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はてなキーワード: 考察とは

2024-02-21

[] anond:20240221121025

生成AIで生成されたわんちゃんを、そうと見抜く

「そうと見抜く」の部分がやや分かりづらい。「嘘と見抜く」や「偽物と見抜く」のようにしてみてはいかがだろうか

わんもにゃんも複数飼ってると相互作用効果によって指数指数関数的に増大

指数」は「わんにゃん指数」の脱字?

獣医将校

ワロタ

消音した小火器

火器個人携行できる火器という意味合いが強いため、ライフルやサプレッサーなどのような到底消音しきれないものが含まれイメージされてしまう恐れがある。動画でみると分かるが、ライフルはサプレッサーをつけてもうるさい。あれの目的は射手の耳の保護位置特定難易度を上げること、及び発射炎の軽減と指示を聞き取りやすくすることにある。しかしわんにゃんのストレスは到底軽減できないだろう。

わんにゃんにストレスを与えないよう真面目に消音する場合、"獣医ピストル"として知られる「Brügger & Thomet VP9」を登場させるのはいかがだろうか。火力は低いが、亜音速弾を使うとトリガーハンマーの音しか聞こえない。

セグウェイなどで構成された機械大隊

セグウェイ生産終了しているため、兵站上の懸念考察される。現代フィットさせる場合、電動キックボードが穏当と思われるがいかがだろうか

ボーはおそれている

自分が書いた前回のボーおそ日記

  

いまだに、日々ボーはおそれているについて考えている。

考察サイトとか、ふせったーとか、ツイッター(X)とかも見てる。

モナがボーの男性性を嫌悪しているみたいな考察が多いと思うけど、違うと思う。

モナはボーから欲情が欲しかった。

彼女の夫が彼女に与えなかった(推測)「(性的にも)愛されている」という実感を、ボーから取り立てようとしていたんだと思う。

  

以下論拠

・細かいセリフは忘れたが、クルーズ船の寝室でモナはボーに対して自分男性観(男は鈍感だけどそこが良いのよねみたいな話)を語った後、字幕ではなく英語音声の方で「あなた男性性を誇りに思う/あなたは私の誇らしい男」みたいなことを言っていた。

・↑の間に、モナは一度ボー少年股間に一度視線を向けている

最後裁判で、ボーが思い出の女性セックスしたことを詰めるシーンで弁護士が「ボーはあの女に愛情を与えた、本来彼女(母)に与えるべきところをーーー」みたいなこと言ってた(よね?)

・↑もっとモナが怒った場面(手すりガシャーン

  

ボー少年モナ下着を悪い友達に与えたことに関する怒りも、上記のことが関係してるんじゃないかな。

ボーがモナのことを(性的対象として)愛してるなら、そんなことを許すはずがないから。

さらに言えば、モナクルーズ船で女の子にボーをけしかけたのだってテストだったんだろう。

ボー少年に与えられた正解は、女の子に目もくれずモナを慕い続けることだった。

  

ボーの男性性は許されている、モナに向ける時だけは(しかモナにそれが向かうことは一度もなかった)

(そしてそれが、モナが定めたボーの一番の誤ちなんだろう)

  

もちろん息子であり庇護であるボー少年が、モナ性的に愛する義理なんかないのだけれど。

というか、迂遠性的虐待ですらある。

  

屋根裏の巨大ちんちんに関しては、モナが用意した着ぐるみ的な何かだと思っている。

全てはモナ管理下にある、だからあのちんちんだってモナが用意したものだ。

モナの中の夫は陰茎だけの悍ましい存在であり、それをボーと共有したかった。

そしてボーが父の罪(絶対浮気だと思う)を贖うよう、モナはずっと望んでいた。理解して欲しかった(繰り返すが、ボーにそんな義理は全くないのだが)

  

辛いのは、その狂った論理の中でもモナの悲哀は本物なのだ

モナは本気でボーが「自分を愛する息子」と「自分を愛する夫」にならないことを悲しんでいる。

母親性的に求められたことはないが、この本物の悲哀の迫力はわかる。

  

さぞかし辛かっただろう、今は休んでくれボー。

しばらくしたら深夜のコンビニかいって、肉まんとか買うといいよ。

あったか食べ物って安心するから

2024-02-20

anond:20240220170904

そしてそれが人々の倫理への考察を深めてるんだとすると

神の見えざる手…!って感じがする

配信に載せられない怪談って何?

考察では神関係先祖土着宗教ドッペルゲンガーがあがったけど他には?

大阪万博賛成派一般人の考え

大阪万博に対する賛成の立場公言する私は、近頃X上で高まっている論争の中で、中止に伴う料金が4月以降に大幅に上昇するという事態に直面しても、賛成の声が聞かれるべきであると強く感じている。ここで私が大阪万博を支持する根拠を明確に述べたい。

第一に、万博を中止しても、その資源有効に他の目的に振り分けられるとは到底思えない。反対派からは、能登地震復興資金として利用すべきだという声がしばしば挙がる。しかし、実際には、万博の中止がそのような形での資源有効活用保証するものではない。2億円をトイレに費やしたり、現実的ではない空飛ぶ車の採用を進めるような組織が、資源を適切に配分するとは考えにくい。そのため、不透明な使途よりは、万博という比較的透明性のあるプロジェクト資源活用する方が、遥かに望ましいと私は考える。

第二に、万博を強行しても100%の失敗とは言い切れないものの、様々な問題が明らかになり、それが責任追及へとつながる流れは、東京オリンピックの時に見られたシナリオ類似している。私は、東京オリンピック成功したと見なしている。コロナという前例のない事態が発生したにもかかわらず、昭和時代に対する懐古的な視点を打破する手段として、それは有効だった。賄賂癒着などの問題が表面化し、日本社会悪弊を浮き彫りにする絶好の機会となった。大阪万博もまた、失敗する可能性は高いが、この国際的プロジェクトを通じて責任問題が大物政治家や実力者に及ぶことを期待し、そのプロセスを目撃したいと考えている。なお、仮に成功したなら私は喜んで行くだろう。

反対派の皆様には、この観点からもう一度考え直していただきたい。大阪万博は、単にイベントの成否を超えた、社会的政治的意義を持つプロジェクトである。その全体像理解し、賛否双方の意見を深く考察することが重要である

2024-02-19

ゲームって二つのストーリーが同時に進んでるよな

前置き(「なんとなくわかった」と思った時点で飛ばしていいよ)

第4の壁によってそれらは真っ二つに区切られている。

「一度もゲームオーバーになることなく最終決戦まで生き延びる主人公たちの物語

「何度もゲームオーバーになりながら、リトライを繰り返しながら成長するプレイヤー物語

もちろんこの二つを両立させることは出来る。

それはゲームオーバーと死を結びつけないことだったり、周回プレイさえも含めてキャラクターの設定に組み込んでしまうことがそれだ。

クリアと同時にセーブデータを消去したり、更にはセーブデータを消した事実さえゲームの中に組み込んでくる作品も出てきた。

それでも、新しいゲーム機やPCを購入すればプレイヤーは0から世界スタート出来てしまう。

同時に、まだプレイしたことがないゲームネタバレを知ってしまえば、0からゲームを始める機会は永遠に失われる。

ゲーム物語」と「プレイヤー物語」は絶対的独立している。

それを打ち破ったのがMMOゲーム凄さであると語る人もいるが、たとえゲームの中の時計を止めることを不可能にしても、プレーヤー物語ゲームの中に組み込もうとしても、結局それらはゲームであることから脱することはないと私は考えている。

ゲームスポーツとしての側面を追求することでプレーヤー物語ゲーム勝敗に引きずり込むことは出来ても、そこまで来ると今度はゲームの中におけるストーリーは形を失い、競技のための触媒しかなくなるのではないか

将棋盤の上に広がっていた国盗りの物語は、プレーヤー技術向上に伴いただの記号となる。

本題

その昔、「物語が素晴らしい」と語られるゲームは「ゲームの中の物語」に対して送られる言葉だった。

だが、時代と共にそれは変化し、ナラティブ重要性が語られるようになる内に「プレーヤー物語」こそが重視されるようになった。

たとえばSEKIROだ。

主人公では死の淵から蘇る設定こそあるが、ボスキャラクターに敗北したとき世界時間のものが巻き戻る。

第二形態になるまで痛めつけたはずの敵は無傷へと戻り、登場人物は同じ会話を何度も繰り返す。

主人公物語」は「ただ一度の敗北を除けば、不死の力により強敵を打ち破り続けた豪傑」であるが、プレイヤーは「何度も敗北しながら相手のモーションを盗み、時に攻略サイト動画を覗いて対策を練り上げることにより遂に勝利した」という物語を歩んでいる。

そして、SEKIROで評価されている物語は、この後者、「プレーヤーの敗北と復讐物語である

ゲームごっこ遊び場所だ。

プレーヤーコントローラーを通して画面上の何かをラジコンのように操作し、それによって何者かを演じる。

独裁政権暴君であったり、愛らしいマスコットであったり、不気味な怪物英雄たちの指揮官、様々なものに乗り移り成り代わる。

ゲームがまだ全くリアルでなかった頃、ゲームセンターや喫茶店レバーを握っていたプレーヤー達が演じていたのは画面のキャラクターではなかった。

「難しいゲームスイスイ攻略するゲーマー」という役を演じていた。

レトロ世界人間想像力を掻き立てはしたが、そこにある没入感には限界があり、プレーヤーと画面の中のキャラクターの間にある第4の壁の厚さは現代の比ではない。

そんな中、ゲーマーを名乗る者達は「ゲームというごっこ遊びを上手にこなす自分」を演じたくてコインを投入し続けたのである

段々とゲーム映画のように物語を見せるものへと変化していき、プレーヤー側も「キャラクター冒険追体験する」という感覚を求めるように変化していく。

そのうちにゲーマーは観客となり、コントローラーを握る行為が本のページを捲るのに似通ったものとなっていく。

ゲームを薦めることはストーリーを追うための手段であり、それ自体目的ではなくなっていった。

そんな時代が続くと今度は、「自由度」「選択の影響」といったものが重視されるようになった。

単に決められたフラグを順番にこなすだけの作業は、ごっこ遊びとしては退屈になってきたのだ。

選択ゲーム世界に影響を及ぼすことにより、その世界構成要素としての没入感がより強まることが発見される。

だが、その時代も少しずつ陰りを見せ「結局はトゥルーエンドがある」だとか「何周もするのが面倒だ」とか「どうせ全部動画で見る」だとか、そういった体験が積み重なることで、自由選択もまた単なるフラグ管理確認作業へと認識が変化していったのである

自由選択」や「選択責任」といった要素が飽きられだした今、ごっこ遊びはどこへ行ったのか。

再び「ゲームを遊び倒しているゲーマー自分」を演じる遊びへと帰ってきたのである

これには配信SNS関係している。

トロフィーの獲得状況を見せ合ったり、考察を語り合ったり、配信で盛り上がったりと、プレーヤー同士の交流が盛んになることによりゲーセン時代の「ゲームやりまくりな俺凄くね?」の遊びがインターネット上で繰り広げられるようになった。

その中で伸びていったのが、「高難易度と成長しやすさを両立したゲーム」だ。

「遊びにくさと難しいを履き違えるな」という金言があるが、これを完璧に守りきり「遊びやすいが難しい」を完成させたゲームがこのジャンルだ。

一見理不尽なほど難しいが、プレーヤーが成長することによって確実に強くなれる丁寧な階段がその中に仕込まれているゲームである

それの亜種として「入り組んだ設定があるが、情報を整理すれば読み解けるゲーム」も人気となっている。

考察が盛り上がるタイプゲームということだ。

苦戦した強敵を軽々と倒し、まだクリアしてないプレーヤーが苦戦しているのを高みの見物をするゲームと、何回な設定について考察サイト議論を重ねたり盗み見て理解し、それに初めて触れたプレーヤーに「いずれ分かるさ」と上から目線かますゲームコントローラーを握っている間の難易度こそ違うが、そこの性質は良く似ている。

「やり込んだプレーヤー自分の成長(成功)を感じることが出来る」という点だ。

ゲーム内外にプレーヤーの成長(成功)の物語が散りばめられており、その成長(成功)を「つい最近始めたばかりで苦戦しているプレーヤー」との比較によって実感できるようになっている。

人は、昨日よりも優れた自分になりたいという願望がある。

だが簡単はいかない。

現代人気のゲームは、その願望を実現したかのような気持ちにさせてくれる機能があるゲームだと言えるだろう。

カルトな人気を誇るゲームを「ものすごい体験をした」と持ち上げるプレイヤーの中にある心理も、「物凄い体験をした自分」と「その体験をまだしてない自分」を比べて、成長や成功感覚を、自分物語として味わっているのである

現代ゲームに求められるのは「自分成功したという物語」をプレーヤーが味わえることだ。

ゲームにおけるストーリーの良し悪しは、脚本ではなく、プレーヤーナラティブによって決定されている。

2024-02-17

オタク「女オタク界隈にクレーマーが多いのは男のせい」

BLを焼く男オタク存在がすっぽり抜けてるガバガバ考察男性愛好者の多いショタガチ系ケモ系は隠れないんだわ。誰の迫害から逃れてるか自明。順番が逆で因習村の村長が現れるのは男オタから防衛が口実。

https://b.hatena.ne.jp/entry/4749282689304255136/comment/cha9

2024-02-16

anond:20240216214457

まず大前提として現在使っている証明体系が無矛盾であるします. 証明体系が矛盾しているというのはある命題Bについて, Bかつ¬Bが証明できることを言います.

(かつの記号が出なかったので日本語代用します. )

言及されている規則はいわゆる二重否定の除去と呼ばれるものですね. 一応他の推論規則に関してはモダスポーネンスなど標準的ものを使っていると仮定します.

その場合, 言及されている生徒の``証明‘は証明ではありません.

なぜならそれが証明である仮定(もしくは¬¬¬¬¬AとAが等しいと仮定)すると, その生徒の証明に手を加えることでAかつ¬Aの証明を得ることができるからです. これは現在使っている証明体系が無矛盾であることに反します.

(今形式化された証明体系を数学的に考察しています. これは形式化することの利点です. より詳細なことは数学形式化などで調べていただけると幸いです. )

自称ユーチューバーの41歳男性、Colaboに対し嘘の内容で名誉毀損書類送検

アニメイト販売中止の理由これだろ

https://news.yahoo.co.jp/articles/0e2220c0810337431fb294d2376daef55c2d65e7

暴力などの被害に遭った10少女支援を行う一般社団法人Colaboに対し、SNS上にうそ書き込みをして名誉毀損したとして、警視庁自称ユーチューバー男性書類送検しました。

書類送検されたのは、自称ユーチューバー男性(41)で、おととし9月自身ブログで、一般社団法人Colaboについて、「10代の女性たこ部屋に住ませ、生活保護受給させて、1人6万5千円を徴収してる」とうその内容を記載して、名誉毀損した疑いがもたれています

Colaboは、「悪い風評が流れ、活動に影響が出た」などとして、去年11月にこの男性刑事告訴していました。

任意の調べに対し、男性は「SNS上に載せたのは事実だが、ホームページに上げている画像を見て、検証考察した過程を論評したまで」と話しているということです。

anond:20240216170754

分かったじゃねえだろ

考察だろ

考察と作者イタコ区別もつかないのかこのゴミ

anond:20240216161225

追伸。

イデア論かな哲学書読めばってブコメついたけど、順序が逆なんだよね。

イデア論とか学校で習って本読んだりして教養として知ってるからこそ、改めてその考え方を自分なりの具体的な考察対象にあてはめて思索したくなるわけよね。

先達の哲学者たちがいなかったら俺はいまだにブルアカで抜くだけの毎日だわ。むしろ哲学者リスペクト100パーセントなんだよね。

あいブコメつける人って「方向性とかみたいな意味ベクトルという言葉を使ってる人は横文字使いたがりの格好つけ」と言ってる人みたいな人を性悪説的にとらえるクレーマー気質が高い人間に感じる。

ちなみに俺はベクトルという言葉を使う人は「周りがベクトルという言葉を使ってるからリアルタイム性を要求される会話でとっさに出てくる言葉ベクトルから、それをそのまま使ってる」ってだけだと思う。

anond:20240216154226

はぇ〜興味深いな

なんでバズりそうか考えてみようか

A:

数学存在する以前において、数とはなんだったのか

B:

数学定義は本当に厳密で一意なものと言えるのか気になりました

まずは重要タイトルやな

Aは数という認知の根源を考察しそうなタイトルやけど、Bはまるで見た人に数学について問いかけるようやなあ

ここにバズのポイントがありそうな気がするで

初期の返信の傾向を見ると「それは数学ではない」「数学はそういうもん」という感じやなあ

ピキった人らがシュバってるように見えるなあ。おそらくやけど、カニンガムの法則意図せず発動しとる気がするで。

「お前は数学を取り違えてる」って。

まあ数学の話か微妙なのはそうやけど、おそらくタイトルで"数学"を見たあとの中身の哲学感の差で"コイツは変な勘違いしとるアホだ"と認識してそうやなあ

普通の人にとっての数学学校でやる数式と公式証明のやつやからなあ おまえ何変なこと気にしてんのってわけやなあ 面白いと思うけどなあ

ここでAのタイトルをもう一度見てみると、"数学存在する以前において"と書かれているから、じゃあ数学の話じゃないなあ

でもBは"数学の〜"と書かれてるから数学の話かもしれないなあ この違いが効いてそうやなあ

ということで、Aのほうは正直ツッコミどころがなかったから伸びなかったと思うで(タイトルと中身の一致)

Bはツッコミどころが(勘違いにせよ)あったから返信が多くなったと思うで(タイトルと中身の不一致)

ワイが最初の方で言ってた"みんなは数学が嫌い"ってのは訂正するで

多分みんなが嫌いなのは哲学やね

なんか書いとるうちにトラバが増えてるなあ 真面目な返信も出とるね

ワイにできる考察はこんなもんや よろしく

数学定義は本当に厳密で一意なものと言えるのか気になりました

たとえばユークリッド幾何学での直線は「幅をもたず、両側に方向に無限にのびたまっすぐな線」だそうですが、これも「幅」とは?「(幅を)持つ」とは?両側とは?「方向」の定義は?「無限(限りが無く)」とは?そもそも「限り」って何?「のびる」とは?「まっすぐ」とは?「線」と結論づけるのは循環論法じゃないの?

と突っ込む人にとっては厳密ではなくなっていませんか?

ここで、これらの言葉意味は、国語辞典に載っている意味と同じものだよなどといおうものなら、それこそ数学の厳密性を否定したようなものになってしまっていると思います

たとえば「方向」を調べたら「向くこと」とでます。これを調べると「物がある方向を指す」というふうに出ます。これは循環論法に陥ってますし、「物の正面があるものに面する位置にある」という別の語釈もありますが、物とは?正面とは?面するとは?位置とは?となります。これを繰り返せば結局どこかで循環論法に行きつくでしょう。

そもそも数学の根幹部分を支える論理学重要概念である否定(そうでないこと)」にしても、厳密に定義することは可能なのかと思います

「~でない」というのは、そうであることがないということ、と言ってみたところで循環論法

そうであるのになぜ上記のような定義公理が厳密なもの認識されているかといえば、「さすがにここまで平易な単語の組み合わせで書けば、これらの単語については私が常識として理解してる意味と同じ常識を、相手も持ってるはずだから同じ理解をするよね?」みたいな態度に立っているんだと思います

結局相手も同じ常識を持っているという不確かな信念によりかかっている、甘えている点で、数学記述もまた完全に厳密で一意というわけではないのかなという気がしてくるのです。

そもそも「方向」なんていうような概念は、言語によって定義されたものを知っているというよりは、幼少期に言語習得していく過程で、それが話されるシチュエーション、つまり五感などあらゆる感覚総体とセットでそうした言葉が使われているという環境に身を置いているなかで理解しているにすぎません。理解内容が各個人で全く同じである保証はどこにもないと思います

どんなに高度な数学表現も究極的には自然言語還元されるはずで(どんな高級言語機械語に置き換えられて処理されるように)、自然言語の各単語に対する人々の理解原理的には五感に根差し感覚的なものなのだから数学記述が厳密で一意というのは、結局はほかの記述の仕方に比べた程度問題(つまりは誇張表現)なのかなと思うのです。

感覚によらない「証明」をすることに価値を見出す人が数学をありがたがることがありますが、数学もまた根源的には感覚ありきの理解に基づいていると思うわけです。

この考えは間違っているでしょうか?そうであればどうして間違いなのか、どこがどう理解を誤っているのか知りたいので教えてください。

ちなみにたとえば「否定」というのは、根本的には、やはり言語理解が完結しているものではなく、現実の状況としての存在非存在にそれぞれ直面して、それぞれに対して「○○がある」「○○がない(なくなってる)」と言われてる場面を経験したうえで、その状況から理解した内容のさらなるアナロジーとして理解してるに過ぎないと思います(理解のあり方が、言語的ではなく、観念直観的)。

数学が他よりも他者と厳密に同一な合意が常に成り立つ、その工夫として、抽象度を高くしているのがその工夫にあたるのではないかという人がいました。↓

https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q14293524459

しか抽象度を高くすることは、合意内容のずれを減らすという点で「有効でもあり逆効果でもある」のではないかと思いました。つまり諸刃の剣なわけです。

有効である理由リンク先に書かれているのでそこに説明を譲るとして、逆効果であると思う私の説明を書きます

まり抽象度が高い概念は、抽象度が低い概念や直接的な事物に比べて理解が難しい傾向があるのがまずあるわけです。

また定義者の提起する定義をそれを発信される側が期待通りに理解しているか確認するのも、抽象度が高い概念ほど困難な傾向はあると思います

これ自体ある意味抽象のものなのでたとえが悪いですが、たとえば「左を向いて」という発言に対して、「左」を向く反応をすることで、この人は左について正しく理解してそうだなという確認(いや原理的には推定というべき)することができます

抽象度が高くなるほど具象と結びつけたこのような正しく理解してるかの評価確認テストをすることが難しくなるでしょう。

といってもそもそもわれわれは相手自分の言ったことを期待することと厳密に一致した内容で理解してるか確認することは原理的に不可能です。

頭をパカっと割って理解内容を覗きみるということはできないですから

対象となる言葉に関連したその人の発言や反応をみて、理解の結果としての発言や反応として、その人がある部分で正しく(定義者の期待通りに)理解してるだろうということを推定するしかありません。

しかも全体ではなく一部だけの理解が正しくても、発言や反応には異常が見られないということもあるでしょう。

反応や発言いくら調べても、概念全体を期待通りに理解してるかのテストには無限通りのパターン必要と思われ、原理不可能と思います

哲学的ゾンビにも通じそうな話ですが、日常範囲内で「理解齟齬があるような反応が返ってこないなら」そんな「理解が完全同一でないかもしれない」という可能性上の話を心配する必要はないというのはその通りでしょう。

ただ場合によってはそれが表出したように見える一例が、あれの原因がこれだとは言いませんが、望月新一がABC予想を証明したという論文での紛糾みたいなことが起こる一因にはなりえると思います

あれだけ理論として抽象的な概念を積み重ねた先には、定義者とそれ以外のその定義を見た人とでの理解のずれは、反応や発言として顕在化してくるほどになっても不思議ではありません。(定義者の解釈が正しいという優劣の問題ではなく)

特定公理範囲内において論理的矛盾のないシステム

はいますが、そもそも矛盾」とは何か?「論理」とは?「範囲」とは?とは、といくらでも曖昧でしょう。

たとえ矛盾記号論理の表現記述して定義した気になったところで、じゃあその記号定義ないし意味は?とどこまで突っ込まれても感覚に頼らない定義可能なんですかね?と思います

dorawiiより

追記

数学に限らない話じゃんっていうのはまあその通り。

でも定義について「厳密で一意」であることを(得意げに?)標榜してるのは数学(+論理学)とそれベース客観的であろうとする学問ぐらいだから別にエントリ詐欺じゃないよね?

a=b、aはbだ。「は」って何?「だ」って何?「英語的にはどっちもisという語に集約されてるけど、じゃあisってなんだよ」ってところから概念の共有をしてない前提に立った時、その概念を非感覚的で厳密に共有することは可能なのか、それが「完全に」できたと確かめるのにはどうすりゃいいって話よ。

言葉という形式が従で、それに乗るべき内容が主であることは百も承知だが、形式言い換えれば入れ

物抜きに内容を厳密に伝えられるのか、入れ物の存在無関係な、内容の厳密な伝達というテレパシーじみたものを考えることはそれこそ論理的に正しいのかという話でもある。

言語的なテレパシー論理的に矛盾してるので存在しえないのではないかとは思っている。

さら追記


イデア論かな哲学書読めばってブコメついたけど、順序が逆なんだよね。

イデア論とか学校で習って本読んだりして教養として知ってるからこそ、改めてその考え方を自分なりの具体的な考察対象にあてはめて思索したくなるわけよね。

先達の哲学者たちがいなかったら俺はいまだにブルアカで抜くだけの毎日だわ。むしろ哲学者リスペクト100パーセントなんだよね。

語彙力ないので語弊ありそうなのは百も承知だが、哲学って考え方の基幹部分のオリジナリティーはそんな求められてないんだよ。

しろ先人から受け継いだ考え方をどう今の時代の具体的な問題適用して考察を広げるかが大事なので、ちょっと哲学かじったような素人目には過去論文の焼き増しに見えてその存在意義が理解できないような論文ごまんとあるんだよね。

哲学において焼き増しは無意味パクリじゃないのよ。

あいブコメつける人って「方向性とかみたいな意味ベクトルという言葉を使ってる人は横文字使いたがりの格好つけ」と言ってる人みたいな人を性悪説的にとらえるクレーマー気質が高い人間に感じる。

ちなみに俺はベクトルという言葉を使う人は「周りがベクトルという言葉を使ってるからリアルタイム性を要求される会話でとっさに出てくる言葉ベクトルから、それをそのまま使ってる」ってだけだと思う。

anond:20240216115105

マジでTwitterしか知らん、まあTwitterで割と画像とか考察が流れて来るからなぁ、分かりやすいのかも

[]の漫画としての甘さの正体

ケモノが出る漫画がバズっていると聞き、期待して読んだが肩を落とすことになった。

しかし、『なぜ心にひっかからないのだろう』『この駄作感はどこにあるのか』という疑問が浮かんだ。

anond:20240215225121は『ヒトナー』の世界観の甘さの理由を「読み切りに大してコストをかけられないから」という結論に至った。しかし、当方は原因としてこれがピッタリハマらないように思った。

考えてみたところ、原因は以下である結論付けた。

『ヒトナー』は、非ケモナーの作者が"ケモナー"を題材に書いたために、あのように雑な世界観となった

さらに、作者はケモノケモナーに対する知識取材不足であることが雑さに拍車をかけた。

それが漫画としての甘さの全ての原因である


なぜ作者は非ケモナーと断言するか


正直、『ヒトナー』の漫画としての出来はかなり悪い。その理由

『ヒトナー』は作品モチーフの中にフェティシズム"ケモナー"を含んでいることが明白である(そうでなければどうしてヒトナーというタイトルにするだろう?)

だが、そもそもの"ケモナー"への知識不足、またフェティシズムへの知識不足が作品の足を引っ張っている。

"ケモナー"をモチーフに含む作品は、例えば『ケモナー勇者を落としたい!』が挙げられるが、正直そちらのほうが断然ケモノケモナー解像度が(誇張があったにせよ)高かった。その作者は人外/モンスター志向のようであったが、だからこそフェティシズムへの理解は十分に見えた。

トネリコかわいいが、猫としてのかわいさがあるだけで、作者のケモ個性は感じられない。他のキャラクターも同様である

ビジュアル既存のケモ志向作品(例:『羊竜飼いのケモノ事情』、『バツイチ狐と旅ごはん』など)と比較して、あまりに魅力が欠けているため、ケモナーは取り込めないだろう。

また、人間の男の方も"友好的な知的生命体"という描写にとどまりケモナーという感じは1ミリも見られない。冒険心はあるようだが、明らかにフェティシズムはない。異星人/SF世界観/ケモナーを扱うなら、『プラネットハウル』のような作品を見習ってほしいもである

ストーリーにも褒められた点は無く、物語お約束をなぞるだけの子供騙しである(ジャンプならそれで良いのかもしれないが……)

ケモナーから着想したかどうかわからないが、『ヒトナー』は描くつもりもない"ヒトナー"というフェティシズム要素を入れたことがすべての足を引っ張っている。

また"ヒトナー"の裏として"ケモナー"も含んでいるが、作者がケモナー理解していないため作品違和感が生じ、雑なケモノ描写によってさらに完成度を落とした。フェティシズムが感じられないのも作者がケモナーではないかである

もし作者が猫ケモナーなら、"猫"というステレオタイプに頼らず、『シャミー1000』のようにフェティシズムを感じられるケモノ読み切りスッキリ描くこともできただろう。

そうでないなら、"ケモナー"や"ヒトナー"の要素を入れずとも、『ヘテロゲニアリンギティスコ』のように自然獣人(とその文化)を出すことは十分可能なのだが……

まあ正直、"ヒトナー"という要素から離れれば"普通だね"と思われバズらなかっただろうから、難しいものである

とにかく、「『ヒトナー』は、非ケモナーが、"ネット上で戯画化されたケモナー"をモチーフに作ったバズり狙いの三流漫画」に過ぎないというのが当方評価である。正直、タイトルで期待させられただけにがっかりさせられた。

2024-02-14

anond:20240203220300

いろんな漫画子供達に読ませたけど結局一番刺さったのは「ハンターハンター」だったな〜

昨日もいかにネテロvsメルエム戦がバトル漫画として傑出してるかを熱く語っていた

28〜29巻あたりは兄弟で1000回は読まれボロボロだよ

あと「まんが道」「ブラックジャック」もめっちゃ何回も読んでる

最近漫画だと「メイドインアビス」がめっちゃ家庭内流行ってる

これは子供達以上に妻に深く刺さってしまった

母体と親子関係に関する考察が深すぎて、子供を産んだことのある女性にはたまらない内容らしい

2024-02-13

救世少女メシアガール

https://anond.hatelabo.jp/20240208173503 の続き

 

メシアガールブルーアーカイブになり損ねたソシャゲである

いやまあ資本力とか運営の人手とかいろんなものが全く雲泥の差なので引き合いに出す方がおかしいのだが、前回から文脈で言うとそうなのだ

まず開始時期が比較的近い。メシアガール2021年9月サービス開始、ブルアカ2021年2月開始。半年ほどの差だがブルアカにしても初年はウマ娘の陰に隠れて殆ど話題に上らなかったので、半年ほどのズレなら近いと言っていいだろう。

そしていわゆる「エロゲっぽい」こと。DMMというかFANZAなので「エロゲっぽい」じゃなくストレートエロゲじゃんって言われるとそうなんだけど、いや待ってくれ。メシアガールの当初の売りは「あのJ・さいろー先生がメインシナリオ担当してる」ことだった。さいろー先生ラノベ絶対女王にゃー様一般層にも認知度あると思うがエロゲシナリオライター方面で語られる人でもある。つまり扱い的には「あの麻枝准が手掛けてる」で宣伝してるヘブンバーンズレッドとかと同じ枠だったし、さいろー先生シナリオ方向性でいえば全然ブルアカジャンル被りというか世間で「ブルアカというとエロゲ」という漠然としたよくわからない雰囲気説明でフワッと思い浮かべる思春期少女のあれやこれやなエロゲシナリオの正当な血統を受け継ぐものといえばさいろー先生だ(異論は…いや認めない)

そして、ゲームの基本デザインが大体ドルフロをパクってること。プリコネフォロワーという解説してるyoutuberがいたがプリコネとの類似は「女の子たちが美味しいごはんをいただく」みたいなコンセプト部分で参照してると見るべきで、ゲーム部分はドルフロの簡易版みたいな作りになっている。ランスっぽいという見方もあると思うがランスはオート戦闘前提ではないし、直接の系譜としてはドルフロと見るべきだろう。

ドルフロのフォロワーで、なおかつジャパニーズエロゲ継承者。ほらみろブルアカじゃないか

 

(まあ、あっという間に肝心のJ・さいろー先生降板してしまうのだが)

 

さてブルアカメシアガール比較したとき自分の印象としてはメシアガールドルフロの系譜だが、ブルアカのようなモヤモヤ特に感じなかった。理由簡単で「ゲーム部分のやろうとしてることが、そのままドルフロ」だったからだ。技術力も資本力も足りなくてドルフロみたいな古いゲーム再現すらできてないが、ドルフロを真似しようとしてることはわかる。ゲームルック方向性がだいたい一致してるのだ。

で、メシアガールという実例を想起し対比すると、ブルアカ独自要素であるSDキャラベースゲーム部分の浮きっぷりが気になってくる。というか、順序的にはたぶんキムヨンハPのとこの得意分野はSDキャラをかわいく動かす方面なんじゃないかなと想像される。で、そのSDキャラを使って何かゲーム作りたいとなったときドルフロを参照することになったという順序じゃないか。その順序だとすると、なんか絶妙にかみ合ってないドルフロを参照するという部分には yostar サイドの思惑が関わってるんじゃないだろうか。

 

そんなふうに妄想を連ねてくと、なんか色々と思い出されてくるものがある。

たぶん、まだこの駄文を読んでる人はそのうちこの話題を出すと思ってただろうが、ドルフロと yostar の間はそこそこ因縁がある。日本上陸からイザコザがあったらしいが、yostar 側が日本で「少女前線」の商標を押さえてしまったために日本少女前線名前を使えず、「ドールズフロントライン」の名称で出さざるをえなくなった。はてブでもちょっと話題になったので覚えてる人もいると思う。が、話はそれだけで終わらず、ドルフロのメインキャラ絵師(それ以外もシナリオやらいろいろ手掛けてたらしいが)が何らかの事情で抜けて、アークナイツを開始することに。型月でいったらFate海外商標を取られて妨害され、その妨害した会社武内崇が引き抜かれたような感じだろうか(まあ、ドルフロ側の社長がかなり個性的というか癖が強いのがゲームゲーム周辺見ても丸わかりで、内部事情の本当のところは判らないとはいえドルフロ側が可哀そうとはなかなか言えないのだろうなと思う…)

 

そんなドルフロとの因縁ある yostar が「実銃と美少女の組み合わせ」というお題で出してきたのがブルアカである

 

そういう目線youtubeに残る初期のブルアカPV見ると、うわあ執拗だなあって気分になる。残ってる最古のPVでは、「ミリタリー」と大きく表示されるとこからキャッチコピーを出し、続けて「FANTASY」、「青春×物語」とコピーが立て続けに出され、その、後から出てきたコピーテキストに追いやられるようにして「ミリタリー」は見えないぐらい小さく、脇に押し込まれるという作りになっている。

いや、そのPVの時点でミリタリー要素ほぼ残ってないじゃん。なんで一番最初ミリタリーってテキストを持ってきたの。銃と美少女から? ガンスリミリなんて言う人おらんやろ。銃と美少女の組み合わせなんて珍しくもない昨今、銃持たせたぐらいでミリとか言い出すのは元からミリな奴ぐらいである。ブルアカファン層でもキャラネタ考察をするやつはいても銃を気にするやつはいない。ブルアカで「銃と美少女系譜」を語り出すやつがいたら、そいつは確実にブルアカをやってない。

何より、今のキャッチコピーは「学園×青春×物語」で、ミリタリーなんて書いてない。おそらく、企画開発当初はミリタリーだったのが後から方向性を変えていった、その結果として「ミリタリー」が消えた。開発途中で方向性修正するのはよくあることだ。

にもかかわらず、消えた後に、「ミリタリーを消す」というコンセプトを強く打ち出すのを何よりも一番最初アピールせずにいられなかった。

あの最古のPVを見ると、そう思われて仕方ないのだ。その後に出されたアニメPVでファンシーに彩色された銃弾インパクトを受けた先生たちも一定数いると思うが、自分みたいなのが見ると、あのパステルな色調の銃や弾丸にも「ミリタリー過去のものに塗りつぶしてやる」みたいな想いが塗りこめられてるように見えて、あのカットに込められたファンシーさと呪いの落差が実に味わい深いと思えてしまう。

 

まだ続きます

anond:20240213174038

こういう書いてないことを読み取る考察厨って害悪だわ。作者が明言してから騒げ

anond:20240213160131

オタクという言葉は、多様な趣味や興味を持つ人々を指す広い範囲カテゴリーです。アニメゲームWeb漫画コンシューマータイトル、そしてVチューバーなど、これらの要素はすべてオタク文化の一部です。それでは、いくつかの視点から考えてみましょう。

1. 多様性と幅広い趣味

- オタクは、アニメゲームだけでなく、音楽科学経済、車、お酒など、さまざまな分野に興味を持つ人々を含みます

- Vチューバーもその一部であり、彼らは専門知識を持つことがあります。例えば、作曲科学解説経済学、車のカスタマイズお酒レビューなどです。

2. Vチューバーの専門知識

- Vチューバーは、特定トピック趣味に特化した専門知識を持つことがあります。例えば、作曲家のミディさん、科学解説の才援テス子さん、経済学のバーチャルエコノミスト千莉さん、車の花香琴音さん、お酒の今酒ハクノさんなどです。

- 彼らは自分の興味を追求し、それを視聴者と共有しています

3. オタク定義

- オタクは、熱狂的な趣味を持つ人々を指します。その趣味は多岐にわたりVチューバーもその一部です。

- したがって、Vチューバーにかまけている人々も、彼らの専門知識や興味を追求しているオタクと言えるでしょう。

総括すると、Vチューバーオタク文化の一部であり、彼らの専門知識や興味を持つことは、オタクであることの一形態と言えます

要約 : Vチューバーは、多様な趣味や専門知識を持つオタク文化の一部です。

ソース:

(1) 専門知識が溢れ出す超マニアックVTuber5選【新人VTuber .... https://kai-you.net/article/75550

(2) 独創的な面白い企画を行うVTuber5選【新人VTuberオタク歴2年 .... https://kai-you.net/article/76941

(3) Vチューバー人手不足解消に貢献!? 自宅で販売員の「中の人 .... https://www.nikkei.com/article/DGXKZO39941860R10C19A1H56A00/

(4) 「投げ銭をムダとは思わない」「アイドルYouTuberとは違って .... https://bunshun.jp/articles/-/57914

(5) VTuberガチ恋するオタクについての考察 - noteノート). https://note.com/7f4/n/n53bed03e6f09

蒼炎の軌跡および暁の女神ストーリーに詳しい増田いる?

なんでセネリオはデインからガリアに運ばれたのか、育ててた女は何者なのかって通説としてどう考察されてんの?

2024-02-12

4の10%がなぜ絶賛するのか理由付けできてない時点で微妙考察というか、むしろ重要なのは2に属する人たちへの訴求だと思うけどな

なぜニセモノと感じるのかがわからない限り無理じゃん

そもそも絶賛してるのは3に属する人たちが受け入れやすくなるかもってだけで自分たちで実際に使うことに対しての絶賛じゃない気がする

anond:20240212203522

かに映画象徴的な演出意図は、観客によって異なる程度で理解されるものです。一部の人々にとっては、そのような演出意味は明らかであり、観察や解釈比較的容易です。しかし、他の人々にとっては、それらの要素は気付きにくい場合もあります

映画の楽しみ方は個人によって異なります。一部の観客は、細かい演出象徴的な要素を見つけ出し、それらを楽しむことができます。一方で、他の観客は物語アクションキャラクターの魅力に集中し、そのような細かい演出にはあまり関心を持たない場合もあります

また、一部の人々は映画に対して自分なりの解釈考察を楽しむこともありますが、それがどれだけ正確であるかは別の問題です。確かにジブリ作品などに対する露悪的な考察こじつけめいた解釈も見られますが、それらが必ずしも作品真意意図を反映しているわけではありません。

スターウォーズルークの服の変化が暗黒面に近づく精神示唆してるだとか、ダイハードラストロレックスを外して事件の決着をつけると同時にマクレーン夫妻を隔てていたものを捨て去るだとか、そういう映画における象徴的な表現がある。

あるんだけど、そんなもん象徴されるまでもなく観てりゃ分かるやんって思う。

象徴的な演出です。以上。だからといってどうこうというもんではありません。何となくおぉ〜ってなればいいなって思います。みたいな事だったとして、それはそれでまあ映画面白さの一つな気もする。

でも言うほどおぉ〜ってなるか?とも思う。

ダイハードの方は結構洒落てるなって気もするけど、服の色の変化とか言われんと気付くかいなって感じだし、言われてみて気付いた所で……って感じがする。

そういうのを楽しむのって、目を凝らし意識を巡らせて演出意図発見するウォーリーをさがせ的な面白さって感じがする。それもまあ楽しいと言えば楽しいんだろうけどなんか、なんかな……って思う。

その漠然としたイヤさの方向性で極地にあるのが、ネットに転がってるようなジブリ作品に対する露悪的(?)でこじつけめいた「考察」のような気がする。

25になってオタクと微オタの温度差がワニの口になってきた

これは愚痴結婚式をあげる際に同じ友達グループから呼んだり呼ばなかったりしてもいいものなのか、迷ったうえでの話。

つい最近中学時代の友人6名で田舎に集まって2月恒例のプチ同窓会を開いた。この6人は中学当時からお絵かき2次元コンテンツが好きなオタクちゃんの集まりだった。

ただ、オタ気質とはいえさすがに25にもなると人生の大きなイベント予兆が出てきて、結婚に向けて同棲をしている子、スピード昇進で3年目にして会社主任を任されている子、上京して転職成功した子など、それぞれの道を互いに応援し合う関係性になっていた。

ただ、昔と変わらず漫画アニメを見て関係萌え語りや考察ツイートする日々を送る子もいた。

今までは、だからそれが何?本人が楽しいならよくて、他人がとやかく気にすること自体失礼、と思っていたが、今回の再会で痛感したのは、もうそろそろとにかく話が合わないという現実だった。

仕事クレーマーもガミガミ上司エピソードも全部お焚き上げしよ!w 燃やすぞー!など言って集まったものの、蓋を開けたらその子の好きなVTuber漫画、見たい動画、ハマってるボカロ曲etc…のオンパレードで、結局他の子仕事を頑張った話も、友達がそろそろ結婚する人がどんなお相手なのかも聞けずじまいになってしまった。

の子は確かに中学時代から自分がしたい話をするタイプで、一人だけその「ジャンル」がわからない子がいたらやんわり帰ってほしそうにしたり、興味がなかったら人が話していても寝たり他のことをしたりする方ではあったから、そういう人なのもよく分かったうえでこれまで付き合っていた。今回も一人がとあるアイドルが好きなのを知っているはずなのに、そのアイドルの良さがわからない好きじゃないと堂々と言っていたし。(念の為申しぞえておくと、良いところがたくさんあるし、悪いやつじゃない。)

ただ、オタクらしいオタクと、好きなゲームアニメはあるが他のことが人生第一に来るタイプ(微オタ)は、学生時代はみんな結局似たような生活をしていたか話題の差がそこまで出なかっただけで、中学卒業から10年経つと流石に持たないものだなと気付かされてしまった寂しさがある。まあむしろ、あの頃は一緒にアニメ推しカプの話で盛り上がってたはずが、ありがちな仕事結婚で変わってしまったのはこちら側ではあるので、話が合わないと思うのも向こうからしたら筋違いかもしれないけど。

でも、この配信者の関係性が〜と言われて知りもしない素人素人料理下手動画見せられたり、テンション高いアニメ声のめちゃくちゃアップテンポな曲聞かされたり、ちょっともう…キツかった、これが例えばミュージカル俳優とかならプロ研鑽の賜物だから見る値打ちあるのかもって思えたけど………………

オタク趣味とその子自分の話しがちなのを混同してるのは自覚してる。でも、それはそれ、これはこれで分けがたい何かがあるようにも感じる。

共通の友だちが多いからこの話をするにできないけど、ここまで相性が微妙で、ちょっと言動的にん?と思うところがある子、結婚式呼ばなくてもいいかなぁ…。まとまって付き合いある友達からの子も呼ばないと後々に響くかな。みんなドレス着物で綺麗ななか、推しカプの考察とかされそうで怖いんだけど。

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