最後の配信での言葉が「(なんで配信してるんですか?)配信が好きだから みんながコメントしてくれるから そういうことだから」で終わる配信者の鑑みてえな最後だった無職飲んだくれヨボヨボハゲジジイ
あと何年かは生きるんじゃねえか、だなんて思っていたけど、いやぁまぁ、想定より早く亡くなってしまったな。
でもそこに配信っていう魔がやってきて、その魔に誘われるままにとんでもない配信を幾つも作ってきた
よくよく考えたら、普通に生きるってのも真っ平らな道ではないからな、凸凹道の凹凸をデッカくしたり小さくしたりするのが配信で
それを視聴者達がクセエだのハゲだの隠居しろだの言いながら眺めていたのが配信という魔だった。
ある種、救いなんだよな
金くれっつったら百円でも投げてくれるんだもの
そして、その言葉の後に『もうやめ、やめるよ もう やめるよ うん、ほんと ちょっとさ これで配信はぁ 別にぃなぁんもぉ…くせ クセ…ミ…くせぇ…クセエ野郎がぁ…』と言っていたので、本当に配信活動(というか死期を悟っていて人生)自体はそこで終わるつもりだったんだろう。多分『もうこれで配信やめても別に後腐れはないよ』って言いたかったんだと思う。
何が後腐れだとは思うけれども、まぁそういう迷惑な人があの人達配信者という人達だし
だから、これからも救いようのない人たちは配信などをして救いようなく暴れて、救いようなく小銭でこき使われて、それでもそんな暗がりの中を照らしてくれるコメント達を有り難がりながら眠るように亡くなっていっていいんだと思う。
素晴らしい道筋を作ったものだ、それは加藤純一やもこうにはもう出来ないことだから
本当の意味での底辺配信者はやはり最後まで配信というものを楽しんで死ぬべきだから、人生に齧り付きで行った趣味で、人生の大半を配信に捧げたのだから
そこに言葉をくれる奇妙奇天烈な奴らがいてそいつらとニヤニヤ過ごせただなんて素敵な事だと思うよ。
何かを勘違いした人は『だから配信者の真の姿をちゃんと見るべき!』だなんて言い出すかもしれないけど
見に行って、クソと思って、変なコメントして、ちょっと揉めて、ああもうこんな奴の配信見るものかと思いながら、また次の日にちらっと見に行って、全然コメントなくて、全然コメントなくて草ってコメントして、またキレられて、そういうくだらない繰り返しが本当の配信者とリスナーの真の姿なんだよ。
ただ暴れて女とヤッて酒飲んで警察の世話になって揉めて揉めて揉めて揉めてなんてのは、人間の底辺の、人間が底辺になった時によく発生する部分で、僕らが歩く時にぶつかる膝から下の部分の話でしかないから。
でも人生とかいう奴は膝から下でしか呼吸ができない生物とも、腰から下に顔が付いてるような生物とも、胸でしか世界を見れない生物とも、頭の上から理解ってるように見ていてそのくせ何にもわからないまま死んでいくえらそうな生物ともぶつかり時に肩を組むものだから
そう考えると配信者の真の姿ってのは『面白いと思ったコメントがスベってキレられてるけど、配信者はそんなに気にしてないし、むしろ何もないよりは助かってる』って姿なんだと思う。
これからも底辺は続く、俺たちの生活は何も良いことが起きず、何も上昇せずにひたすら泥と酒とゲロの中を泳いで生きる。
時々足元が見えていない奴のために罠を作って引っかかってる様を見てゲラゲラ笑う。
そして偉そうに講釈を垂れた後に自分も同じトラップに引っかかり暴れ出さんばかりにキレて誰も見ていないところで静かに反省する。
その実単に酒飲んで生きたいだけだったりしたあの人の姿は
多分俺の中で徐々になりつつある反面教師の姿として
一生残り続けるんだろうなぁ。