はてなキーワード: 総合病院とは
どうでもいい肩の痛み程度ならその辺の開業医行けばいいのにね
つーか今は紹介状なし予約もなしじゃ診てくれない所も多いよなあ
総合病院つっても小さめの所だったのかな?でも予約が先だからそりゃ待たされるよな
どうでもいい肩の痛み程度ならその辺の開業医行けばいいのにね
紹介状なし受診だと思うんだけど、選定療養費かからなかったの?
自分は難病なので大学病院の通院歴かなり長いけど、ここに書かれてることが苦手なら、元増田は総合病院とかの大きい病院に向いてない患者だと思うよ。
受付。
「肩が痛いんです」
「こちらにご記入ください」
クリップボードに留められたA4の紙を渡される。
などなど書き込む。
右肩が痛いからこれを書くの結構めんどくさいし、名前と保険証の番号で代用できないのかな?
……まあ仕方ない。受付に書類を渡して、しばらく待つ。
「ではこれを2階の整形外科の受付へお持ちください」
2階受付。
「こちらにご記入ください」
クリップボードに留められたA4の紙を渡される。
とは言え書式がすこしちがう。
ここは整形外科の受付だからあらためて情報が必要なのかもしれない。
また書きます。氏名、かな、その他もろもろ。めんどくさい。
今回は症状を記入する欄がある。
どの部位、どんな症状、いつごろから……右肩、痛い、3日くらい前(月曜)から……。
記入した紙を受付に渡して、待つ。
その後、2時間くらい待った。
待たされるのは仕方ないと思うんですよ。患者がいっぱいいるからね。
いつ自分の名前が呼ばれるのか気にしながら待たなくちゃいけないと、本も読めない。
立派な総合病院なのに、自分の前に何人待ってるのかすら分からないって、どういうことなん?
「サトウさーん、サトウダイスケさーん」
看護師さんに呼ばれる。
ちなみに俺はサトウさんではない。
難読な姓ではなくてちゃんと読めば小中学生でも読めるはずなのだが、年に3回くらいはサトウさんに間違われる。
名前を間違われるのは慣れているので気にはしないし、訂正もしない。
ただ、注意力が足りない人だなあとは思う。
間違われるのは役所と病院が多い。両方とも氏名によみがなを書かされる場所なのに。
診察室に入る。
60代くらいの医者。
「今日はどうされましたー?」
「肩が痛いんです」
「どっちの肩ー?」
どっちの肩……? 少し混乱しながら答える。
「右肩です」
「いつごろから痛いのー?」
いやいやそれは問題じゃなくて、いやそれもそれで問題なんだけど、この質問おかしくない?
2時間前に書いた紙はなんだったんだよ。
俺は人に書類を書かせてそれを読まない奴は信用しない。
この後は、長時間待って疲れたせいもあり、もうどうでもよくなって適当に受け答えをしていた。
痛み止めの飲み薬と湿布を処方してもらうことになった。
さんざんな思いをしてすっかり疲れてしまった。おかげで肩の痛みが弱まった気さえする。
「ではこちらにご記入ください」
渡されるA4のクリップボード。
生まれ育ちは都内で社会人になって数年を経て地方に転勤となった。
ここでの生活は本当に怖い。
総合病院、小児科併設の内科クリニック、眼科クリニック、耳鼻科クリニック。
これしかない。
県庁所在地まで行けば大学病院もあり、ここよりはクリニックも多いがそれでも地元に比べれば少ない。
選択肢がないのだ。
俺は既に都内にて人生初の胃カメラと大腸カメラと胆、膵、肝、腎のエコーをしており異常はなかったため消化器についてしばらくは問題ないが、大学病院やがん連携拠点病院にて10年以上研鑽した医師が検査を行う消化器内視鏡クリニックなんてここには存在しない。
総合病院の消化器内科も医師が少なく経歴も載っておらずこちらから選ぶことはできないようだ。きっと内視鏡にAIも搭載していない。
耳鼻科はファイバースコープの設備を持っていない。総合病院への紹介が必要らしい。これでは20代、30代の若者がなる咽頭がんを早期に発見することができない。都内にいた時は定期的にかかりつけの耳鼻科にて鼻炎や喉の痛みを訴えてファイバースコープをしてもらっていたがここでは気軽にできない。
内科クリニックはおじいちゃん先生と小児科担当のおばあちゃん先生のみ。人柄は良いようで評判も良い。
しかし、熱を出して通院した際に血液検査をせず喉を視診してリンパを軽く触診しただけで「喉かぜだね〜」と診断した。地元の病院では不安症な俺を気遣い、熱がある時にはいつも血液検査をしてヘモグロビンや白血球、CRPの数値を見てくれた。ここではそのように親切な病院はない。
そう。
「気になる症状があれば病院に」とは言うが、ここにいる医師たちは「何かおかしい」という症状がなければしっかり診ない。
若ければ尚更である。
「何かおかしい」という症状が出た際には既にリンパ節転移や肝転移を起こしているため確実に死ぬ。
しばらく移動はないため数年はここで暮らす必要がある。
俺は一人っ子で他に兄弟はいないため、絶対に親より先に癌で死ぬことは許されていない。
以上のことから、待遇も良く人間関係にも恵まれているが、仕事を辞めて都内に戻ろうかと考えている。
ここはアフリカと一緒。
数年以内に亡くなる例が多い
なんでも年間60件程度しか発見されていないのに一人で何件も見ているなんておかしい、嘘に決まっている、誇張するバカの言葉は信用ならないetcという点らしい。
自分はこれを読んで「ポストした人が何件も目撃している」とは思わなかったので何故そんなに疑われているのかが分からない。
日本で実際にある被害だとしても身近で起きるとは思っていなくて、実際に目撃して「本当にあるんだ=わりとある話なんだ」と感じた話だと思っていたから。
総合病院の数で件数を割って0.02%ぐらい(うろ覚え)しか遭遇しないから何件も1つの病院になんて!というものもあったが、強姦に限らず事件の起きやすい地域というのは存在するし年に2件が同じ病院に運び込まれることが絶対にないと言い切れるんだろうか。
そもそも1件でも相手が成人でも男性でも許されることではないのに、12歳未満相手は60件しか起きてないから!と言う主張の方がグロテスクに感じた。
俺は医局内でうだつの上がらない眼科医の父親と、同じくうだつの上がらない乳腺外科医の母親の一人息子として生まれた。
うだつの上がらない両親は医局内で粗雑に扱われており、かと言って開業する気概も資金もなく地方や郊外の関連病院を行ったり来たりしていた。
スポーツも不出来で両親と同じく気弱な俺が平穏な学生生活を送ることができたのは、幼稚園から高校までエスカレーターの私立男子校に進学したからだろう。
母校は俺が入学した時には既に開成や筑駒などに大きな差をつけられていたが、同級生には芸能人や経営者の子息がたくさんおり、彼らとの格差を感じずにはいられなかった。
高校を卒業した俺は1年間の浪人を経て都内の私立大学医学部に進学した。
部屋の先輩はスポーツ推薦で入学した他学部の学生であり、俺とは全てが真逆だった。
合コンに明け暮れ、大量の酒を飲み、それにも関わらず部活で結果を示していた。
先輩は善意から俺を合コンや遊びに連れて行ったが、お互いに気が合わないとわかってからはコミュニケーションも殆どなくなり、寮から出られる二年目以降は祖母の家に帰った。
大学を卒業した俺は東京を離れ地方の総合病院にて初期研修に入り、そのまま内科の道に進んだ。
当初は呼吸器の道に進もうと考えていたが、実習中に見た気管支内視鏡のおぞましさと患者の辛そうな様子を見てやめた。ちなみに内科のローテート中でもこの気管支内視鏡を目にするのが一番嫌だった。
妻は俺が女性経験がないことを知ると「その歳で…?信じられない…」とドン引きしていた。
結婚式の際、地方で代々事業を営み財力もあり顔の広い義父の招待客でホテルが埋め尽くされる中、隅っこで父と母が小さく座っていた。
結婚後、妻との営みは片手でちょうど数えられる回数しかなく、妻は俺の性的能力の低さを侮辱し俺は男性機能を喪失した。
そのため俺と妻の間には子供がいない。
完全な家庭内別居が始まり、消化器内科医として一人前になった頃にちょうど病床の母が亡くなった。
見舞いも拒む妻は当然葬儀の日にも予定を入れており、俺は一人で東京に向かった。
続く
未分化胃癌(所謂スキルス胃がん)のことを言っているのでござますな?
確かに、スキルス胃がんは「バリウムの方が見つけやすい」と言われることもありますな
しかし、あくまで「見つけやすい」だけであり、確定診断にはやはり内視鏡的検査が必要なのでございますな
また所謂スキルス胃がんもそのほとんどがピロリ菌や胃炎により萎縮した胃粘膜の一部から発生しているという事実にも注意が必要でございますな
非常に若いピロリ菌陰性の方がスキルス胃がんに襲われる闘病記事や番組は散見されますが、実際には通常医師人生で一度も巡り合うことがないと言っても過言ではないほど少ないケースなのですな
内視鏡を専門にしている人間(消化器内視鏡専門医を持っていても出身が救急であったり小中規模の総合病院を転々とし専門的なトレーニングを長期間受けていない例もあるので注意)ならば胃カメラ中は些細なびらんでもよーくよーく観察し必要ならば生検を行ったり半年後や一年後の胃カメラを強く推奨して経過観察するのでございますな
あまり大きな声では言えませんが、被爆リスクなどさまざまなファクターを考慮した結果として、萎縮していない胃粘膜から突然発生し急速に進行する超絶稀な胃がんを心配してバリウムを受けることはお勧めできないのですな
補足
画質の点から上部内視鏡は鎮静剤を使用してでも経鼻ではなく経口で行うのがおすすめですな
逆に大腸カメラは引き抜くカメラと反対の腸壁をよく観察したりするためにも、力を入れたり息を合わせる必要があるので鎮静剤を使わないことをすすめますな
実家が太い云々という増田を目にして、俺もつい自分の人生について書きたくなった。
医者というとなんとなく世間的にもお金持ちのイメージがあるだろうが、事実裕福な家庭に生まれたと今でも思う。
そんな俺だが、結局30も手前になって職歴なしどころか学歴すらない立派な引きこもりに成り果ててしまった。
まず前提として俺の家系は代々医者の一族で、父方の祖父が地元(と言っても俺の住んでいる市内)でおそらく一番大きい総合病院の理事長をしていた。
その祖父の思想が強く、医者でなければ人間でないと言わんばかりの態度を常に振り撒いていた。
母方の祖父母は確か医者ではなかったと記憶しているが、いつだったか父方の祖父母の家に連れて行かれた際、「あまりあっちのじいじ・ばあばと話をすると頭が悪くなっちゃうぞ」などと耳打ちされたことを今でも覚えている。
当時は家や身なりも立派で見るからに"偉い"祖父を漠然と尊敬していたためにその言いつけを守り、母方の祖父母とはほとんど口も聞いていなかった。
俺がそんなだからか、或いは母親か誰かがそんな祖父に辟易したのかは知らないが、小学校の高学年くらいから母方の祖父母に会うことは無くなった。
そんな祖父のプレッシャーのせいか、物心がついた頃にはもう塾に通っていた。
習い事も多くさせられ、ピアノ・バイオリン・空手・水泳・テニスを確か幼稚園くらいから習っていた。
これは気質もあるのだろうが、自分の意に反して何かをさせられるのがかなりのストレスのようで、あまりにも習い事に行きたくなくてよく体調を崩していたり、時には仮病を使ったりしていた。
また、センスの問題なのかモチベーションの問題なのか、どの習い事も全く上達せず、発表会や大会のたびに親に恥をかかせてはよく平手打ちをされていた。
ある夜、何かをしたくてリビングに降りた時、両親が俺が何もできない無能である事について真剣に話し合っているのを耳にしてしまい、眠れなくなってしまったこともある。
いつしか出来損ないのレッテルを貼られた俺は、それでもなんとか医者に仕立て上げなければならないという強迫観念を持った両親の元で家にいる間は四六時中机に縛られ、常に勉強をさせられていた。
朝起きたら強制的に机に座らせられ、親の指定する量の勉強をこなすまでは朝食すら取れないような生活だったので、朝起きるのが苦痛で睡眠障害になってしまい、次第に学校にすら行けなくなってしまった。
勉強のストレスで常に吐き気がしており、食欲もなく、睡眠不足も相まって頭も余計に回らず、さらに両親に叱られるといった感じで完全に負の連鎖に入ってしまっていたと思う。
ネットやテレビに触れなかったためか、「自殺」という概念が当時の自分の中になかったために踏み切ることがなかったものの、もしもその概念を知っていたなら、間違いなく自殺を選んでいたと思う。そんな精神状態だった。
そんな両親の下なので中学受験をさせられ、結果としてはそれなりの中高一貫校に入学することはできた。
しかし、高ストレス下で勉強だけをさせられて育った結果、いつしか俺は著しいコミュニケーション障害を抱えていた。
小学生の頃に友達と遊ばせてもらうことができなかったせいか、両親に過度に気を使う癖が付いてしまったせいか、原因は今となってはわからないものの、とにかく友人とフラットにコミュニケーションを取るということが全くできなくなっていた。
と言っても育ちのいい生徒ばかりだったので、ドラマやアニメで見るような苛烈なものではなく、ただ無視されるとか陰口を言われるとか、そんなレベルではあったが。
いずれにせよ学校に居場所をなくした俺は、いつしか不登校になっていった。風邪で休んでそのまま復帰できなくなったとか、そんなんだった気がする。
クラス替えというシステムがない学校だったため、一度不登校になってしまったら人間関係を取り返す術はなく、そのまま5年半ほど不登校を続ける形になった。
留年して再スタートすることも提案されたが、両親の面子を保つためか受け入れられず、(どういうシステムかは今思えば謎だが)とりあえずそのまま進級し、卒業を迎えることになった。
当然医学部を目指させる家庭方針だったため、塾・予備校には通わせられていたし、家でも小学校の時さながら机に縛られる生活だった。
しかしながら、反抗期を迎えたこともあり、また俺の体格が大きくなってきたこともあるのだろうが、小学校の時ほどは勉強を強制されず、俺も次第に家の中でも部屋に引き篭もるようになった。
もちろんある程度独学はしていたものの、受験の結果は案の定ダメで、箸にも棒にもかからないような成績だった。
とは言ってもMARCHくらいなら合格できる成績だったのだが、医学部以外の受験は認められなかったため、全落ちのまま浪人生となった。
それ以降は特に語ることもないが、2浪、3浪とする中で、親の洗脳も次第に解けていった。そうすると、ただ親の意向のためだけに医学部受験をしていることの虚しさを目を向け始めてしまい、勉強にも身が入らなくなっていった。
そうはいっても医学部以外への進学を認めないという親の方針は変わらず、一応俺は10浪中ということにはなっている(と思う)。
が、2年前くらいからセンター試験(共通テスト)の出願すらもしないようになった。そのことに両親が気づいているのかもわからないが。
もちろん住む場所にも日々の食事にも何一つ困ってはいないのだが、俺はきっと社会に出ることはできず、ひたすらに自我と向き合いながら、この広い実家に幽閉され続けるのだと思う。
もう30も目前となった今さらになって、軌道修正を図る気力も無いし、仮に何か行動したとて無意味なんだと思ってもいる。
そしておそらくは両親も、こうなってしまった俺をどうして良いのか、そして俺と、ひいては自分たちの過ちとどう向き合って良いのかがわかっていないんだと思う。
だから今日も変わらず義務のように母親は俺の食事を用意し、父親は何も言わずに俺のボロいスマートフォンの通信量を払い続けいてるんだと思う。
多分お互いに、行動を起こすのが怖いんだろうな。
だから現状維持に甘んじて、昨日と変わらない今日を過ごすことで失敗から目を背けているんだと思う。
こうやって気づけば10年以上が経っていて、きっとそのまま老いて死んでいくんだろうな。
いつだったかネットで『5億年ボタン』のコピペを読んだ時に感じた、途方もない無の中に幽閉される恐怖。
思えば俺はその中に今居るし、ついぞ抜け出すことなどなくそのまま死ぬんだろうと思う。
とりとめもなく書いてしまって終わり方もわからなくなってしまったが、一旦この辺で終わりにする。
読んでくれてありがとう。これを書くことをコミュニケーションとまでは言えないだろうが、誰かに自分の気持ちを表明する経験が無さすぎて、書きあげるとともに凄いカタルシスのようなものを感じている。
ワイの住んでるところ、チャリで10分こげば大体の診療科揃ってるし、区の総合病院もあるし、スーパーも徒歩圏内に3個あって、セブン、ミニストップ、ローソンもあって、バスも鉄道も通ってる。しかし逆に、田舎の隣組のようなシステムがなく、夏になるとカエルがうるさいとか、明かりに虫が大量に集まると言ったこともない。壮大な自然もないが、視界を遮る高いビルもない。横断歩道で待ってると車は大抵停まってくれるし、アマゾンも即日届くと田舎とそれなりの衛星都市のいいところどりができてるように思う。
ただ、県内に仕事がなさすぎてみんな東京に出るので、通勤時間帯の電車が地獄である一点を除いて…本当…それだけ…なんとかなりませんかね。
けっこう感染例って多いの?
https://www.youtube.com/watch?v=QiDNcbZBKw0
俺も5歳の頃かかった。左膝が痛くて病院に行っても異常はないって言われた。けど、発熱してケツから血が出て、意識なくなって、意識戻ったら左膝が固まって動かなくなっていたのを覚えている、
10年ほど前、母の友達が海で足をけがして、切り傷でしたがそこから感染したらしく、初日、足の切断寸前までいって、翌日なくなりました。一瞬の出来事で皆戸惑い悲しんだ記憶があります。
しかし病院に行ってもただの食中毒や胃腸炎だと診断され、その病名が分かったのは妻の死後に解剖してからでした。
本当に病気の進行は早いです。私達家族はまさかこんなにも早く亡くなるなんて、思ってもいませんでしたから。
私の姉もこの人食いバクテリアに感染し、腰からお尻までが1日で壊死し手術をしました。病院では、助からないと思って下さい、と言われたのを思い出しました。命は助かりましたが歩くことはできなくなりました。とても怖い病気です
私も6年前になりました。傷口からの感染です。傷口付近の足の痛みと腫脹がすごかったです。ぶつけた事も無いのに腫脹、発熱、倦怠感が表れたらすぐに病院に行って下さい。数時間遅れてたら命も危ないと言われました。同じ思いをして欲しくないので…
最初にかかった総合病院の先生が感染症のナショナルセンターである国立国際医療研究センター病院への転院手続をすぐにとって下さり、死ぬこともなく足を切断することもなく、今では支障なく日常生活を送ることができています。
他の動画にもコメントしてありますが、身内がこれで亡くなっています。
感染した時期が冬でしたので、まず風邪かインフルエンザを疑い検査もしましたが陰性。
しかし病院を回るうちに症状がみるみる悪化していき、この病名だと判明したのは亡くなる1日前で最終的には呼吸困難意識不明となり3日後に亡くなりました。
ちなみにこの動画にあるような足の症状は全くありませんでした。
循環器系の疾患を患わっていたのと、感染する前に背中を打撲していたので、それがもしかしたら原因かなとは思います。
一緒に過ごしていた家族は全く症状が出なかったので、免疫力も関係しているのかなと思いますが何故特定の人にだけ劇症化していまうのかがハッキリ解明されていないという所が怖い所です。
16年と半年前、57歳になったばかりの2007年の9月に初めての投稿をしました。その2ヶ月くらい前から閲覧はしていた気がしますが閲覧履歴のようなものはないためわかりません。
ちょうどその頃、勤務していた会社で役員に昇格したばかりでした。法学部を卒業し新卒で入社して以来、ひたすら営業畑にいた私が役員になってから与えられたのは情報システム部を含むIT分野でした。
その10年前ごろから会社にパソコンが導入され始め、総務部門にいた同期が悪戦苦闘しており「大変そうだな〜」なんて気楽に思っておりましたが、まさか自分がそれらを統括する立場に置かれるとは思いませんでした。
IBMが主催する勉強会に参加したり、書籍を購入したり、パソコン教室にも通い、DELLのデスクトップPCを購入して大学生だった息子に助けられながら設定をしていました。
インターネットを徘徊する中で見つけたのがはてな匿名ダイアリーです。
結局半年足らずで外部の専門家を雇うことになり、お払い箱になった私は金融商品を取り扱う子会社の代表取締役を務め、そこもお払い箱になると取引先の名ばかり役員となって月に数回だけ会議の名目で仕出し弁当を食べに行き、65歳となる2014年に完全に隠居生活に入りました。
私が本格的にここを利用するようになったのはそれからです。
毎日のスケジュールは犬の散歩、朝食、昼食、刑事ドラマ、夕食のみです。買い物、旅行、ゴルフ、孫、会食などが不定期で入りますが、基本的に暇なのでここで皆様の投稿を拝見したり、社会問題、映画、音楽、歴史などについての投稿を行い皆様からのコメントを楽しんでおりました。
この時期に妻と隠岐旅行に行きましたが、それもここで隠岐の魅力を語る投稿を見たことがきっかけでした。探してみましたが、残念ながら見つかりませんでした。
後にTwitterやブログなども始めましたが、Twitterは見るだけになり、ブログの更新はされなくなり、継続的に利用を続けてきたのは結局匿名ダイアリーのみでした。
私が定年後もボケっとした生活をせず、さまざまなものに興味を持ち精神的なアクティブさを維持できたのははてな匿名ダイアリーのおかげです。
さて、私は大腸がんで苦しんだ祖父の介護で幼少期に苦労した経験がありました。そのため、かかりつけのクリニックにてビデオスコープ内視鏡が導入されたことを知った時から定期的に胃カメラ、大腸カメラを含む検査を夫婦で受けてきました。
しかし、2019年に最後の大腸カメラを受けて以来は検査を行っていませんでした。70歳になったし、息子夫婦の末孫の小学校の入学式を見たし、娘夫婦が仕事が終わるまで孫を預かるようになって忙しくなったこともあり毎年「来年でいいか」となっていたのです。
なんとなく覚えたみぞおち痛で昨年にクリニックを受診し、そこで行ったエコーで膵臓がんが見つかりました。超音波内視鏡ではなく通常のエコーで見つけられたので定期的に検査を受けていればもしかしたら早期発見ができていた可能性はあります。
とにかく総合病院で詳しい検査を行い、手術が可能だったため膵切除を行いました。
手術ができ、化学療法も行える状態であったため命拾いしたと思いましたが、医師からは「楽観的ではいられない」と告げられました。
医療の進歩によって、幼少期に見た祖父の壮絶な闘病とは比べ物にならないほど穏やかな生活を送ることができました。食事も取れていましたし、妻と買い物や旅行にもいけましたし、去年の誕生日も家族に囲まれて過ごすことができました。
しかし、年明け直後の強い背中の痛みで意識を失って以来、一気に体力が削られてしまいました。75歳の誕生日は迎えられそうにないです。妻は寂しがりやなので、私が妻を看取りたかったのですが、最後の最後に寂しい思いをさせてしまうことになりました。
体力のなさと慣れないiPadでの入力なので、これを書くのにも長い時間を必要としました。
今までありがとうございました。
将来胃の全摘や人工肛門は絶対嫌だったので30代中盤にして人生初の胃カメラと大腸カメラをやった
体調悪い時に通院してるクリニックにて
他に先生のいない個人のクリニックなので私はてっきりいつも診察してくれてる院長先生がやるのかと思ってた
2階の個室で梅ジュース?スポーツドリンク?みたいな洗腸剤飲んで、トイレでOKもらって、着替えて、いざ検査室に入る
こちらに背を向けてパソコンカタカタやってるスクラブ着た人がいた
「院長じゃないの?てか他にも先生いたんだ」
なんて思ってたけど、その先生が振り返った時の顔に見覚えがあった
「小中の同級生じゃん!」
そのうちにあれよあれよと寝かされて点滴に薬を流され「まだかなーまだかなー」ってぼーっとしてるうちに胃カメラと大腸カメラを終え、意識がはっきりした時は既にリカバリールームにいた
もらった検査結果の紙を見る
近くの総合病院で働いているのは知っていたけど、勤務医ってクリニックで内視鏡やることもあるのね