2023-06-10

文章力」のはてなでの扱いが不憫すぎる件

「お前が 『好き』 と感じたことと、それが 『良い』 かどうかは別問題

はてなーがよく言ってそうな言葉ですよね。

はてなにおける文章力あるなしの定義は、まさしく 「好き」 と 「良い」 を混同した状態となっております

 「文章力がある」 とは、 「表現したいことが相手に伝わりやす文章」 に対して使う言葉です。

言葉定義について後で揉めたくないので最初にここをハッキリ書いておきますね。

話し言葉に近づけた表現をするなら以下のようになるでしょうか。

「君が言いたいことが、僕の頭にスラスラとに入っていったよ。内容の複雑さに対して、理解するのにかかった労力がかなり少ないと感じた。君は人に物を伝えるのが上手だね」 を 「文章力がある」 と定義します。



はてなにおいて 「文章力がある」 「文章力がない」 という言葉が使われている場面の多くが、単にその文章好き嫌いを語っているように感じます

言っているはてなー本人が 「読み手に伝わりやすい良い文章」 とは何かを正しく認識できていないことによって想起している問題です。

文法が正しい。誤字脱字が少ない。無意味造語が少ない。対象曖昧代名詞が使われていない。複数の読み解き方が可能文章となっていない(意図してそれを行っている場合は除きます)。論理の飛躍がない。過剰な頻度で同じ話を何度も繰り返していない。こういったマイナス要素の少なさこそが、良い文章を形作ります

また場面にあった文章であるかどうかも重要です。

契約文書法律文書は、甲乙による呼び名代表とした堅苦しい表現が使われています。これらは一般的には読みにくい文章となりますが、それぞれの表現が指す範囲を明確にする必要があり、かつ冗長にならないようにすることを最優先する必要があるために、独特の表現を使った文章となっています

日常会話において法律文書のような表現を用いれば、伝達において齟齬が生じやすくなるでしょう。逆に契約書に砕けた表現を多用すれば、あとで揉める原因となるでしょう。

シチュエーションごとに適切な文章表現を選び出す能力は 「文章力」 の最重要構成要素です。

文章力」 の構成要素を羅列し見れば分かる通り、 「個人が好ましいと感じたか」 は 「文章力」 との関係性が極めて薄いのです。

過剰にヘイトを煽るような表現を多用して判断力を下げる文章が世の中にはありますが、それを書いた人間目的相手感情的にさせて判断力を下げることであったならば、それはその目的にあった文章となっています

自分好き嫌い基準に 「文章力」 を語るはてなーにはそういった視点さえも欠如しています。その証拠に、自分本位の好き嫌い基準のままで文章の良し悪しを判断し 「文章力がある」 「文章力がない」 という表現が多用されているのを非常によく見かけます

このような謝った言葉濫用は、全く持って言葉に対して不誠実と言えるでしょう。

ですがそれらが悪意や、善意のなさによって生起していると考えるべきではないように思います

単純に、 「文章力」 というものを正しく認識する機会に恵まれることの難しさが原因だと私は考えます

高校までの教員の中に言語研究において論文を何本も書き上げた経験がある人がどれほどいるのでしょうか?

大抵は大学に通い教員免許を取る過程において少し齧った程度のままで、その後は現場の忙しさに翻弄され、学生たちのしょうもないてにをはの間違いを如何に効率よく正していくかばかりが頭を支配することでしょう。

そして多くの日本人はそうした教員から受けた言語教育だけを、言語に対して深く触れた体験だと感じ、そこに言語能力というもの天井を感じてしまうのです。

虫かごに入れられたノミの話と同じように、人間は下手に天井を感じるとそれ以上を目指さなくなります

正しい言語力というものを、単にセンター試験国語で満点を取れるだけのものであると思えば、そこからの百分率で言語というものを考えるようになる。

ですが実際には言葉というものもっとずっと複雑でいくらでも工夫のしがいがあるものなのです。

それを知らない人達安直好き嫌いで 「文章力がある」 「文章力がない」 といった表現を使っているのは非常に悲しいことです。

ですが、これは現代社会における教育コスト問題であり、一個人が過剰に憂いても仕方がないことなのです。

それでも吐き出したかったのでここに垂れ流させていただきます

お目汚し大変失礼致しました。

記事への反応(ブックマークコメント)

ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん