はてなキーワード: あやふやとは
以前にいた会社の時に,強い負の感情に飲み込まれた話を吐き出そうと思う.
私はとあるITベンダーが提供しているサービス導入を検討する際.
ベンダー側はベテラン風のテクニカルコンサルタントが担当することになった.
彼は40くらいの年齢で,これまでの経歴的にもずっとテクニカルコンサルとして生きてきたそうだ.
コンテナやFWなど一般的なIT技術の会話はもちろん,製品の仕様やそもそもの質疑応答すら満足にできず,かつ非を認めない,そんな人材であった.
別に嘘を言ったとかそんなことはどうでもいい.抽象的であやふやな回答を得るくらいなら,できないですって話をすぐ出して欲しい.
シナリオってなんだよ.仕事に演出が必要な時点で虚の世界に入っているようなもんだろう.
車外への営業活動以外で演出なんて持ち込むな.本気で時間の無駄なんだ.
私は事実に基づいているからこそ,会話が生産的になると信じているため,
常に話を盛ったり,煙に巻いたりする彼とは一切噛み合わなかった.
当然プロジェクトは伸びに伸びて,時間とお金が失われた最悪のプロジェクトだった.
お互いあまり成長に繋がらないことに多くの費やしたと思う.
今思えば会社間の関係だから,彼は腹を割って会話できなかったのかもしれない.
が,コンサルと聞くだけで,虚じゃないよね?と身構えてしまうほど,彼の印象が強くなってしまっている.
今,彼は別の会社に移って同じように技術コンサルをやっているらしい.
今は実のある仕事をしていることを祈るばかりだ.
Xの次に背の高い人は誰?という問題で、以下のような内容です。
【問題】
この5人の中で、Cの次に背が高い人は?
【選択肢】
1.B
2.D
3.どちらとも解釈できる
【結論】
私は、3.どちらとも解釈できる、が正解と思っていて、言い方を変えると「Bの方が確からしいが、問題文として不備があるのでDの可能性が排除できない」と思っています。
【解説】
これが一番大事なところです。各々の解釈で話を進めるから大変なことになるんです。日本語に関して絶対的に正しい辞書を用いて話しましょう。
次
1:すぐあとに続くこと。また、そのもの。
高い
2:数値が大きい。また、度合いが大きい
とあります。
答えは"必ずそれぞれの1,2どちらかの表現を用いて表すことができます”。
以上を踏まえて読解していきます。
【解がBになる解説】
①昇順か降順か書いてないので、問題文に書かれていないことは勝手に推測しない。(問題解釈の基本)
Cの次に高い→Cより一段劣る背が高い人、なので155cmのBがCよりも一段劣る背が高い人。
これは劣るのに背が高いと続いて日本語としてやや不自然ではあるが、いったん置いておく。
②5人の一覧をわかりやすくすると、
E170cm 最も高い
A150cm 最も低い
となり、
この中でCの次に背が高いのは?と聞けばBになることが理解しやすい。
身長の数値が大きいという評価基準で、Cのすぐあとに続くものはBで疑いようがない。
【解がDになる解説】
Cの次に背が高いのは?
↓
次に、と聞かれたので、必ずあとに続くか一段劣るものを選ぶため、何かの順番に並べる必要があり、その場合のC(基準値)の次のもの(X)が問われている。つまり、
↓
そう考えたとき、身長が何cmかはただの識別情報なので、数学的解釈は使わずに答えが出せる。
つまり、
A 背が最も低い
B 背が低い
C 背が普通
D 背が高い
E 背が最も高い
ということ。
なぜなら、"背の順″は背が低い順とは言わなくても誰しもが昇順と理解するし、高い順番から並べることは一般的な解釈とは言えないので考慮しない。
ゆえに、始点Aから始まる背の順において、Cのすぐあとに続く背が高い人はD。
「背の順でCのすぐあとに並ぶ身長が高い人はD」
→「ある順番でCのすぐあとに続く背が高い人は誰?」
→「Cより順番がすぐあとになる背が高い人は誰?」
→「Cの次に背が高い人は誰?」
となって、この文章を背の順と理解できることに矛盾が生じないと解釈する。
ここでの争点は「ある順番とは何?」で、そんなもんは知ったこっちゃないのですが、普遍的に背の順番は昇順(背の順)になることを考えて、答えは、"背の順でCのすぐあとに続くD”となります。
背が高い方から並べたB理論は、「ある順番」が何か指定されていないことに気づかずに数値が一段劣る、の意味だけで解釈をしてしまって、数値が最も高いものからの降順以外の可能性を考慮できていません。
並べ方について問われている問題なので、単純な数値としての160cmと155cmの比較だけの「160cmより一段劣る背が高い155cmの人」という表現は日本語として不自然です。
【Bの方が確からしいが、問題文として不備があるのでDの可能性が排除できない理由】
これは背の順だから起きてしまったことで、例えば以下の例ではどうでしょう。
スカイツリー 634m
東京タワー 333m
あべのハルカス 300m
横浜ランドマークタワー 295.8m
りんくうゲートタワービル 256.1m
このとき、B理論もD理論も答えは横浜ランドマークタワーです。
(B理論)
①634mが数値として最も高いので、基準値あべのハルカスのあとに続く建造物は横浜ランドマークタワー。
②300mという数値にたいして一段劣る高い建造物は295.8mの横浜ランドマークタワー。
(D理論)
256.1mを始点とした低い順は一般的に想定されないので考慮しない。
高い順であべのハルカスのあとに続く全長が高い建物は横浜ランドマークタワー。
以上のように、回答としてはどちらも同じ横浜ランドマークタワーで丸く収まっていますが、実際の思考プロセスには隔たりがあります。
他にもいくつか例を挙げて、それぞれの思考を掘り下げてみましょう。
1位 100点
2位 90点
3位 80点
4位 70点
3位の次に点数が高い人は何位?
(B理論)
①100点が数値として最も高いので、基準値3位のあとに続く点数が高い人は4位。
②80点という数値にたいして一段劣る高い点数は70点の人で4位。
(D理論)
順番が3位のすぐあとの点数が高い人は4位。
ある程度わかったかもしれませんが、大抵のものは降順ランキングになるので、思考プロセスは違っても答えは同じになります。
では、このようにしたらどうでしょう。
160cmの次に高いのは161cm、159cmのどちらでしょう?
(B理論)
161cm 最も高い
で、どちらも159cmで疑いようがない。
(D理論)
159cm 数値が最も低い
161cm 数値が最も高い
となる。
問題文を整理すると、
160cmの次に背が高いのは
↓
次に、と聞かれたので、必ずあとに続くか一段劣るものを選ぶため、何かの順番に並べる必要があり、その場合の160(基準値)の次のものが161か159か問われている、つまり
問題.〇〇の順番で基準値のあとに数値が高いのは161と159のどっち?
↓
答え.◯◯の順番で基準値のあとに続く数値が高いものは161 or 159、となる。
答えは、160㎝のあとにつづく数値がたかいものは161cm。
しかし、「あとにつづく数値がたかいもの」という表現は日本語としては不自然で、B理論はどちらも自然な結果になっているため、Bと解釈する方が収まりがいい。
この結果は単純な数値の比較をした際、B理論の解釈が常に正しいと言えることを証明しているともとらえられます。そして、その場合の順番は常に降順(高い数値が上)です。
ようやく輪郭が見えてきましたね。問題になるのは、「単純な数値の比較ではない場合」です。
Sサイズ(数値小)
Mサイズ(数値中)
Lサイズ(数値大)
(B理論)
①Lサイズが最も数値が大きいので、基準値Mサイズのあとに続く大きいサイズはSサイズ。(大きいサイズはSサイズ、と言っているのでこれは日本語表現としてやや不自然)
(これも一段劣る大きいサイズ、という言葉は日本語表現としてやや不自然)
(D理論)
服のサイズはSサイズを始点として、S、M、Lと数えるが、L、M、Sとは数えない。
Lサイズから始まる店は存在しないし、サイズについて比較する際は必ず始点にSサイズがある。
ここまでの例題からわかったことは、「次に〇〇」で昇順/降順のどちらに動くか判断が付かない場合は、どちらの理論も試してみて、より自然な言葉になる方を選べばいいだけです。
なぜBD理論が論争になっているかというと、このケースではB理論も成立していて、D理論も成立しているからです。(どちらの結果も日本語が不自然にならない)
B理論支持者は、単純な数値の比較をした際は常にB理論の解釈が正しいことを根拠に、問題は数値について問われていると勝手に解釈して、答えはBで揺るがないと思っています。
これは、数値の比較なので数値が高い=上のものという認識があるので、降順以外は考えられていないです。
一般的に「Xの次に高いものはどれ?」という問題は凡そ全て数学の問題のため、みんな単純な数値の比較以外の用法は聞いたことがないので、D理論は意味の分からない勝手な解釈をしている例外だと判断しているのです。
続いてD理論支持者ですが、まず第一に「背を比較するときの順番は背の順(昇順)である」という解釈が前提にあります。
この前提が正しいとみんなが思ってるかはわからないですが、私の中では「大体そう」ってぐらいの認識です。
ロシアだと背が高い人が前に並ぶし、国内では自衛隊も高い順に並びます。
しかし、「背の順で一番前の人は背が高い?低い?」って聞かれたら真っ先に低い人を想像します。
また、「複数人の背を一斉に比較するために順番で並んだとき、先頭に並んでいる人の身長は一番後ろの人よりも身長が低い?高い?」って聞かれたら、うっかり低いって断定してしまいそうですが、
この問題についての正解は、「どの順番で並んでいるか知らないので、どっちもありえる」です。
一番最初の解説でも言いましたが、「次に」と言われてるので、何かの順番になるのですが、問題文からそれが確定することができません。
そのために2つ仮説を立てます。
B派は単純な数値の比較と同じ降順だと想定した場合でも、数値が高いものが上にくると仮定した降順でも結果的に答えはBで、どちらの根拠もある程度正しいと言えます。
D派は背の順だと仮定すれば正しいと言えるし、「背の順かどうかは書かれていないのでどっちもありえる」とも言えます。
比較してみるとD派の方が勝手な解釈に見えて根拠としてはやや弱い気がしますが、B派も肝心の前提条件は絞れていないので、降順という仮説が成り立たない限りは、"日本語として不自然な表現の答え”に過ぎないので、Dという答えを誤答とは"しづらい”です。
ゆえに改めて私の結論をより詳細に述べると、「Bの方が仮説を立てる根拠が確からしいが、問題文として不備があるので別解Dの可能性が排除できない」となります。
【まとめ】
BD問題は、大体の場合がどちらも先入観や勘違いをベースに論争をしているので、全く噛み合わないケースが多い。
BとDのどちらも根拠がありそうな正解を導き出せるようにしていて、あえて論争を起こそうとしてるのではないかとすら思える。
また、B理論支持者の方が論理的に正しいと言えそうで、実際は降順の並び替えについての根拠が整数の並び順でしかないことについて気づく人はあまりいない。
D派は背の順、というあやふやな根拠を理論にして戦ってるので、かなり分が悪いし、どこまで頑張っても前提条件は判明しないので、「Dが間違いとは言えない可能性がある」としか言えないので、屁理屈扱いされる。
もしも、背の比較をするときは必ず背の順(昇順)に並ぶ、という解釈が絶対的になることがあれば(仮に)、D理論はB理論よりも確からしくなるし、BD問題の結果がB、Dどちらかの100%になったとしたら、それは日本語が変化したと言えるのかも知れません。 実際に何%になったら辞書が変わるのかとかは知りませんが、誤用が広まって定着した結果、用法として辞書に載ってしまった例はありますし、時代とともに意味が変化していった言葉はたくさんあります。 いずれ、Xより一段劣る背が高い人、という表現が当たり前に使われる日も来るのかもしれません。
しかしながら、BD問題は"問題文として”試験に出せるようなシロモノではないと思うし(最初のツイ主さんは、これは問題ではなくアンケートだと仰っていました)、もしも私の解釈がおかしいところがあるとしても、表現方法に問題があるとは思います。
もしもBかDの2択ならBの方が根拠が強いと思うので、Bを選ぶ方が正しそうです。しかし、BD問題は4択にしてしまっているので、問題文も選択肢も合わせて罠になっています。
問題文とは回答者との誤解なきコミュニケーションであるべきだというのが私の主張です。 つまり、答えに対しての問い方でなくてはいけないし、正しい根拠でのみ正しい答えが導き出せるようにしなくてならないということです。
(注意力や論理力があれば解けるひっかけ問題まで悪いと言ってる訳ではありませんよ、念のため)
テストやクイズを作る方はもちろん、この問題は日常生活でも起こりうることで、誤解なきコミュニケーションを大事にしていくべきだと強く思う結果となりました。
【おまけ」
①次に「高い」か「低い」かで昇順、降順が決まると思ってるパターン
やっかいなことに、例題のいくつかの問題はこれでも当てはまっちゃうんです。
ただし、「300mの次に高い建造物が301m以上のもの」、「160㎝の次に高い身長は161㎝」になってしまって、破綻します。
この説には根拠がありませんが、ゆえに都合の良いように解釈できてプラス方向にもマイナス方向にも行ったり来たりと便利なので用法としても広まってしまっています。
②主語/述語、装飾語/被装飾語の関係で法則性を見つけようと思っている人
これもやっかいです。体感ですが、正しく文法などのルールをきちんと勉強したことがある方でここに辿り着いた人はいないと思ってます。
(専門家である飯間先生のツイートでも言及されていなかったので。もし文法で解釈できるならご一報ください)
私も専門家ではないし、きちんと勉強した人じゃないので触りだけにしますが、
Cの次に背が高いのは?
↓
Cの(修飾語)次に(被修飾語)背が(修飾語)高い(被装飾語)人は(主語)誰(述語)?
となるので、この文章は複文(1つの単文の中に単文が組み込まれている文)です。
複文なのでまとめると、
となります。
もう少し粘ってみましょうか。
Cの〇〇に背が〇〇な人は誰?としましょう。
Cの(あとに続く、または、一段劣る)背が(大きい)人です。
あとに続くのか一段劣るのか断定できないので、「背が大きい人」とは、「Cのあとに続く背が大きい人」なのか、「Cより一段劣るけど背が大きい人」なのかの区別がつかないので無意味です。
③「次に背(身長)が高い人」と「次の高さ(身長の度合い)が高い人」を混同してる人
Cのあとに続く高さが高い人は誰?
↓
〇〇の順番で基準値のあとに続く高さが高いXは誰?
↓
昇順でCのあとに続く高さが高い人はD。
これはXのあとに続く"高さが高い人”に絞っていて、高さが低い人を排除してしまっているので、文の構造が完全に変わっています。
ちなみにこの解釈をすると、「Xより一段劣る背が高い人」は「Xより一段劣る高さが高い人」になるので、B理論は自己矛盾を抱えることになります。
いやだからそういうとこなんだよね
仲間から論外の危険な団体だって言われてるのをフェミの陰謀論だとなるところまでは普通の人間の感情だよ
しかしそれに対して頭から否定したいから信仰の自由とか他の宗教と何が違うんだと噛みつき返す
一回取り入れたら一生搾り取れるだろうなっていうのが目に見えてる
おぎのがどれくらい関係してるかは知らないけど周りに寄ってくる人間をみて統一教会が目をつけたんだとしたら心底恐ろしい集団だなと思う
このエントリだって統一教会はそういう話じゃないってつっこまれまくってるのに「オタク叩き」だと言っておけば統一教会の悪性や危険性の話しはあやふやになって、見も聞きもしない
こんな集団他にいないよ
本当はもっといろんなことに思うところがあるからそれも増田に投稿したいんだけどなあ。どう書けば伝わるのか分からないから諦めるってことが多い。
ということで、もう言語化できてるものを分かりやすくするという段階じゃなくて、言語化(分節化)の段階における比重の話なんよ。
内言(ないげん)自体があやふやで、しかし確かに言いたいことはあるんだけどそれを成形できてない状態って感じかな。それを言語化できずに諦めること多し。
視覚優位で映像で思考してるタイプの人はその内言の役割すらも頭の中で想起される映像が担っているから、最終地点の言語との距離が大きく文字通りより大きなギャップを持っていると思う。
小さな頃に実家で何回か…、そういえば好きな甘海老やいくらも並べてくれていたな…。 今の増田の財布では、まだどちらかひとつしか選べないが。
あやふやな記憶を頼りにあれやこれやと準備をしていたら、手巻き寿司したことないの?と冗談交じりに聞いてきた。
遥か昔だが有る、なぜそう聞くのかと尋ねると 海苔は四つ切だ、そんな大きなサイズの海苔でおにぎりでも作るのかと彼は笑って答えた。
一方増田家では半形で、コンビニおにぎりの手巻き寿司のひとまわり小さい位の円錐タイプだった。今回出したのも半形だ。
手巻き寿司の海苔は 1/4、1/2、どのサイズがベストなのだろうか。一般的なのだろうか。
余談だが、大人になって好きになった具材は マグロのたたきとたくあんを混ぜたやつ。
なので 電気で動いてる点ではペッパー君と人間は大して変わりません
親ガチャあたり掲示板 親ガチャはずれ掲示板でわけるべき 住む世界が違う
野田が 脳が錯覚すれば それは実在しないことになる つまりこの世界に確実に実在するものは一つもない
ビックニの配信切り忘れ動画 銀魂MAD動画 消えた後悔よりも 山に行けてないほうを後悔したほうがいいんじゃねえの これライフハックね
やばい ブロマガ移動しなきゃ ライフハックの踊らされて始祖を見失った
すべての選択なんてわからない だから失敗する覚悟をもつこと 最善をつくすけどわからないから 失敗はつきもの
竜の助と 前澤の命はおなじ 無価値 オファーがあるってことは納得がいってないことがあること
共感力が高いから美人に共感する(だから美人と同等の発言をついする)って増田があったが……、
美女が多いグループのブスは、共感しすぎて自己の境界があやふやになってくるのか知らんが、自分もモテモテだと思い込んでる事が多々あるよね。
モテるが故の辛さに「わかるー」って言ってるブス、共感して分かった気になるのはいいんだ。そこで止めれば友達思いのいいやつだ。
けど口に出したら勘違いブスなんだ。そして口に出さないやつは当たり前のように目立たないから、美女多数グループに属したブスの共感が「私達モテるもんね!」って空気を出しちゃ、美女多数グループブスに悪いイメージを持つ人はたくさん出るよな。
まぁけど、この私達モテるってのは事実なんだ、そういうグループの君たちはモテる。
けど、私達を私にした途端に破綻するようなやつが言っていいことではないんだ。現場に居合わせる人は内心お前が言うのかと思っていることだろう。
40代の上司なんだが、チャットやメールで「?」をほぼ必ず付けてくるが辛い。
いや、正確にいうと、そのあやふやさをこちらに求められているのが辛い。
「お疲れ様です?」
「どうもありがとう??」
「OK?」
「お先に失礼します??」
「ヨロシク??」
と、とにかく常にあやふやさが高い。よくそんなんで仕事回るな。
私もそれに対して
「おはようございます?」
「承知しました?」
「ご確認ありがとうございます??」(形式的感謝の時は?が2つ)
「ラジャ?です??」
某暴走族マンガか!?と思ってしまうほど「?」が多く使われている。
うちの会社はテレワーク推奨で自宅勤務がほとんどだから、どうしてもやり取りはテキストになってしまう。
時々なら良いのだが、いつも「?」を付けられるほど疑問があるわけでも無い。
そんなに興味もないし、元気ですかー?(ものまね)みたいなのはむしろ寒い。
が、「?」を付けないと「なんで言い切るの!ヽ(`Д´)ノ」と言われてしまい、最近は無理矢理謎多き乙女を演じている。
もしくは無意味に「承知しました??」と2回に1回打っている。
あと「?」を多用するのはこの上司とごく僅かの同年代の人達なので、
他の「?」をあまり使わない人達と実際会話する時に、半疑問形を治さないといけないのも疲れる。女子高生かよ。
というか、自分より目上の人に「?」は使いづらい。
こちらが使っていて何も言ってこないけど、実は何も知らないヤツだなと思われていても嫌だなと思う。
通勤が無くなって楽になったかと思いきや、かなり精神的に疲労する。
今まで「?」をそれなりに使ってきてしまったので、いまさら「?」を使わないキャラになるのも(ポワン ドゥ アンテロガション… ガショーン… (´;ω;`))と思われてしまい、関係性が悪くなるので避けたい。
Fate/Grand Orderには良い部分もあるが悪い部分がありすぎる。
今回はそんな悪い部分を紹介していく。
なお、筆者は型月ファンであるので途中で型月アンチだと思わないように気を付けてほしい。
課金額が100万を超える人がかなりいるらしく、
オタクを引きずりこむようなことをしている。
偉人に対して下品な格好をさせるのは如何なものか。(特にイベント礼装とか)
原作やホロウでもアルトリアやライダーとのシーンがありましたが、下品さはあまり無く、むしろ要らないとすら思ってました。
原作でもそんなシーンがあるから、FGOのことは言えない(偉人に対して侮辱)と言われたらそこまでです。
絵師の作風だから仕方ないとは割り切れないので、こういった絵を許容した型月かDW、あるいは両方を私は理解できない。
やたらとチヤホヤされる主人公など、FGOの主人公である藤丸立花もそれに該当する。
別にそれは構わない。
敬意が欠けている場面が多いのだ。
イベントだから〜なんて言葉で済ますようなものではないとは思います。
正直やめてほしい。
以上がFGOの悪い部分です。
他にもありますが...
型月ガイジの私としては、FGOで過去作品の設定などを大量に使用してくれるそうで嬉しいです。
ちなみに私は二部一章の怒りの日が好きです。
怒りの日は一人で弾くのは基本無理なので
(一人で弾くことも出来ますがかなり難しい)
あの時、サリエリの隣にモーツァルトがいると考えたら胸熱ですね。
私が何を求めているか。
それは今までのFateらしさです。
これまで延々と愚痴を書いてきましたが、最近のFGOはとても面白く感じます。
メインシナリオも私が求めていたFateらしさが出てきて、システム面での不満こそありはするものの納得いく形になりましたし、
最近では、あやふやな藤丸にも自我が形成されより一層素晴らしい作品になったと感じました。
もう終わりが近づいてきてはいますが、このまま突っ切ってほしいですね。
どちらかと言えば、我々ユーザーより型月側の良い部分ですね(笑)
DWの取り分やライターなどの費用でどれほど消えているかは定かではありませんが、それでも型月が手に入る収益はかなりのものだと思います。
これが何故良い点かと言うと、新作やリメイクだったりの資金になったり(新作出してほしい...)、
空の境界、真祖、アルティメットワンなどFGOから知った人も多いのではないでしょうか。
やはりここら辺の月姫、鋼の大地から続く設定や共通の世界観などが繋がって楽しいですし、考察するのも醍醐味ですね。
二部ではメルブラの主人公であったシオンが出てきてビックリしました(笑)
ネロ・カオスも彷徨海出身だったな、とか考えながら、懐かしくてメルブラのアーケードを遊びにゲーセンまで行ったほどです。
もしよければFGOを機に、FGOだけプレイしている人は様々な型月作品を遊んでみてください。
昔からの型月ユーザーも、久しぶりに遊んでみるのも悪くないと思います。
私は佐々木小次郎が好きなので、冬木からずっとパーティに入れてます。
おかげでいつもギリギリの戦いですが......
他のソシャゲだと、レア度によってレベルの上限があったり、上限解放しても高いレア度には最大レベルが劣ったりします。
FGOではステータスが多少劣るものの、基本はレベル最大までレア度問わず上げることが出来ます。ステータスも上昇させるために必要な素材もありますから良い点ですね。
一番良い点はこれです!
エミヤが楽しそうで、これは本当に良かった。
エミヤは衛宮士郎が英雄になった姿で、正義の味方というものに絶望。
大勢を救うために少数を殺す、それを繰り返してきたため疲れ果てており、そこから抜け出そうとして過去の自分を殺そうと考えていました。
しかし本編では凛のサーヴァントになったことや、衛宮士郎が自分とは違うことを確信して、凛に過去の自分を託して聖杯戦争を終えました。
救いは無いのかと、涙無しには見られないシーンだったために、FGOで羽を伸ばしているエミヤを見て嬉しい気持ちになってます。
これ以上書くと長くなるのでここまでに。
FGOアンチであることに変わりはないですが、それでもFate、型月作品であるため応援しています。FGOユーザーの皆様、育成にイベント、そしてメインシナリオを目一杯楽しんでくださいね。
ありがとうございました。
その子は、とにかく故郷というものが嫌いだった。話を聞く限り、主に家族関係が上手くいっていなかったらしい。
例えば、その子は国立大学の学費を殆ど奨学金とバイトによって賄っていた。恐らく親からの援助が見込めなかったのだろう。
時折Twitterで、田舎のしがらみや桎梏に悩む人間が描かれた漫画に対していいねやリツイートを行っていた。彼女の行動の端々からは、故郷や土着的なモラルに対する拒否感が滲み出ていた。
とは言え苦労人の彼女も、最終的に修士課程を満了し、そのまま国有系の企業に就職した。知的な能力が高く、自分自身の人生を自分で切り盛りする自立性を兼ね揃えた子だったから、その結果を予想することは容易だった。仕事においても、時に人間関係での衝突や様々なトラブルに直面していたようではあったけれど、最終的に本社のある某都市への配属が決まったらしい。単に大学の同期で、多少会話を交わす機会があっただけにも関わらず、そういう話を伺っていると誇らしい気持ちになる。何故だろう。
いや、彼女自身の人生に何らかの大きな転機があったというわけではない。彼女の人生に、取り立てて悪いことが起こったというわけではない。
とは言え、それは明確な変化だった。
数年ほど前から、彼女は裕福な家庭に属する人々に対して、憎悪の念を時折滲ませるようになったのである。
というか、はっきり言えば僕自身に対する憎悪を、Twitterを通して仄めかすようになったのである。
彼女と比べれば、僕は裕福な家庭に生まれた。物心ついた頃には家にグランドピアノが置かれてあり、子供時分には英会話教室やらピアノ教室やら水泳教室にやら通っていた。
特に金銭面で苦労をしたという記憶はない。取り立てて贅沢をさせてもらったという記憶もないが、かといって吝嗇を旨としていたわけではない。誕生日やクリスマスには大抵望んだものが与えられた。
そんな、特徴のない、ありふれた裕福な家庭に僕は生まれた。
大学入学後は、仕送りによって生活していた。免許を取るための代金は、家族が捻出してくれた。
そういったありふれた裕福さを、僕は当たり前のこととして享受してきた。
きわめつけに、僕は今定職についていない。
フリーターをしながら日々の生活を送っている。別に収入がたくさんあるわけでもない。それでも、安穏とした日々を送っているのは、要するに実家が太いからだ。仮に、自分の手に負えないような何事かが起こったとして、その時には、まず頼るべき実家が存在しているからだ。
はっきり言って、僕の人生は他の人々に比べれば楽だと思う。
時々苦痛なのは、そういう生き方をしている僕に対して、露骨に軽蔑の視線が浴びせられることである。それはある意味、当たり前のコストだ。裕福な人間は、あるいは、人生を真剣に生きているとは思えないような人間は、折々に軽蔑の視線を浴びせられる。そして、それに対して言い訳をすることができない。その軽蔑の視線に対して、「確かにその通りだ」と頷くことしかできない。
とは言えそれは(繰り返すように)、僕のように中途半端に裕福な家庭に生まれて、ちゃらんぽらんな生活をしている人間にとっては当然のコストであり、受け入れるべきコストである。苦痛は苦痛なのだけれど、かといって、そのような視線を振り払うために定職につきたいかと言われれば、そんなことはないし、僕は雑に生きていたいのだから。
そういう意味で、それを不当なことだと訴えるつもりは僕にはないし、そもそもそんなことをするだけの権利は、僕にはない。
いや、少しだけ嘘をついた。
僕は、彼女にだけはそういう立場を取ってほしくはなかったのである。
彼女は僕のことを金持ちだと言う。ここ数年の間、彼女は主にSNSを通して、僕に対する様々な当て擦りを行ってきた。
僕が察しを付けられるような嫌味、振る舞い、そういうものを、彼女は自覚的に行ってきた。
そういう振る舞いをされることは、ある意味僕には当たり前のことだったけれど、それなりに僕は傷つくことになった。
他の人間が同じことをするならばともかく、よりによって何故君がそんなことをするのだ? と僕は思ったのである。
彼女は彼女の生まれた土地の、土着的なモラルや、あるいはその純粋な資本の無さに苦しめられてきた。
だからこそ、彼女が僕を毛嫌いすることは、ある意味では当たり前のことである。そこに、僕が拒否できるような理由は存在していない。
それどころか、僕は彼女が我が身の理不尽さを、どんな形であれ承服してはならないし、何らかの形で表出するべきであるとさえ思うのである。
例えば、彼女は奨学金の返済をする必要があった。例えば、彼女にはちゃらんぽらんな暮らしをし、あやふやな夢を唄って生きる暮らしは許されなかった。そう、僕のように、文筆の夢をふらふらと唄い、そのくせその努力を身を削るまでに行っているかと言えばそうではない、そんなちゃらんぽらんな人間を拒否し、排斥する行為が、彼女には必要だったのではないかとさえ僕には思えるのだ。
とは言え、彼女の行為を僕が受け入れられない理由の一つは、別のところにある。
つまり、煎じ詰めれば彼女のやっていることは、彼女自身が忌み嫌っているところの、「土着的なモラル」の継承なのではないかと思うのだ。
恵まれている者に対する敵愾心、その誰かを貶めようとする気持ち。
楽しそうに飛び、楽しそうに歌う鳥に向かって石を投げる行為。そんな鳥が地面に落ちて這いずり回ることを、志向する行為。
「県外の大学になんかいかずに、地元の学校に通え、あるいは、就職をしろ。金銭的な支援は期待するな。お前に一人で切り盛りすることは無理だ」
教育的資本によって支えられる生活というものを、イメージすることができない人間に、彼女は囲まれていたはずだ。
だからこそ、彼女は自身の力で自身の人生をやりくりしなければならなかったのだから。
そういう力が、土着的なモラルの中には含まれているし、そのような力が、彼女の身の回りには実際に存在していたことと思う。
もちろん、彼女が僕に対して向けている暴力は、そのような暴力と完全に同種のものではない(というか全然違う)。
むしろ、彼女の受けた暴力とは違って、僕の受けている暴力は、ある意味では正当な暴力ですらある。
不当に恵まれている者を攻撃すること、それは、ある意味では正しい。僕は不当に恵まれているのだ。それに対して、少々のやっかみが向けられることは、ある意味では当然のコストなのだ。少なくとも、そのようなやっかみを前提とせずに生きることは、不可能なのだ。
とは言え、彼女は周囲から引きずり降ろされそうになり、それを拒否することができた人であるからこそ、僕は、彼女にそんな暴力を(彼女が受けたものとは違った形であれ)継承してほしくなかったのである。
自分より恵まれている人間に対して、石を投げるという行為が正当化されるところのモラルは、普遍的なモラルではありえない。そのモラルは、ある人の人生から生じたところの、ある人の生育環境から生じたところの、相対的な、つまりは土着的なモラルに他ならない。
彼女は、そんな土着的モラルを拒否することを、生活の旨としていたように、僕には思われるのだ。
そんな彼女が、何故土着的な、普遍的ではないモラルに身を任せ、自分の暴力を正当化し、他人を傷つけなくてはならないのだろうか?
繰り返し述べる通り、僕の人生においてそういう暴力は日常茶飯事であり、それが存在することを拒否できる立場に僕はいない。そういう立場には全くない。
すべてにとって共通して言えることは、「なぜ難しく感じるのか」という点と、「どう突破するのか」という点だ。
この2点に集約される。
難しい文章を読むのは、誰にとっても難しい。
もちろん、ある人にとっては難しい文章が、別のある人にとっては簡単だというのはよくある。ただそれは、前提知識の違いや読み方の違い、たまたまその人の感性が筆者の感性にフィットしている場合や、筆者に対してどのぐらい信頼感を抱いているかにもよる。もしそこに差がなければ、同じ難しさになるはずだ。
つまり、もし自分と似通った能力を持っている人がその難しい文章を読めば、必ず難しいと感じるはずだ。
思考実験として、自分という人間をコピーしたあと、その文章の読解に必要な能力だけはそのままにして、さまざまな性格・さまざまな外見・さまざまな人生経験・さまざまな年齢に変えたとしよう。そういう人も同じようにその文章は難しいと感じるはずだ。
わかりやすい例を挙げるならば、タイからやってきたレンさんという存在を仮定しよう。レンさんは、日本語を猛勉強して、自分の日本語運用能力と遜色ない能力を身に着けているとする。なので、レンさんは自分が難しいと感じる文章を同じように難しいと感じる。ここで、レンさんは外国語を相当なレベルまで引き上げることができたのでバカではない。つまり自分がバカだから文章が難しいわけではない、ということだ。
つまりそれは、自分がバカだから難しい/読めないのではなくて、自分の現在の能力だと単に難しいというだけであり、「単に差があるだけだ」と認識する必要がある。その「差」とは「上下」ではなく、どのぐらい「違うか」というものだ。たとえばファッションに興味がない人が、ファッションの専門誌を読まないといけなくなったとき、ほとんどの言葉は未知語ばかりで難しい。ただ、そのファッションの言葉を知らなくても誰も自分はバカだとは感じないだろう。それと同じで、難しい文章を読むための知識が不足している可能性があることだけを認識するだけで、難しい文章を読みやすくなっていく。
アーガイルやAラインシルエットという言葉を知っていても「ふーん」と思われるのに対して、ロピタルの定理やはさみうちの原理を知っていると「賢そう」と思われるのは、文化やブランディングや前提知識の差によるものであって、バカとか頭いいとかそういう問題ではない。文化圏によっては真逆の扱いを受けることもあるだろう。
それに対して一切の興味がないとその文章を読むことは難しい。
「知らなくてよい」「自分には不要」と思っていることを知ろうとするのは難しい。「嫌いな食べ物を食え」と言うのに近い。そもそもそれが自分にとってどれぐらい有意義なのか知らなければ読む進めることさえ困難となる。
興味関心の度合いは、難しい文章の難しさをどのぐらいまで我慢して読み進められるかという突破力に密接に関連してくる。興味が薄いと「こんなものに時間を費やす必要があるのか」と思ってしまうからだ。結論、興味とは「どのぐらい理解したいか」なので、興味が薄ければそれ相応の「理解したさ」になる。そして、それぐらいの「理解したさ」では頭打ちになる場所が来たときに、終わってしまうことがわかる。
知るのに費やせる労力が100で、知るのに必要な労力が101ならば、知ることはできないという単純な理屈である。そもそも「どのぐらいそれに投資できるのか?」という興味レベルが重要になってくる。こうしたエネルギーをどう人工的に生成できるかは知らないが、自分を誤魔化してあたかもパッションがあるかのように振る舞うことはできる。
未知語や未知の概念や、自分にとって慣れ親しんでいない言葉(理解語彙ではあるが使用語彙ではない言葉)が文章中に出てきたとき、それを知らないことや習熟していないことは問題ない。また、それを知らないことで読めなくなることも問題ない。
大事なことは、そのときに、どの言葉がわからないせいで文章が理解できなくなっているかを知ることだ。その未知語は、実は他の箇所で説明されていることもあるだろうし、本当に初出の言葉かもしれないし、筆者オリジナルの言葉かもしれない。ともかく「この言葉を知らないから正確に読めていない」と考える。そうすることで「この言葉が全体の理解を妨げているのだ」ということがわかる。
実はその言葉はそのあと説明されるかもしれないので、いったん「こういう意味なのではないか」と推測して読むことも必要かもしれない。ともかく、文章が難しいのではなく、言葉が難しいだけなら、言葉を知ればいいという話になる。
文章によっては、循環参照になっている言葉もある。循環参照というのは、たとえば「AとはBである」という説明をしているのに、あとから「BとはAである」という説明がされて、結局何の説明にもなっていないような関係のことを言う。そういう循環参照された言葉は「筆者には自明だから説明するまでもないこと」または「筆者も実はよくわかってないこと」のどちらかに分類されるのではないかと思う。こうした言葉は、別の場所で自分で理解せざるを得ない。
また、知らないことだけでなく知っている言葉でも、その理解度次第ではとてつもなく難しく感じる文章に進化する。
たとえば、完全に説明できる言葉の理解度を100%・未知語の理解度を0%として、理解があやふやな言葉の理解度を50%としたとする。そうすると、あやふやな言葉が10個入った文章の理解度は、50%の10乗で、0.09%まで低下する。理解度が90%の語でも、20個あるだけで12%まで低下する。この数値は、掛け算で雑な計算をしただけなので、実際のところは実験なりなんなりしないとわからないが、ともかく、あやふやな理解の言葉ばかりが並んでいる文章を読み解くのが困難だということそれ自体には納得していただけるものと思う。
自分では100%理解していると思っている言葉でも、実際には98%程度だということもある。むしろ、100%理解している言葉などないと思ったほうがいいかもしれない。相手の人生とこちらの人生が違う以上、全く同じ意味で使われている言葉などないものだ。未知語うんぬんにとらわれず、どの語が理解を妨げているか検出できれば、あとは調べるだけになる。
事細かく書かれた描写を読み解くのはとても難しい。1つ1つの文も異様に長くなるため、本来は平易な概念でも、ひとつの考慮漏れも逃さないようにするために緻密に書かれ、そのせいで難しくなることがある。
厳密にするのは必要なことも多いが、概要を示さないでいきなり厳密な論理展開を始める文章も多い。そうした文章は、読者に対して概要提示を忘れていたり、概要提示が雑だったりすることがある。
そうしたとき「これはとても難しいことを言っているけど、もし単純に捉えるとするとどうなのだ」ということを考えると、急激にわかりやすくなることがある。
未知語うんぬんの項でもそうだったが、「わかっている側」からは「わからない側」が何を知らないのか一切つかめないこともあるため、「わかっている側が想像する知らないであろうこと」と「実際自分が知らないこと」に大幅な差があることがある。その差には、どのような手段でもいいから、自分で気づく必要がある。
例示・図示などで、二重に説明されていない文章もまた難しい。まず、文単体では理解しがたいものや、直観に反する文があったとき、それが筆者の思った通りのことなのか、筆者が誤って書いたものなのか、自分が間違った理解をしているのか、全然わからないものがある。文だけで全く疑問に思わず次に進められれば問題ないが、ひとたび疑問に思うと袋小路に入ってしまう。そうしたときに「例示・図示されていないからわからない」と気づくことが必要になる。
興味関心の部分に通じるものでもあるが、信頼していない筆者の文章というのは読めないものだ。「本当にコイツが言ってることは正しいのか?」と思うと、すべての文に対して正しいかどうかの考察を入れることになる。
ほとんどの人は、反ワクチン・天動説・電波洗脳陰謀・宗教団体関連の文章は読むに値しないと考えていると思う。これに関する是非は置いておいて、これらの書物になんら信頼を感じてない人にとって、これらの書物を読むことは大変困難になる。すべてを検証しなければいけないからだ。そういう人よりも、全幅の信頼を置いて読み進める人のほうがスッと「理解」していくことだろう。
基本的に、普通の人達にとってこうした書物をたくさん読むのは苦痛でしかないはずだ。たくさん読めば「ミイラ取りがミイラになる」ような状態になりかねないし、それを読んでいることで他者から嫌な目を向けられることを避けたいはずだ。興味も信頼も一切ないのに、そうした文章を大量に読むのは難しい。
「その文章を読む価値があるのか」という想いの度合いが薄ければ、それに応じて文章は難しくなってしまう。
TypeScriptとは、プログラミング言語の1つだ。これを学習することで論理的思考力が養われ、読解力が上がり、難しい文章を読むこともたやすくなる。実際に私もそうだ。
実はこれは文章にだけ言えることではない。共通して言えることは「その難しいことをやるだけの価値があるのか」「自分の人生の一部という、他にも選択肢がある中での、かけがえのない時間と交換するだけの価値があるのか」というモチベの部分にある。モチベは時間に応じて減衰していくので実際には習慣をつけるという能力も必要だが、点火点であるトリガーではモチベは有能な起爆剤になる。習慣化や自分のスケジュールに組み込まれることによって、必要なモチベの量はだんだん減っていくこともあり、モチベだけがすべてではないが、基本は「価値あるぞ」と思えるかどうかだと思う。
本質的には、難しいことそれ自体は難しくない。難しいものにぶち当たったときに「それを突破する価値がある」と考えられるような自分の状態を作り上げることが必要なのだと思う。
これが難しい。自分には突破できるという信念(自信)や、それを裏付けする成功体験や、たとえ無駄になったとしても人生において問題ないという経済状態、あなたならできるのだと根拠はなくとも言ってくれる身近な人なども必要になってくる。これが難しいのだが、しかしそうした環境を手に入れるためにどうすればいいかは、ここまで読み進めてこられたみなさんならもうおわかりだろう。
「続・鴻巣友季子の時評は何が問題なのか」(https://anond.hatelabo.jp/20210829124450)の「鴻巣解釈の検討」の項だが、Twitterで鴻巣自身から、その読み筋についてのツイートは削除したので言及するのはアンフェアだと指摘されたため、これによらない形で検討する。
なお、その後鴻巣は私のアカウントをブロックするアンフェアな挙動に出た。「そういうツイートをしていた」ことは紛れもない事実なので、記事の当該箇所を修正するような対応は取らない。
さて、参照できるのはEvernoteくらいなので、解釈に相当する部分を引用しよう。
ここで、帰省して初めて、母と二人で話した。
父が体調を崩してからの二十年、幸せだった、と母は噛みしめるようにしみじみと言った。(わたしは-筆者註)驚いて声を飲みこんだ。
母本人の意識や記憶と、傍から見た"現実"に齟齬があるのだなと思いました。
じつは、父が体調を崩してから(も)「不仲なころ」はあったということだろうと。
その後に、主人公の母が父を「いじめ」ていたことを父の亡骸に詫びる場面があります。
いよいよ蓋を閉めるというときになって、母がお棺に顔を寄せ、「お父さん、いっぱい虐めたね。ずいぶんお父さんを虐めたね。ごめんなさい、ごめんなさいね……」と涙声で語りかけ始めた。「お父さん、ほんとにほんとにごめんなさい……」と繰り返す声を、ぼんやり寄りのポーカーフェイスで黙って聞いていた。p43
このいじめが二十年間の看護・介護中に起きたとは特に書かれていませんが、いつ起きたことなのかの明示もありません。
父が病気になる前にも、看護・介護中にもあったのだろう、そういう物語として、わたしは読みました。ここが、作者の意図と違うと指摘されているところです。
(鴻巣友季子、「8月の朝日新聞文芸時評について。」https://t.co/x7kg81XQPc?amp=1 強調は原文ママ)
①「記憶の中の母は、わたしから見ると、家庭という密室で怒りの発作を抱えており、嵐になるたび、父はこらえていた。/不仲だったころもあったよね、と遠慮がちに聞くと、母は「覚えてない」と心から驚いたように見えた」。〈わたし〉がここで思い浮かべている「記憶の中の母」が介護中であるか否かという問題。
②単純に母が「覚えてない」と言ったことを理由に、記憶全般があやふやになっていると判断し、「母本人の意識や記憶と、傍から見た"現実"に齟齬がある」と解釈してよいか、また「じつは、父が体調を崩してから(も)「不仲なころ」はあったということだろう」と解釈してよいかという問題。
①については「鴻巣解釈の検討」の項目で、鴻巣Evernoteが無視している「それから、/「もしかしたら、病気になる前は、お互いに向きあってたから性格や考え方がちがいすぎてぶつかってたんじゃない? この二十年は病気という敵と一緒に戦っていて、関係が変わったとか」/と言ってみると、母ははっと息を呑み、「そう、その通りだ」と大きくうなずいた。」の記述から否定した。また、ここは母との会話であるから、母も「病気になる前」と「この二十年」は別だと、つまり「不仲だったころ」は「病気になる前」であるという〈わたし〉の前提を共有していると取らなければ非合理的である。無論、実は会話が噛み合っていないのだと読んでもよいが、その読みがテクストを豊かなものにするかよく考えた方がよい。
②についても、母は「母ははっと息を呑み、「そう、その通りだ」と大きくうなずいた」ので、記憶が全く失われてしまっているとは考えにくい。言われれば思い出すのだ。また、「母本人の意識や記憶と、傍から見た"現実"に齟齬がある」と仮定する(鴻巣は「思いました」としか書いておらず、そう判断する合理性を説明していない)のであれば、父の棺の蓋を閉める際の「お父さん、いっぱい虐めたね。ずいぶんお父さんを虐めたね。ごめんなさい、ごめんなさいね……」が介護中を/も指しているとすることは非合理的である。この仮定は、「夫を虐めた記憶」を含め、母のすべての記憶がそもそも偽りかもしれないという、読みの未決定状態をもたらすからである。この仮定のもとでは、「弱弱介護の密室で」「虐/待した」を事実であると確定することは、〈母〉も含めた作中人物の誰にも、テクストを読む誰にもできない。よって、介護中の虐/待を作中世界で起きた出来事として捉えることは、合理性を欠く、評者の「主観的」な決定行為にすぎない。
鴻巣の読みがいかに非合理的であるかをここまで確認した。私は「非合理的である」ことを示したまでで、「不可能である」とは言っていない。また、「非合理的な読み」は「解釈」と呼ぶに値しないと考える。
なぜ鴻巣の読みが合理的でないと示さねばならなかったかといえば、それが鴻巣の主張が成り立つための必要条件であることを、鴻巣自身が認めているからである。
もちろん、今回の小説で「じつは父は生きていた」などの読解を書評で行うのはおかしいと思います。「合理的な解釈であれば自由ではないか」という意味です、念のため(桜庭さんは当然おわかりと思うので、桜庭さん宛てではなく、これを読む方々に宛てています)。— 🐈🦔鴻巣友季子(『翻訳教室 はじめの一歩』(ちくま文庫)) (@yukikonosu) August 27, 2021
鴻巣友季子の読みは合理的ではないと私は考える。桜庭の代弁ではない。私個人の考えである。だが、私の考えは合理的であると考える。
よって鴻巣に自身の読みが合理的であるということを説明してから議論するよう提言したところ、このやりとりを最後に鴻巣にブロックされた。
先程のリプライと重複しますが、フェアであることに拘るのであれば、まずご自身の読みの合理性を説明するべきではないでしょうか。桜庭さんは「覚えてない」「覚えてたのか」の呼応を論拠にご自身の解釈の合理性を説明しているのですから。— 祝辞 (@yugatoh) August 30, 2021
すでにこの件には応答しました。失礼します。— 🐈🦔鴻巣友季子(『翻訳教室 はじめの一歩』(ちくま文庫)) (@yukikonosu) August 30, 2021
鴻巣と桜庭の議論はリアルタイムで、公開で、Twitterで行われており、何が自分の主張を正当化するかについてもツイートで宣言している。この「応答」はTwitter上で行われているはずだが、私には確認することができない……わけがないんだから、ブロックなんてしない方が得だと思うんですけどね。
私は、「介護中の虐/待を作中世界で起きた出来事として捉える」「評者の「主観的」な決定行為」は自由であると認める。
しかし、それを個人の読みとしてではなく、作品の要約(としてどう見ても読める箇所)に断定で書くという行為は別の問題である。