止まらないかどうか,漏れ出るほど作ってるかどうか,これは大切なことである.この世界を生きてることに興味があるか,一瞬一瞬を集中して楽しんで生きているか,寝るときには限界を迎えているか,その繰り返しを生きているかがとても重要だと思う.その中に研究やものづくりがある人なら,「すでにやっている」のである.逆にそれ以外の人々とはどうしても研究のずれが生まれる(そもそも目指しているところが違うのだと思う)
「この世界に生きることに興味がある?」という言葉にちょっと痺れた。
前にヨーロッパ旅行に行ったときに散歩しながら、今後生きていくときの指針について考えていて、技術を愛しながらまずまず仕事をして、芸術を嗜んでささやかに生きていこうと考えて帰ってきた。自分の時間を現代の常としてお金を稼ぐために働くことは妥協して、人類の暇の使い方として時の試練の中で精錬された芸術にせっかくだからほどほどに触れ、自分も拙く芸術の制作側(自分の中では音楽)もやろうと考えた。なんにも目標がないふわふわした未来をどうやって生きるか、生きる価値があるのかを考えて、せっかくなら人生の楽しさや人々の過去の営みの中で生まれた大切なものを摂取して生きようと消費者的な思考を持った 。(生産者側の視点として、他人の生活に影響を与えることを目標にするような人生を考えたが、自分はそういう価値観は持ち合わせていなかった。まだ若いだけかもしれない)
「この世界を生きることに興味があるか」はこれに似ている。落合さんもせっかく生きるなら興味のあることを、楽しいことをやろうと思っているようである。しかし、自分と違うことはここでさらに「熱中」という概念が入っていることにある気がする。自分はなにかに熱中できるほどの熱量と矛先は持ち合わせていなくて、熱中することがある人は(退屈や空虚)を忘れられて幸いだねという斜に構えてしまうスタンスだ。人生は根本的に退屈と空虚でできているのだ。熱中できることがある人は、それは幸いなことだ。
中高のカトリックの学校で、その時の先生が「人はひとりひとりが使命を持っていて、人生のある時に天からの掲示のように心の中に現れる。そこでそれを自分が受け入れられるかどうかが問題で、一度受け容れられなかった使命はもう二度と同じものはやってこないのだ」(意訳) と言っていたことを思い出す。熱中できることがある人は自分の使命にしたがって生きている人なのだろう。そういう人が身近にいると羨ましいなと思ってしまう。
とはいえ、ほどほどに生きていくこと。それだけでも生きる価値があると思う。今日は帰りにデパートに寄って、美味しい和菓子屋さんの店 (榮太樓總本鋪)を知ったのだ。これを知らずに死ぬなんてもったいない。