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はてなキーワード: 研究室とは

2022-09-14

学部時代研究活動の嫌な思い出

まぁ、向いてなかったんだと思う。

僕の入っていた研究室は、研究室内で二つのグループがあった。研究室全体としては画像処理がメインだったんだけど、2次元画像解析をメインとするグループ3次元解析をメインにするグループに分かれてた。

それぞれのグループには教授がついていて、一つの研究室に二人の教授がいるっていう珍しい形式だった。

僕は三次元解析グループに属し、光学系を組んでそこから色々するって感じなことをやってた。

研究室内では年に2回、進捗報告会を行なっていた。

30分発表20質疑応答っていう流れだった。

当時学部4年生だった僕は、卒論のこともあるので、ある程度研究報告できるくらいには結果を出していたし、それなりの考察ができていると思っていた。

報告会がスタートした。

途中噛んだ部分はあったものの、ほぼ30分時間通りに発表が終了した。次は質疑応答である

するとすぐに別グループ助教授先生から質問がとんできた。

助「展望にある〇〇の観測って、可能なのですか?」

僕「今回提案した実験系ではまだ可能ではありません。ですが、実験系の改良や、新たなアプローチによる計算手法が生まれたら可能になると考えます。」

助教授は納得行っていなかった。

助「もし、観測できる実験系と、新しいアプローチがあったとしたら、〇〇の観測可能ですか?」

僕は質問意味が分からなかった。

僕「それが用意されているのであれば、可能だと考えています。」

発表会場がざわつく音が聞こえた。

僕の受け答えが可笑しいのだろうか。周りの人は質問意図理解できているのか不安だった。

すると痺れを切らした別グループ教授が声を上げた。

教「出来るわけないやろ。〇〇なんて小さすぎるでしょ。そんな小さいもの、どんな実験系用意したって出来ないやろ。 そんなことも分からないんか。 もうこんな恥ずかしい発表と問答はやめてくれ。」

発表会場は一気にシーンとなった。

僕は「すみませんでした」と声を絞り出した。

正直、泣きそうだった。

そのあと質問はなく、席についた。

同じグループ指導教員からも、直上の先輩からも、誰からフォローもなく、アドバイスもなく、気づいたら発表会場には僕しか残っていなかった。

そうか、恥ずかしい発表だったんだな、聞くに耐えなかったんだろうな。

僕はつくづく、研究に向いてないんだなぁと感じた。

その後僕は大学卒業して、別の大学院に進学した。今いる研究室には居たくないって気持ちだった。

2022-09-11

anond:20220911143127

大学単位じゃなく研究室単位で今でもMacがまだかなりあるのよ。特に理系で。理系は昔はMacばっかりだったけど、今はだいぶWindowsも増えてきた感じ。

anond:20220910173047

研究室Macだったから、その流れでね。大学は今でもMacの所がかなりあるので、そういう人は結構、いると思う。

2022-09-10

土曜日っていつから休みになったんだろう

いつから休みになったのかなぁ

記憶曖昧

小学校とか中学校とか半日登校だったか

弁当を持って行った記憶もかすかにある。

高校?どうだったろう。半日だったか

午後に映画館に行って夕方までダラダラ見ていたかな。

図書館に行ったりしてたかな。

大学生ときは?土曜日って講義あったか研究室ゲームしてたか

会社入った時はどうだろう。

最初から休みだったっけ?半日出るみたいな出勤だったか

今日半ドンだなとか先輩のおじさんが言ってたような

どの辺から休みになったんだろう。

たぶん今は学校ちゃん休みなんでしょ?高校はある?部活

土日休みだと学生って暇じゃないのかな

それなりに塾にいったりいそがしいのかな。

2022-09-05

anond:20220905173156

お酒の頼み方とジェンダー関係、興味深いね

旧帝のジェンダー研究室修論テーマにできそう。

サラダの取り分け方やお会計ジェンダーも入れたら博論になるかも。

2022-09-03

anond:20220902230321

待たせたな。

 

ヤンクミ…!』

 

   (音楽)

 

お前ら笑うなっ!

 

   こいつは

誰も知らねぇとこで、

 

毎日商品開発研究室

  過酷な開発

  してんだよっ!

 

お前らは毎日

 商品開発研究室

   開発して、

製品出してんのか?

 

出してねぇやつは笑うなっ!(ヤンクミ)

2022-09-02

あんまり言及されない理系男子あるある

「姉がいる」

これマジで多い

まわり見ても研究室の先輩後輩に聞いてみてもそう。

おい見てるかM2の〇〇

お前もう1ヶ月近く研究室来てないよな?先週に連絡した時も「来週は行けるから!」とか言ってたよな?なのになんで金曜日になってもお前は来ないんだ?

そもそも私がやってる共同作業の割り振りも本当はお前の仕事だよな?共同研究してる外部の人間の方がよっぽど熱心に実験しに来てるよ?

本当にこのままのらりくらりやってて修士号が貰えると思ってるんだろうな。実際に先生とDの先輩がなんとかして卒業させるとは思うけど。こんな人間が仮にも一流大学修士卒業できる時点で色々終わってるからマジで卒業妨害してやりたい。本当に今すぐ中退して欲しい。存在研究室利益をもたらさないので、実験設備と机だけ返してさっさと消えてくれんかな。

2022-09-01

BL漫画バカとαの研究室

萌え

・初期案の眼鏡ありverでも滅茶苦茶みたい

当て馬αのカプ、反響あったら次作出します感がすごい

2022-08-31

anond:20220831010359

Wikipediaで不足するような研究をまともにできるような人は(研究室のお膳立てを無しにすると)大学にもほとんどおらず、修論でさえそれ新規性ないでしょと思うものばかり

完全に新規の内容が研究できればそれはもう博士号に相当するので、小中学生自由研究に新しさを求めるのは酷だろう

夏休みが明けるとなんか色々実験しましたみたいな自由研究が回ってくるが、本職の研究からするとそれは500年前から知られているみたいな話ばかりだし、強いて言えば離島小学生とかがたまたま(研究者の足の届かないような場所で)偶然新種の生物発見する、とかでもなければ結局Wikipedia丸写しと大差ないものしかできないと思う。

2022-08-29

anond:20220829151108

研究室卒業生たちが「ここでは自分専門性が求められていない」と言ってJTCを辞めて外資に行っちゃうのに、その教員が何をしたら「社会」の役に立つというのか。

砂漠に水を撒いてもしようがないだろ。

2022-08-27

anond:20220827075103

化学系の研究室ではキムワイプ無駄遣いするなって話をするときに鼻が擦れるとかい実例をあげるものから・・・

んで実際一回は使ってみてそれ以降はそれで鼻をかまなくなる

こういうエピソードすらマウントと言われるんだろうか

2022-08-17

anond:20220816014148

理学部助教をやっている。社会人ドクターを取った後大学に戻った。

幼さを感じた。

増田は、頭というか論理的考える力は高いんだろうが、この内容は身勝手すぎる話だ。まぁつまり小学生のような幼さを感じる。自分のことしか考えられない幼さを前提にすれば、まぁ筋は通っているだろう。

結局言っていることは小学生夏休みの宿題に対して「これなんの役に立つの?」って言ってるのと変わらない。

日本大学なら18以上だよね?成人しているのだから、何が役に立つのかどうか、何をやるのかどうかは自分判断せねばならない。

卒論が役に立たないというのならば、大学を辞めれば良い。そうすれば、研究なんてやらなくて済む。その代わり内定は無くなるかもしれないけどな。増田はそれが嫌だから、いやいや卒論を書いている、だから、こんな文章が出てくるのだろう。しかし、世の中はそんなに都合良くはできていない。

卒論をやって就職をするか。卒論をやめて就職しないか。その二択を判断しろ、という話だ。自分の納得できる選択肢がないから『おかしい』というのは、あまりに幼くないか

お金を稼ぐために、自分には不要に思える仕事をやらなきゃいけないことなんて沢山ある。自分不要だと思っても、本当は必要だったり、本当に不要しか思えないものもある(上司プライドのせいで増えた仕事とかね)。その度に、教授に言ったように、そういう文句上司取引先に言うのか?そんな必要はない。今後の仕事につながる人間関係と、その仕事にかかる手間を天秤にかけて、やるかやらないか判断すればいいだけだ。というか、本当に不要なら、やらなくても問題は起きないだろう。

自分が何をやるかは自分で決定しないと、他人のせいになってしまう。この場合自分の欲しい選択肢を与えてくれない教授や、大学のせいにしている。しかし、他人のせいにするのは楽だけど、自分人生無責任だ。

もちろん制度に不満があって、それを変えようとしている人は世の中に沢山いる。現状追認大人の証などというつもりは全くない。だから増田学長学部長に掛け合って、何らかの資格取得や、技術の開発を卒論に相当する単位としてくれるよう嘆願しているというなら応援する(当然教授1人にゲームの例え話をするのとレベルが違うのはわかるよね?)。

それから卒論について。

大学教員としては、基本的に専門知識学生に与え、その知識ちゃん学生の中で有機的に結合し、能力として発揮できる状態になっていれば、大卒と言えると思う。授業の勉強だけしても、それぞれがつながっていて、かつ意味がある形で使える必要がある。微積線形があって初めて、微分方程式関数解析ができる。その積み重ねだけではダメで、それらを使って何ができる人なのか?というのが大事だ。個別知識だけなら本を読めば良くて大学全然必要ない。何ができるかを確認するために卒論がある。

何ができるか?を問われているので、アイデアが既にあれば、それに必要なだけの知識さえあれば良い。アイデアもなく、b3までに知識を得てこなかった人は、当然それを発揮する場である卒論には苦労する。

それを踏まえて、数学科では普通卒論はない(研究できるレベルの最新の数学をやるにはb4では難しい)から自分修論経験を語る。

修論経験社会人になって生きたか?というと、スキル的な意味では怪しい(研究職なら直接役に立つだろうが)。アナリスト記者など、文章経験を役に立たせている人はいるだろう。また、コンサルマーケティングなど自分アイデアpdcaで回す必要がある職の人も役に立つだろう。しかし、一般化できるとはとても思えない。

から増田の言うことは増田目線では正しい。文系に行くから行列は要らない!とか、一生コンビニ店員でやってくから三角関数は要らない!言われたら、そうですか、と言わざるを得ない。

しか大学は上で書いたような学生養成することが目的であって、就職先で役に立つようなことは想定していない。そういう社会的要請があるのもわかるし、それに阿った判断をして卒論を無くしたりしている大学があることも認識しているが、社会で「一般に」活躍できる人材を輩出したい!と思ってるわけではない。もちろん、資格系や職業人が教授をやるケースなど、その分野で活躍する人材を輩出したいという研究室は存在するが、社会人として役に立つ教育ではなく専門家養成目的としている。

一般化できない以上、大学で学んだことをどう人生に生かすのかは、学生次第だ。学生が、自分判断で、自分の将来に役に立ちそうな大学学部研究室を選ぶのだ。

大学提供するプログラムは上の観点設計されている。自分人生必要かは人によって違うということを認識する必要がある。その中で、そのプログラムでは、多くの学生にとって卒論が、教育上の能力の判定として役に立ってきたからこそ、必修として存在し続けているのだ。教育する側には役に立ってるかもしれない、という視点に立ってみて欲しい。能力の鍛え方が足りない者を大卒として認定するわけにはいかないんだ。

デジタル化推進で解決出来ることは、それほど多くないのでは

M2MIoTクラウド、エッジコンピュータAI、DXなど、それなりの年月をかけてデジタル化に投資されてきた。

ネットニュースを追いかけていると、デジタル化で何でも解決ができそう、という期待を持って語られているが、個人的には疑問がある。


理由1:半導体微細化の進歩が緩やかになり、価格が下がることはなくなった。

理由2:デジタル化によるサーバー代・アプリ開発代など固定費増を持続的にペイ出来るだけの仕事は多くない。既に乾いた雑巾を絞る状態から、更にコスト削減は難しい。

理由3:通信を入れるだけで製品寿命が数年単位で短くなる

理由4:データの移動だけで解決出来ることは既にやり尽くされている。物の移動が絡まないと解決しないことが多い。モータ制御技術発達が必要だが頭打ち


理由1について。

先端半導体に関しては価格が上がるのみ。

全ての半導体が1桁nmの先端プロセス必要なわけではないが、古いプロセス工場減価償却が終わっているものは、これ以上価格を下げるのは難しい。

今は原材料高騰しており、総じて価格上昇。

平常化しても緩やかなインフレ状態で、安いから買い放題とはならないはずだ。


理由2について。

BtoCで価格が安いものが目立つので、その感覚コスト削減しようとするとBtoBコスト増。

人件費削減で導入し、その後、固定費増に耐えかねて事業自体クローズ

個人利便性を上げる方法アイデアで溢れるが、売上増など全体のパイ拡大には繋がらず。

中間マージンを取っている既得権益を壊した後は、デジタル業界に置き換わるだけ。


理由3について。

製品発売後のセキュリティサポートをするために、ずっと稼ぎ続けないといけない。

そんなことが出来る企業は限られている。

テレビのようにAndroid搭載したがために、すぐ重くなり使い物にならなくなるといったことは、色んな所で起こっている。

1つの事業が駄目でも他の事業で稼げているようなコングロマリット企業は多くない。


理由4について。

データサイエンス機械学習AIなど、データで稼ごうという動きはずっと続いている。

だがデータバカみたいな量必要で、コンピュータも大量に必要で、電気代も膨大にかかる。

個人でも1研究室レベルでは意味あるアウトプットは出せない。

GoogleとかAWSなどクラウド業界が有利な状況を作り出している。1人の天才に覆されないためにも必要なわけだが・・・

AIで絵がかけるようになって話題になっているが、じゃあ出てきた絵にお金を払おうとはならない。


他の物についても、データ分析で売上が上がるなんてのは、そうそうない。


通信が十分に普及している現代生産性を上げるには物の移動をどうにかするしかない。

物の移動するにはロボットになるが、ロボット進歩モータ制御進歩必要だが、投資が少ない。

既に工場で稼働しているロボットアームの性能は十分だが、価格、立ち上げなど価格面で折り合いがつかない。

anond:20220816014148

ここまで強い言葉で言う気にはならないけど、気持ちはとてもわかる。勉強全般はかなり得意な方だが、研究がとにかく嫌いだった。卒業して数年経つけど、いまだに嫌悪感が抜けない。たまたま卒論必須でない学部に進んで就活も終えてて単位も余りまくってたから夏前にゼミを辞めて卒論放棄することで(ゼミに入っていると卒論を書かないといけなかった)問題なく卒業できたけど、もし卒論必須だったら4年生の1年間は楽しめなかっただろうし最悪留年していたかもしれない。成績が良かったから院進を勧められていた時期もあったけど、本気にしていたらどうなっていたか想像したくもない。

普通に大学生活を送ると4年生になっていきなり卒論/研究かい存在だけは聞いていたよくわからないものが降ってくることになるんだが、その段階になって初めて適性が判明するからゼミ研究室の厳しさや求めるコミットと本人の適性や興味次第では心理的にめちゃくちゃ大きな負担苦痛になるし、教員大学院生にはたぶんそれが理解できていない(そういうのが好きでそこにいる人間なんだから当然だが)。怠慢と切り捨てられたらそれまでだけど、片脚がないのにサッカーをさせられている人というのはこういう感じなのかな、と思ったりもした。

増田と同じ感覚なのかはわからないけれど、とにかく自分がそこに時間を割く意味があるとは思えなかったし、そういう言わばエイリアンだらけの空間時間を過ごしてエイリアンの決めたルールに従って何かをするというのが気持ち悪くて仕方がなかった。いま学生指導している立場の人が読んでいたら、そういう人間もいるんだ、ということは知っておいてほしい。

そんなわけでゼミを辞めて卒論で身につけるはずの能力を身につけなかったのだが、それで困ったことは全くない。仕事楽しいばかりではないが充実してやれていると思う。増田がどういう選択をするかわからないけど、卒業さえしてしまえばどうにかなるはずだからなんとか耐えてほしい。

増田を叩くコメントも多い。確かに大学研究機関だと言われたらそうなんだろうけど、ほとんどの人は研究するために入っているわけではない。(それは大学院の役目だと思う)

関大とされるところであればあるほど「高校の次に行くもの」という認識になっているし、周りのほとんどが大学に行く中で自分だけ「研究をする気がないから」なんて理由で行かないやつは見たことがない。もちろん、入学の段階で卒業論文の有無を気にするやつなんているわけがない。入試でも研究に向いているかなどは一切問われない。そうして入った中の一部にたまたま研究に全く興味のない、向いていない人間存在したとしても仕方ないだろうと思う。しかも、それで3年生までは問題なくやれてしまうんだよな。

問題卒論研究に全く興味のない、意義を感じない人間に逃げ場がなく、しかも4年生になるまでそれを自覚しないで過ごせてしまシステムじゃないだろうか。1年生からゆるゆると研究の真似事に触れるようになっていて、研究との関わり方の自由度も確保されているなら、自分が向いていないことを自覚して所属する学科コース研究室を選んだりもできるが、多くの大学だと入学時点で詰んでいる気がする。(自分のいたところはわずかにそれらしき「研究に触れよう」のような授業があった&学部レベル入学後に選択できたので、事態わずかに想定して卒論必須でないところを選べた)

長くなったが、とにかくこういう人間一定割合で出てきてしまう仕組みになってるんだから個人を叩いても仕方ない。増田にも責任はない。大学側にこういう人間が発生したとき対処法が確立していたらとは思うが、まあ無理だろう。同情するしかできないが、強く生きてほしい。

現実的には増田卒論免除されることは考えづらいから、教授かには下手に喧嘩を売らずに媚びまくって負担を軽くしてもらえるように働きかけるか、あるいは「やる気がないわけではないが本当の無能だ」と思わせて院生あたりの助力を得るようにした方がいいと思うけども。

2022-08-16

anond:20220816113048

とはいえICUでも卒業研究必須単位だったけども。教養学部単科大だけど、卒業年次にはメジャー研究室を選ぶ必要がある。(しか卒論原則英語で書くルール。。)今は違うかな?200x年卒。

大学での学びの集大成として、ヒーヒー言いつつそれなり真面目に卒研やってる学生が多かった印象。科学者コミュニティの仕組み、論文執筆ピアレビューの意義について教養科目や2年次必修の英語小論文執筆を通じて学んできている。元増田みたいに軽んじる学生はあまり見なかった。

教養単科大学なのに、皮肉だね。

いうて文系メジャー含めても15%超が国内外大学院に進学するので(理系だけなら体感7割)(文系でも国際機関志望とかだと修士ないと話にならん)、就職予備校的に例に挙げられると実態齟齬があるってことで。

いや、就職予備校であっても卒論研究大事教養実践だよって話かな。。

anond:20220816014148

また、大学教授は「研究で培った力は、将来社会人になってもきっと役に立つよ」という。

研究習得出来て仕事でも役立つスキルをいくつか挙げていくよ。もちろん仕事でも習得はできるし、そこそこの規模の会社なら研修とかもあるだろうけど、せっかくなら入社前に身に着けて周りと差をつけよう!

ロジカルシンキングクリティカルシンキングともいうね(厳密にはこの二つは別のスキルらしいけど面倒なので一つとして語るよ)。ものごとを体系的に捉えて矛盾なく解へたどり着くためのスキルだよ。このスキルがあれば仕事で新しい情報に出くわした際やスキル習得する際に、それをよりスムーズにしてくれるよ。また、創造性の要求される仕事企画とか開発とか)でも必須スキルと言われるよ。どのようなバックグラウンドからその提案に至ったのか、その提案ビジネス的に勝算はあるのか、そういった検討論理的飛躍なく出来るようにならないといつまでたっても下っ端働きのままだね。

Plan→Do→Check→Actionという継続的業務改善のサイクルのことだよ。自分経験してきた限りだと方々で「PDCAを回せ」と耳にタコができるほど聞くよ。ぶっちゃけ研究の仮説→実験検証→再実験の流れと同じだね。もっと平易に言うと、なんかやるんだったらやる前に結果を予想して、やったら予想との差分を取って、その差について考えて、次はもっとうまくやれってことだね。仕事してるとやる前の期待値とやった結果が異なることのほうが多いんだから、いちいち上手くいかないことを先輩・上司に泣きつかずに自分でなんとかしないとだし、一回やった失敗を繰り返すようならどんどん評価が下がるね。

きれいなパワポをつくれる、ということじゃないよ。プレゼンが上手い人はコミュニケーション相手にとって必要情報をわかりやすい流れで提示することが上手い人。会話だってメールだって一種プレゼンだと思おう。意図を汲んでもらうというコスト相手に支払わせてるようじゃそのうち煙たがれるね。煙たがれるならまだしも伝達不備でインシデントに発展したら目も当てられないよ。ちなみに増田のいた研究室だと週いちで週報プレゼンを課されてたのでこの辺のスキルはメキメキ上達したよ。

ググればわかるよという人ほどググり方をしらないよね。あと出てきた情報の確度をどうやって担保するの?というお話

anond:20220816014148

卒論が楽(レポートの延長線上みたいな)なゼミ研究室って無かったのか

情報収集能力問題では

卒業研究やりたくないんだが、大学教授勘違いを改めろ

卒業研究をやりたくないまぁまぁ偏差値の高い大学に通う大学4年生です。

学部卒業するためには、ある程度の単位を取っていれば、卒業研究任意にしてほしい。私は大学四年時は、翌年から始まる社会人生活でのパフォーマンスを高めるための学習時間青春謳歌するための時間に使いたい。

大学教授はよく「大学研究機関である」みたいなこと言うけど、それは教授エゴ押し付けだ。大学にはもちろん研究目的で来ている学生もいれば、就職予備校として活用したい、青春謳歌したいといった目的で来ている学生もいる。全学生共通していることは、学費を納め、正規手続きを行い、大学に在籍していることだ。全学生には4年間を自由に過ごす権利があるため、様々な4年間の過ごし方が認めるべきだ。大学教授は、学問の追求というエゴ研究強要し、この権利侵害しないでほしい。(私は研究する学生否定しているわけではないし、やりたいならやればいいと思っている。)やる気のない学生研究室や教授資源を割くよりもやる気のある学生資源を使ったほうが研究室の利益個人幸せ観点から見ても良いと思う。

また、大学教授は「研究で培った力は、将来社会人になってもきっと役に立つよ」という。本当だろうか。教授に本当に役に立つのか確かめ定量的根拠を示すようお願いしたが出てこない。なぜ定量的根拠を求めたかというと、論文でそれが求められるからだ。論文中で提案する内容を信頼してもらうために、評価実験を行い、定量的裏付けを行う。教授ならそのやり方に従い、根拠を明確に示してほしい。教授人生にとっては研究は役に立ったかもしれないが、学生1人1人の人生にとって役に立つとは限らないのだから無責任なことをいわないでほしい。占い師は客の人生を分かったかのような気で無責任アドバイスをするが、これと同じだと思う。

私は教授に「研究社会人生活でどのように役に立つのか教えてください。」と尋ねたところ、卒業研究で培う「難しい問題について色々と調査を行い、自分の頭で考え、試行錯誤する力」とやらが役に立つらしい。私は難しいスマホゲームクリアすることでも同様に「難しい問題について色々と調査を行い、自分の頭で考え、試行錯誤する力」が培えるのではないか質問したところ誤魔化されてしまった。

大学教授は、大学講義/研究学生の学びのための最良のコンテンツだと勘違いしている。なぜなら現在教授に就いている年代人間学生だった頃は、それらしか学ぶためのものがなかったからだ。今はインターネットを探せば、大学から提供されるものよりも分かりやすものはいくらでもある。社会から隔絶された場所に籠っている教授は極めて視野が狭い。

大学教授勘違いを改め、自身エゴ学生幸せを奪わないでほしい。

かなり伸びてるので追記

スマホゲームの例えは完全に釣りだよ、スマホゲームは解が用意されてる、研究で取り組む問題は解がないってのは納得した。でも解がないからこそ、よりやる気が出ない。解があったほうがモチベわく。

スマホゲームの話とか創作もあるけど大枠本記事の内容は本気でそう思ってる。卒業研究をやらずとも技術職の内定4社からもらった。4社とも時価総額3300億越えw 就活卒業研究については一切問われていないが、そういう人間でも就職できることが社会で起こってる。

・ちな地方旧帝理系です。卒研やらなくても学位もらえる大学あるの初めて知ったわ。看護大学とかじゃないよね

・「卒業研究が課されていない大学学部)に行けばよかったのでは」 こういう意見が多いんだけれど、自分場合研究を実際にやり始めてから、やりたくないと感じたのでこの道を選ぶことはできなかった。

2022-08-15

anond:20220815103039

研究室推薦って言ってるし両親高卒やら地域によって全然文化が違うっていうのにピンとこないんでは

それなりの会社っぽいからまずは東京支社に出張とか行ってみたらええのにと思う

共感にあらがえ - 内田樹の研究室を読んで

これは、いろいろと考えさせられるいい文章だと思った。永井陽右という青年を振り回すかのように語る内田樹。こういうマウントは嫌いじゃない。

ただ、内田が、

感情の器」って、あくまでも個人的身体条件のようなものから

というとき、何か逃げた回答のような印象を受けた。

たとえそれが自分の中から湧き出す内発的なものだとしても、大昔にアダム・スミス道徳感情論で追求したように、何かのテコで共鳴し、社会規範構成するに至るメカニズムが何かしらあるんだろうと俺には思えてならない。

そういう感覚を身に着けるのにどうすればいいかと問うた永井氏に、家風だとか、弟子入りだとか、そんな表現内田氏がするのは、けむに巻いているようにしか思えなかった。

家風にしても弟子入りにしても、そのつながり方が、社会規範にむすびつくメカニズムがあるはずだ。

アレックス・カー20年前に書いた本で『犬と鬼』という著作がある。

おりしも建設省代表される特別会計の闇が浮き彫りになった時代

アメリカの7倍のコンクリートを使って日本山河コンクリートで固めようとしていた、公共事業のあり方に疑問を呈した名著。

その『犬と鬼』のなかでカーは、そんな日本に至った問題を解明するヒントは「徳の逆説」にあるという。

「徳の逆説」というのは、国家も人も同様に、自分たちに最も欠けている資質を最も高く評価する傾向があるという、カーが常々思っている真理を彼なりに名付けたものだ。


A・カーは、フェアプレイ精神といいつつ、七つの海を支配した大英帝国の事例、平等を錦の御旗にしていた共産主義者トップ黒海に豪奢な別荘を保有し、人民実質的農奴と変わらない生活だったというソ連の例などを挙げつつ、最後に、和を貴ぶ日本人がなぜ明治開国後、対外侵略に夢中になったかという精神性に触れてゆく。

「徳の逆説」は、身近なところでも当てはまる。口うるさい親や上司説教ブーメランに思えてならない、という経験は誰もがしているはず。そして気が付くと俺も親父と同じことを子供に、という連鎖

最近、想起するのはやはり旧統一教会家族価値を高らかに謳いあげておきながら、その活動が原因で多くの家族崩壊している、といった、「おまゆう問題崩壊させているがゆえにますます高まる家庭の価値、という悪循環。これもA・カーのいう「徳の逆説」が見事に当てはまる。これは人が自分自身を規律しようとするとき動機付けメカニズムなのだ

内田永井議論テーマひとつである人権平等。あたか普遍的原理についても、

それを概念として具体化して社会が取り込んだ過程を決して忘れてはならない。

アメリカ建国者の一人、トーマスジェファーソン人権宣言を起草した当時、200人以上も奴隷を抱えていた。

これは矛盾というよりも、むしろ奴隷制にどっぷりと漬かっていたからこそ人権宣言が生まれたという「徳の逆説」のメカニズムを見るべきだろう。

どんなに薄汚れた社会であっても、一度高らかに掲げた理想は、その社会を真綿で絞めてゆく。欲望大全開の人民を前提にすると、民主政は成り立つのか。多数決をすれば少数者が圧政に苦しむのではないか、これがマディソン含め、建国者懸念だった。しかし、為政者の徳(アリストクラシー)と、欲望とは別に社会で正しいと思うことに投票する、二重人格的な資質人民に備わっていると信じて建国者デモクラシー設計した。裁判を通じ、繰り返し憲法価値観をテストする、という振り返りをビルトインした設計は本当に優れたものだ。結果として、最高裁が突き付けた奴隷制と財産権矛盾が、南北戦争北軍正当性を決定的にする。

内田議論に戻ると、外付けの人権というテーマと同時に、内発的なものとしての感情の器という、とても重要キーワードを出している。それは他方で外付け実装された人権と、どのような整理ができるのだろうか。

自分でうまく整理がつかなかった。内田はいう。

「人としてどうふるまうべきか」を子どもに刷り込むのは「家風」なんですよ。子どもたちは親の背中を見て、人間としての生き方を学ぶ。それは教科書で教えることじゃない。

これは、親子を中心とした自分史と言い換えられるのではないかと思った。さらにいえば、自分史は必ずしも親は関係いかもしれないのではないか。つまりこれまでの人生、来し方がキーなのでは。

内発的なものと外付けのもの、この二つはやはり、きちんと切り分けて、そして二つが、どうつながってゆくのか。以下、自分なりに整理を試みる。

まず外付けの倫理から。どのように受容されてきたか

舶来の概念というのは明治以来、洪水のように入った。民法など契約法の世界は、ほぼほぼ圧倒されたし、戦後憲法のものアメリカ経験に基づいたものだ。

しかし、日本人権教育は、残念なことに、人権普遍性を論証することに熱を上げてしまって、そもそも誰の内発的な経験がもとになっていたかという成り立ちのメカニズムを忘れた議論が多い。公共の福祉論などをいくら学説定義を整理してきれいに論じても、だから何?の議論だった。

戦後人権を外付け実装してきた日本は、そのルール規範の成り立ちといった背景をもう少し知る必要がある。それは教養として。

現在、旧統一教会問題話題の、国家宗教というテーマにしてもそうだ。

政教分離キーワードとなるのは、恐怖から解放だ。宗教に悩まされ、その扱いに苦慮するのは古今東西課題だ。宗教いかに折り合いをつけた制度設計をするか、古代ローマ時代からずっと抱えてきた。宗教的寛容、これが統治のカギだと気が付いたのはカルタゴ勝利した古代ローマ

そのテーマに対して、新天地アメリカに到着したプロテスタントたちの子孫が18世紀になってメイフラワー号の協約を思い出して試みたのは、旧世界では試みたことのない壮大な社会実験だった。百家争鳴な多様性のなかで社会構成するには、誰が正しいことを言っているのかは誰も断定できない、という前提に立つ必要再確認された。それが言論の自由関係では、20世紀初頭にホームズ裁判官らに代表されるように、自由市場比喩が生まれる背景ともなった。

他方、旧世界フランスでは、唯一の正しさを神に代わって宣言するカトリック教会権威苛烈弾圧が恐怖であった。だから公共空間合理化を徹底し、宗教を一掃する制度設計になった。フランス言論の自由は、その意味カトリック否定する権利が原点となる経験なのだ。だからこそ、フランスでは今でも神を冒涜する言論というのが非常に重要意味をもっていて、先日、仏風刺紙シャルリー編集長が英作家ラシュディ氏襲撃を非難したこと歴史的な背景は深い。

このように、人権というものは、何に対して恐怖してきた歴史があり、生まれてきたものなのか、という原点に思いを致すことが大切だし考えるコツだ。利他性じゃなくね。

それは、実は国によって微妙コンテクストが異なるものであり、普遍的価値として昇華できなくもないけれども、むしろ司法を通じて、原点となった恐怖を大切に思い出す機会が重要で、その社会が、その真理を繰り返し確信し、制度を強化し、再生産する重要な仕組みなのだと思う。逆に言うと、普遍的価値なら、なぜ何千年も克服できなかったか意味を問うというか。

しかし、外付けの倫理として受け取ったものを、思い出すかのように歴史を振り返るのは容易ではない。戦後日本裁判所も含めて。

でも、それこそが日本人権教育に欠如したものだということは個人的には強く思うところだ。


その意味では、外付けではない、外国の借り物ではない、内発的なもの感情の器からみえてくる倫理、これは本当に大きな価値がある。

内発的なものを自省するうえで、もっとも大切なのは自分の国や自分家族自分自身の歴史だと俺は思う。

自分自分先祖が痛い目にあってきた経験、あるいは他者を痛めにあわせてきた経験というのは、その人固有のものであって、その自分史や国の歴史を忘れてしまうと、あとは外付けの倫理けが残る。国レベルで言えば、それは端的に明治以降の日本アジア欧米との対外関係であり、開国以降、アメリカに敗北するまでの戦争に明け暮れた体験に他ならないし、国家神道によって死生観まで国に洗脳されかけた手痛い経験だ。

歴史というと大げさだが、要するに「自分たちに最も欠けている資質を最も高く評価する」、おまゆう精神自覚することだ。これは教養として学ぶというよりも、もう少し内省的なものだと思う。

自分理想とするもの現実とのギャップを振り返る作業といってもいい。

自分に欠けている部分、そこにこそ追い求めている何か理想的な姿の反転がある、という振り返り。

ネイションとしていえば、戦争体験の振り返りが重要キーになるし、国家宗教というのは、国家神道と戦争という経験で痛い目をみているのであり、ある意味、輸入された欧米経験教養として追体験するだけではなく、日本人が原体験としてもっていた大切な教訓。愛媛県靖国神社玉串料訴訟(1997年)の最高裁判決行政戦没者の遺族の援護行政のために靖国神社などに対し玉串料支出したこと違憲とした歴史的判決で、戦争経験がしっかり振り返えられた、という点で、司法仕事としてとても大きなものを残したと思う。建国精神を振り返るのが裁判所の仕事の一つだと思う。

しかし、戦後77年。戦争体験が風化するなかで、「あの時代を生き抜いた」という共通体験共通項として持っていたものがどんどん失われているのが今の時代

50年前の高度成長期だったら、戦争で死んだ部下を思い出しながら、仕事にまい進し、酒場で同期の仲間と語り合う、とか、厳粛に生きるための厳粛な死が記憶としてあった。

「あの頃は」という共通過去で人はつながることができた。それが内発的なものとして60年安保闘争を支え、水俣闘争があった。外付けの倫理ではない、思い出としての切実さの空気の共有があった。

まり、舶来の外付けの価値観と内発的な器は、その頃はわりと調和していた、といえるのだ。

それが、失われ、外付けの価値観だけがカラカラと空回りし始めているのが今の時代の特徴で、失われつつある寛容性の正体なのだろう。

永井氏はそんな時代に生まれ育った。彼は対談のなかで、大学時代

「そうかそうか、人権というものがあるのか、みんな賛同してるし普遍性高いじゃん」となりました。

と、外付けの人権から始まったと語っているが、外付けのものにも普遍性のみに着目し、それが生まれてきたプロセスを振り返らない、人権教育の失敗が見て取れる。

また、日本憲法に組み込まれ歴史への反省(前文含め)も記憶の風化とともに、個々人の内省が、時代への共鳴という形で、共感を醸成しなくなってしまっている。

高度成長期に「あの頃」といえば戦争時代だった。

それはかろうじて80年代までは存在していた。「おしん」が異例の1年間の朝ドラで始まってしばらくすると、

視聴者からは、おしん私自身そのものです、という声が橋田壽賀子のもとに多数届いたという。

しかし、時代は変わって、平成から令和になって「あの頃」といえば、昭和の末期なのだ

しかもそれをノスタルジックに思い出す、三丁目の夕日的な振り返りだった。さらには、あさま山荘であり、学歴社会バイクを盗んで走る尾崎豊であり、バブルの思い出なのだ。それは、その遺産に苦しんだ次の世代にとっては共感を呼びにくいものであるし、自分たちの社会の重圧と、戦争記憶との関連が薄まった。当然、日本憲法リアリティが失われ、右派から改憲論議が盛り上がってくるのは必然的なことだった。そんななか、統一教会が国の内部を白アリのように巣くって愕然とした先月から今月にかけての出来事というのは、忘れかけた宗教国家の結びつきの恐ろしさを、突如呼び覚まされるものだったに違いない。

しかし、いずれにしても過去記憶憲法規範が直接に結び付かない、その世代経験、そこに、永井紛争国の辺境の地を自分テーマに選んだヒントがあるように思えてならない。

紛争リアルがそこにある。そこに普遍的価値として大学生ときに知った人権、そして憲法価値を、自分なりの振り返りとして再確認する、動機付けがあったようにも思う。

しかし、たとえ社会の人々と共有されないものであったとしても、ひとは自分史のなかで、どうふるまうべきかを動機付けられる。

永井氏が、内田氏との対話のなかで

私は逆に、子どもの頃はよく母親に殴られたり色々と物を捨てられたりされていて、そのときに「この家では力を持った奴は殴ったり物を捨てたりしていいんだな」と思ってしまったんです。そして中学生になって殴られたときに「よく見たら小さいし別に喧嘩が強いわけでもないな」ということに気が付きまして。それでそこから自分母親のことを殴りまくるようになりました。ひどい時はアザだらけでしたよね。父親単身赴任でしたし。

といったときに、内田はそこにしっかりと気が付くべきだったと思う。

全然人権派じゃないね(笑)。」と返した内田に若干物足りなさを感じたのは、まさにそこだ。

動機付けられるものが、必ずしも、家風であったり、模範的ロールモデルとは限らないのだ。

この体験辺境の地での人権探し、自分探しは、多分無関係ではない。


ともあれアレックス・カー面白い

読んだのは20年前だが、年齢を重ねれば重ねるほど、彼のいう、逆徳精神の考え方が真理に思えてくる。

A clue to the problem may be found in what I call the theory of Opposite Virtues. Nations, like people in this respect, may pride themselves most highly on the quality they most lack. Hence “fair play” is a golden virtue in Great Britain, the country that attacked and subjugated half the globe. “Equality” was the banner of Soviet Russia, where commissars owned lavish dachas on the Black Sea and the proletariat lived no better than serfs. The United States prides itself on its high “moral standard,” while perpetuating racial and moral double standards. And then there is l’amour in France, a nation of cold-blooded rationalists. Or Canadians priding themselves most on being so distinctively “Canadian.” In Japan we must look at the time-honored ideal of Wa, “peace.” Wa means security, stability, everything in its proper place, “knowing what is enough.”Yet a persistent irony of Japanese history since 1868 is that for all the emphasis on peace and harmony, they are exactly the virtues that Japan did not pursue. At the end of the nineteenth century, rather than settling back to enjoy its new prosperity, Japan embarked on a campaign to conquer and colonize its neighbors. By the 1930s, it had already acquired a tremendous empire in East Asia; this inability to stop led to its suicidal attack on the U.S. base at Pearl Harbor, as a result of which it lost everything. Something similar is happening again. Perhaps Japan values Wa so highly for the very reason that it has such a strong tendency toward imbalance and uncontrollable extremes.

Dogs and Demons, 2002, A

2022-08-13

(追記2有)高学歴女ワイ「女に学歴はいらない」

地方旧帝大理系学部卒 → そのままその地方大企業就職したワイ女(20代)気づいた。

女に学歴はいらないです。

うちの会社学歴大好きな会社なので、

上層部大卒まみれ。

とくに私の大学の人はごろごろいる。

まり、私は昇進できなければ、

「××さんって、××大学出てるのに昇進できてないの?」と、心ないことを言われ続けるのだ。

田舎だしね。

昇進するには?

結婚せず、もしくは、結婚しても子供を持たずに

モリモリ仕事を頑張るのが1番良いと思う。

しかし?

結婚しないで仕事を頑張る

「女なんだからさ、仕事だけできてもね」

結婚しないの?賞味期限切れるよ?」

「頭いい女はちょっとね〜」

など言われる。田舎だしね(2回目)。

結婚して子供を持たない

子供作らないの?なんで?」

子供かわいいよ?」

と言われる。結婚相手の親にも言われる。

めんどくせー。

といった感じでまあ面倒なことが予想される。

②の場合は、結婚相手子供を望む場合離婚理由にもなりかねない。

結婚して子供作って仕事頑張ったらいいじゃん!

と思うかもしれないが、

子供作った時点で女が仕事に頑張れる環境なんてどこにもないのだ。

①育休産休の取得によってキャリアが絶たれる

育休産休とっても昇進できます、というのは幻想です。そんな都合のいい会社ないよ。

育児による負担仕事をする時間がなくなる

時短勤務とかやってたら昇進できません。

おまけに家事育児は全部自分に降りかかってきます

とまあ、どのルート通っても高学歴女は不幸になるしかありません。

幸せになりたいなら、高卒適当就職して、

結婚して仕事辞めて、子供作って家にいることです。

世の中のいわゆる「普通」にならないと、

特にこの日本では幸せになれません。

高学歴女なんか疎まれて陰口叩かれて終わりです。

今はただ、大学なんて行かなければよかったと思っている。

(ここでは親に学費出してもらっておいて何言ってるの?というのはナシにしてください)


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追記 2022.08.14

①両親はどちらも高卒です。幼い頃から虐待が続いていたので就職を機に縁を切りました。

親戚にも大卒がいないので、大卒の人の「普通」の人生がわかりません。

②親は、私の幼い頃から「お前は(県1番の進学校)高校に行って、(地元の旧帝)大学に行くんだよ」と

毎日呪詛を唱えていました。私は、夢も目標もないくせに、たまたま地頭はあったのでその通りにしました。

しかしお察しの通り私は能力はなかったので、大学院への進学をせず(できず)、研究室教授のおかげ(要するにコネ入社ですよね)で、今の会社就職しました。

③私の会社技術屋・事務屋にすっぱりわかれています。私は技術屋です。事務屋は女もそれなりにいますが、技術屋は女はいません。技術屋は、3,4年くらい前からほ〜〜〜んのちょっとずつ女をとるようになりました。

事務屋の管理職を見てみると男しかいません。

技術屋はそもそも女がいないので言わずもがなです。

会社管理職の男女比率データをこっそり見せてもらったことがありますが、ハハ……と笑ってしまうくらい女性割合は低いです。

事務屋も技術屋も、上層部〜…〜現場ヒエラルキーがしっかりしていて、上層部大卒・院卒まみれ(余程優秀だと高卒もいます)、現場高卒しかいません。本社は私の大学の人がたくさんいるそうです。学歴わずスタート(入社)は皆現場ですが、いつまで経っても大卒現場にいると、問題があるのだろうと言う目で見られます

東京に出たら?と言う声

しかにそれがいいかもしれません。

ただ、私には能力がないので、地元で泣いてるしか出来ないのです。いや、それ以外やろうとしないんですね。分かってます。現状を打開するのってエネルギー使いますよね(言い訳なのは分かってますよ)。自分愚か者であることはよく分かってます

増田は何がしたいの?と言う声

だってわかりません。親の呪縛を絶ってやっと自分意思で生きられるようになったのがつい最近なので、どうしたらいいのかわからないのです。自分のやりたいことのために生きる、ということがわかりません。

また、ASD持ちなのもあり、周りに馴染めず幼い頃からいじめられて生きてきたので、これ以上悪口を言われたくないと思っています。これは悪いことなのでしょうか。

専業主夫もらったら?と言う声

そもそも子供を産むのは女(わたし)なので、産休からは逃れられないですよね?(産休って義務ですよね?たしか)

産休取った時点でゲームオーバーですので、解決には至らないかと。


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追記2 2022.08.15

めちゃくちゃコメント来ててびっくりしてます

自分と違う考え方もあって面白いな〜と読ませてもらってます、皆さんありがとう

別に昇進したいわけじゃないんです。

仮に、どんな学歴性別でもフラットに見てくれる会社にいるとしたら、

ゆったり生活できるくらいのお金はもらえて、

心の健康は守れるような部署ヘラヘラしていたいです。

何も考えずに出身大学カードぶらさげて今の会社に来てしまい、

「あ、昇進しないと変な目で見られるのでは……?」と、

入社してちょっと経った今それに気づき冷や汗ダラダラになっています

今の会社選んだ理由も、予期せぬことで変な時期に就活が突然始まってしまい、選択肢がそれしかなかった(重要選択 の仕方がわからないので選択肢がなかったことはまあ助かったかなとは思っている)ことと、

うちの会社は一応安定してるので、まあ60歳まではとりあえずは生きていけるな、と思ったからです。

例えば私が男性だとして、結婚する女の人のお父さんに「××に勤めています」といえば、

そのお父さんは二つ返事で了承してくれるような会社です。

(うちの地方の女の人と結婚する場合に限りますが)

働きたい・働かない の話ですが、

この学歴で今の会社に運良く入れたので、

せっかくですから、定年まで働きたいと思っています

昇進できなくても、余裕を持った生活のできるお金はもらえますので……。

毒親育ちなのもあり、「家庭」に憧れがないというか、ないもの想像しろと言われてもわからないので、

本音を言うなら子供は望んでません。

そんなに子供きじゃないし。

女ばっかり痛くて苦しいし。

そんな時も旦那は寄り添ってくれない!みたいな話はインターネットにいっぱい転がってるし。

また、私みたいな産まれたことを呪う人間をこの世に増やしたくないです。

毒親連鎖するというので、私が毒親にならないよう努力しても、毒親になってしまうのでは、という恐怖があります

同じ会社の人と結婚して子なしで共働き理想です。でも、田舎なのでなんやかんや言われます

それが嫌なんです。

人にあーだこーだ悪口言われるのは疲れました。

でも、それを無視できるメンタルは私にはありません。

から皆さん東京に出ろ、とおっしゃっているんですよね。わかります

もしどうしても子供作るルートに入るのであれば、いわゆる下方婚でも全然構いませんというか、専業主夫の方と結婚しても構わないと言いますか、ぜひそうしたいです。

で、夫には家庭に入るか時短勤務にしてもらって、家庭のことをやっていただきたいです。

(もちろん全部やれとは言いませんよ、自分の家のことですから)

でも、この田舎にそんな男性って存在するんでしょうか?田舎男尊女卑傾向強いのに。

私の主観だとほぼいないように感じます

ちなみに、旧帝大理系学部卒(not院卒)の異常性は当事者の私がよーく分かっておりますので。

2022-08-10

anond:20220810093809

経緯は色々あるんだろうけど、なんか変な縛りがあったりするよね。

(かつて存在した)一部の研究室に有利になるように特定のところだけ許されてて、新しくできた新分野の研究室だと博論審査申請要件を満たすのがめちゃくちゃ難しいとかそういうやつ

経済系でやってることも投稿先も人文系なのに理論系分野の慣例を基準申請要件が書かれてるみたいな感じ…

anond:20220808150217

博士課程で単位なんて気にしてる奴いないよ。問題博論審査に進むための要件を満たせるかどうかだけ。

うちは英語ジャーナル論文3本以上出版が条件だったし、さら指導教員が分野トップジャーナルしか投稿を許さない縛りもつけてたから、3年で終えられた奴ほぼ居ないどころかオーバードクター学位も取れない人だらけで死屍累々だった。研究室史上最速の取得者が4年半だったかな… 論文を書いても書いても通らない時の焦燥感は今でも夢に見るし、俺は踏みとどまったけど焦燥感から論文捏造する人の気持ちもめちゃくちゃ分かる

anond:20220804160350

俺も5年かかった。先輩たち4人も全員オーバードクターして最終的に学位取れなかった。俺が(同期と同時だけど)研究室初の博士号取得者。指導教員放置(自由放任?)の上でジャーナルの格を要求するから論文書いても通らず厳しかったし、rejectくらって格を少し下げたらこれは学位要件に入れられないみたいなこと言われてた。俺は論文5本publishくらいの時点でようやく博論審査申請を認めてもらったけど、キツかったし二度とやりたくない。

学位取得してから外の人たちと研究するようになると、世の中の若手ってこんなに論文書けず能力もないのに博士号取ってるのかって驚きだった。卒業後に論文を書けなくなる教員がたくさんいるってのは本当。クソでも卒業できるところはあるし博士号取る基準がかなり厳しいところもある。実力はついたか指導方針として間違ってなかったと思うけど、うちだけ厳しくてこれ何?とは思ってたよ。他所研究室なら先輩達も2回くらい卒業できたじゃんとか思うけど、博士に値しない人たちに博士号を与える他所研究室が正しいとも思えず、一方でうちの苛烈要求が正しいとも思えなくて、質保証のために基準は上げつつ退学してももう少し気楽に民間就職するルートが開かれていてほしいなぁと思うわ。博士号って名前は同じなのに基準が違いすぎる。

中退がどうとか誰でも取れるとかは場所とか分野とか指導教員に依るので、中退からどうこう言われずに普通に民間企業と行き来できるようになってほしいね

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