その一行は秀逸ですね。ただし、「一流の~」と「貴様ら愚民に~」の2箇所誤りがあります。
一つ、私はアニメを作れないのでどんなアニメであろうがスタッフを尊敬している。
故に一流のスタッフだから評価しているのではありません。私はヤマカンのファンでもなんでもないのですから。
二つ、私の解釈を先に書くと純粋な他者の解釈の妨げになると考えたので最初のエントリでは書きませんでしたが、
幸いここはAmazonではないので、しばらく待っても私以外の解釈が書き込まれないようであれば
ネタバレの注意書きを書き添えてあえてこの場に私の解釈を書き込もうと思います。
GIGAZINEの筆者は、GIGAZINEの運営を専業にしているんだよ。だから、一般人が片手間にやるブログとは気合いが違う。
私は何もアルファブロガーを賞賛したいわけではない。任意の記事に対する個人の評価は相対的であろう。ひとえに「アルファ」と言っても、あらゆる人間に対してアルファであるものと、少数の志を同じくする人間に対してアルファであるものとがあろう。その一方で、多くの人間に注目される記事を継続的に書くブロガーがいて、そういう人々を、ある人はアルファブロガーと呼ぶだけのことである。
これは、「私にとって」ということである。私と似たような嗜好を持っている人が複数いるとすれば、「私たちにとって」と言えるかもしれない。そして、ある種の「隙のある」記事の内容に関して言えば、多くのブログ閲覧者が妄念を感じるかもしれない。
「妄念」の判断基準として以下を考えている。
ある読者がある記事を読んだときに、
だから私は、RSSリーダーで(私が私にとっての)アルファブロガーと認めたブロガーの記事を購読している。さらに、セレンディピティ(思いがけないものを偶然に発見すること)を期待してはてなブックマークのトップページを利用するし、はてなブックマークの特定のタグから生成されるフィードをRSSリーダーに登録している。はてなブックマークはトップページ閲覧以外にも柔軟な活用が期待される。「はてなブックマークなど」と言っては、はてなブックマークがかわいそうである。
そのような信仰が流布しているのは、あなたの信念の世界においてだけではないのだろうか。ソーシャルブックマークを通じて、目立つブログ(もしくはブログの記事)と目立たないブログがある。ただし、それらの間にヒエラルキーがあるか否かは、私には判断できない。しかし、彼らが特定の情報流通におけるハブにはなっていると思う。
この病はmixiのアーキテクチャーに利用者がだまされることによって生じる。「チカシイけれど日常的にコミュニケーション出来ない相手の消息を常に確認出来る、というところに価値を見いだしてる」といった、mixiのサイト構造(=ナビゲーション設計)との距離の取り方を会得すれば、おのずと改善される症状である。
ある利用者にとって、あるコミュニティはそうかもしれないし、またあるコミュニティはそうではないかもしれない。
mixiは日本国内におけるSNSのデファクトスタンダードになっている。「確かに入ってる人の数が多いんで身近にやってる人もちらほらいる」ということこそがコミュニティ系サービスにとって重要であり、人が集まらない二匹目のドジョウサービスはサーバースペースの肥やしとして朽ち果ててゆくのみ。
はてな匿名ダイアリーがまさにそれであると私は感じています。
すみません、何が言いたいのかよく分かりません。
一日に20以上クリッピングしそうな人々
つまり、一日の多くの時間をインターネット利用に当てられる人々。
隙のある記事でうけを狙うのは、まぐれ当たりにはなるとしても、継続的な読者は獲得できないのではないだろうか。
情報の持ち合わせが少ないのに名声は獲得したい一般人が発する妄念を感じることがある。それらの妄念のうちのいくつかは、なんらかの条件が重なって多くの読者の目にとまることがある。これらは珍しい事例であり、妄念界の一発屋、「一発妄念」とでも言うべき作品である。しかし、一般的にほとんどの妄念は、Web上で流通する玉石混淆の情報群の中の「石」に属しているものだから、記事に重み付けをおこなう技術によって淘汰されていってほしい。
アルファブロガーについて。私が知っているアルファブロガーとされる人達は、それなりになんらかの専門的な知識や得意分野を持っている。多くの読者の間に「○○ネタなら××さんのトコが詳しい」といった認知が定着している。
これからもアルファブロガーの称号を与えられる人々は増えていくだろう。しかし、アルファブログのジャンルの内訳には偏りが予想される。たとえば、コンピューター関連の技術に関して、目下商品として自分が開発に携わっているプロジェクトの製法や根幹技術にまつわる生のレポートなどではなく、開発が完了して出荷を待つ商品の広告として。アルファブロガーの執筆活動は余技の中で行われる。苦労して編んだ成果は、無報酬の場ではなく、報酬も名声も実体を伴って得られる現実世界の閉鎖的なコミュニティの中で流通している。
一方、アルファブロガーではない人のブログは記事の蓄積の中に一貫性が感じられない。もしくは、一貫性があったとしても、情報としての価値が低い(たとえば「今日、○○さんたちと一緒に××で△△を食べました、おいしかったです(以上)」みたいな)。
アルファクリッパーについて。はてなキーワードの定義によれば、アルファクリッパーとは「一日に20以上のエントリーをクリッピングをしている人達のこと」だという。「アルファ」という接頭語をつけるのは妥当なのだろうか?アルファクリッパーとされる人達のクリッピングは他のソーシャルブックマーク利用者になんらかの影響を与えているのだろうか。アルファクリッパーとされる人達とそうではない一般クリッパーとの間に一票の格差はあるのだろうか。
もしくは、あなたが美男(または美女)でなければ、他の美男美女が硫酸をかけられた結果、もはや美男美女ではなくなり、顔面大火傷して絶望して自殺するので、相対的に見てあなたが美男(または美女)になる。よって、結局、あなたに硫酸をかけなければならなくなる。
それが分かれば誰も苦労はしない、と言いたい。
主張は以下の2点だろうか。
ソーシャルブックマークを通じて、ブログの記事で名声を得るには
条件を満たす記事のジャンルを考えてみよう。これは、マスコミが発信する記事でも、個人がブログなどを通じて発信する記事でも共通するだろう。
また、多くのブックマーカーの目にとまる機会とは、
「そんなの、もう、塾で習ったよ!」と言って、学校での授業態度が不真面目(妙に高飛車)な小中学校の半端優等生たちに聞かせたいね。
ご冥福をお祈りします。
うろおぼえだけれど、今年に入ってからマスコミでも取り上げられるようになったよね。回復を願っていたのだけれど。
一連の『ガン漂流』の著者奥山貴宏さんの時もそうだったけれど、ブログが普及してから、闘病日記が亡くなるぎりぎりまで本人の手(口述筆記の場合も含めて)で更新されるようになって、それくらいブログの更新って手軽で、ややもすれば人が病と闘うということの重さが薄れて伝ってきがちなのだけれど、その更新の手軽さと、死で強制的に打たれる終止符(だいたいスタッフの投稿や肉親からの寄稿で代表される)とのギャップが激しくて、デジタル的な感覚で麻痺していた生々しさや切なさや恐怖が後からまとめて襲ってくる感覚にとらわれる。
個人的に重要なWebサイトはソーシャルブックマークではなく、ブラウザのブックマークに登録する傾向があるかもしれない。
ブックマークされる記事の種類に偏りがあるように思う。
今のはてなブックマークは「未知との遭遇」を促す道具というよりは、ありきたりな情報に大衆がつばをつけた痕跡をさらす場所のように思える。
自分にとって、ホットエントリーや注目のエントリーは最大公約数の列挙にしか見えない。だから、自分の興味のあるタグ名から生成したフィードをRSSリーダーに登録して、読む記事を選り分けている。この手法をつかうと、はてブの飽和状態への不満に一定の精神的安定がはかれるし、自分の興味の対象がWeb上でやりとりされやすい情報なのか否かが判断できて面白い。