゃないか!!いいかい?お前の名前はマダオだよ!!!マ!ダ!オ!!!!お前なんてただのイケメンで高身長で博識でミステリアスなマダオだよッ!!生意気にも一人称まで変えて!!キィーーーッッッッッ!!!カッコイイーーーーーッッッ!!!くやしーーーッッッ!!!顔の良さとイベントの面白さに免じて許すけど絶対何があってもカルデアには来んなよ!!お前がいくら人気でユーザーに望まれようとそんな世界観をねじ曲げるような事、あの菌糸類が許さんから!!言質取ってんだかんな!!
いわゆる女性向け(腐女子向け)の話題なので増田のお兄様たちには興味ない話題だろうけど書き捨てさせてください。酔っぱらいのオチのない思い出話です。
私と妹が中学生の時にヘ〇リアにハマったのは、母が唐突に勧めてくるので勧められるがままアニメを見たのがきっかけだった。
母はちっともオタクではないのだが、当時『銀幕』を公開していた時期で、母が務めていた映画館でたまたま放映していたらしく、存在を知った母は何も考えず我々に勧めたのだろうと思っていた。
この出会いにより、「ちゃお」しか漫画を知らなかった私の人生はオタク方面へ大きく狂わされてしまったので、「何も知らない母親め軽い気持ちでこんなものを勧めようとか思い立ちやがって本人はちっともオタクではないくせに…!」と時々思っていた。
ところが実は、母は自主的に我々にそのアニメを勧めた訳ではなく、母の同僚の大学生(当時)のお姉さんにとても熱心に布教されたため、我々にアニメを見せたらしいのだ、ということを今日知った。
我々が無事ハマったらしいと知ったそのお姉さんは、「娘さん、グッズとか、街まで一緒に買いに行きませんか?」と提案していたらしいということも知った。生憎当時はアニメで精一杯でまだグッズまで食指を伸ばしていなかったので妹が断っていたらしいとも知った。すべて初耳である。
ここから先は今の私から当時のお姉さまへの感謝の文言になります。
顔も名前も知らぬ当時大学生のお姉さまよ…、あなたが原因で私はすっかりそちらの世界に足を踏み入れ、見事染まってしまいました。一人のいたいけな娘を布教することに無事成功していますよ。アニメを見てすっかりハマってしまった私はDVDと漫画を全巻買い揃えました。そしてその1年後にいわゆる個人サイトの存在を知り、その3年後にはPixivの存在を知り、すっかりその道に転がり落ちてしまいました。お姉さま自身がそうであるかは存じ上げませんが、私はいわゆる腐った道にも入ってしまいました。その後も様々なその手のコンテンツにハマってまいりました。
私の人生はお姉さまにのおかげでとても人生は豊かになりました。ティーンの頃にあれほどハマれたコンテンツに出会えたのはとても幸運だと思っています。もし出会わなかったら人生大分違っただろうな、と夢想することは何度がありますが、出会わなければこれほど感情を揺さぶられる豊かな体験はしなかったことでしょう。とても感謝しています。
オチが思いつかなかった。ぶつ切りで。
コンテンツ名伏せたほうがいい?なんか最初別に悪口書いているわけじゃないし伏せないで公開していいかな、増田検索性悪いし、とか思ったけど、伏せないで公開するのがなんとなく怖くなったので最後に修正することにした。
上手なツイッタラーならこのだらだらした文章を小気味よい140字にまとめられるんだろうな、すごいな…。増田は字数制限ないから、つい冗長に書いてしまうよ。でも増田のそんなとこが好き。
自分は、「一般的に、暗記数学に賛成している人」とされている、
の中の一人だが、そのはしくれとして、「暗記数学が正しい」という妄言を徹底的に批判する。
その塾では基本的に生徒に自習させ、分からないことがあったら講師(自分)に質問する、というスタイルを取っていた。
基本的に自習だが、毎日チェックテスト(基礎的な数学の問題が数題出題される)のみ、全員に共通したノルマだった。
講師の初日、全員にチェックテストをやらせていたが、一人(A君とする)だけなぜかやらなかった。
話を聞いてみると、「基礎の練習など無意味。自分はもっと応用問題の解答を暗記する」という強い信念を持っていて、基礎はやらない、とのこと。
「生意気言うな。基礎もできない人間に応用問題なんてできるわけないだろ」と何度も注意したが、
なんでも和田秀樹の本を読んで感動したらしく、忠告は拒否され、毎日せっせと解答の丸暗記をしていた。
結局浪人期間の一年間で一番A君と仲良くなった(自分の説明が分かり易いので気に入ったらしい)が、
彼の解答の丸暗記法では、全く同じ問題だと解けるのだが少しでも違う問題だと全く太刀打ちできなかった。
彼が熱っぽく如何に和田秀樹の理論が素晴らしいかを語るを聞き、
「問題が解けるようになってから言えよ。とはいえ、いたいけな受験生をここまで変な考えにさせるなんて和田秀樹ってやつはトンデモねー極悪人だな。」
としか思えなかった。
結局彼は成績が上がらず、目標としていた難関大学(ぶっちゃけ慶応)よりも相当偏差値の低い大学に行った。
最後に彼は「やっぱり基礎は大事なんですね」と反省していたが、彼の貴重な一年を棒に振った暗記数学はもう極悪だとしか思えなかった。
以上が、私が和田秀樹の提唱する暗記数学が絶対に間違っていると判断するに到った根拠である。
とは言え、暗記数学氏の
との主張は至極最もだし、暗記数学氏の提唱している勉強法は「暗記数学」というタイトルを除けば極めて全うだろう。
また、私もA君からの又聞きによってしか和田秀樹の理論を知らないので、
「A君のやっていた『解答を丸暗記する』法は本当の暗記数学ではない。本当の暗記数学は理解して暗記するものだ」
との反論はあるかもしれない。
詳しくは知らないが、自分の読んだことのある和田秀樹のエピソードは、
和田秀樹が大学時代に灘の高校生(B君とする)の家庭教師をしていた。B君は灘というプライドがあったため、和田秀樹が何度も
「解答を覚えろ」と忠告したのにも関わらず、いきなり難問を自力で解くという勉強法を繰り返し、成績が上がらず、大学受験で撃沈した
というものである。これは暗記数学氏の言う「何かをこじらせて勉強法に無駄な拘りを持っている人たち」に対応するものだろう。
確かに「数学は暗記だ」という言葉は、B君みたいな灘に入ったからと言って勘違いしてしまった一般人(灘にいる本当の天才はそんな勉強法でも大学受験レベルの数学くらい解くだろう)には有効な言葉かもしれない。
A君みたいに解法を暗記するだけ暗記して全く応用の聞かない馬鹿を産み出したのは確実に和田秀樹のせいである。
そして、日本の「数学が出来ない高校生」のうち、A君タイプ(解法の暗記はするけど理解が追い付いていなく、暗記した問題から少し変えると答えられない)が99%で、
B君タイプ(自分は天才だと勘違いした凡人)は1%にも満たないだろう。
そのような状況で、B君タイプを減らすことを目的として、A君タイプを量産することになる
仮にA君の暗記数学の理解が不十分だったとしても、暗記数学という言葉は有害無益である。
暗記数学氏の主張が
という主張なら、それは100%正しい。オイラーやガウスでもない一般人が平方完成も知らずに
二次方程式が解けるはずがない(というかオイラーやガウスも平方完成は暗記しただろう)。
しかし、オイラーやガウスが行ったことを「暗記数学」とは言わない。
暗記数学氏の想定している「アンチ暗記数学派」の主張は「数学の体系をゼロから始めて全て車輪の再発明をしよう」
という荒唐無稽な主張であるため、このような主張のアンチテーゼである「暗記数学」