①ヤフコメの存在により、はてブの存在意義が再定義され、結果として「インターネットに詳しい集団っぽいコメントをかまさなければ」という自覚を生み出した。
②建設的コメントAPIの導入により、ダジャレの人気が落ちて変わりに「賢しらに60文字程度で過激な言葉を並べたコメント」を皆が書き込むようになった。
この2つだよ。
どっちも大いに大問題だ。
もしもヤフコメがなければはてなは様々なコメントを扱うサイトとして平和に暮らせたが、ヤフコメのせいで「俺たちはヤフコメ民のような低能とは違うんだぜ」という無意味な気負いが産まれてしまった。
その結果として産まれたのが、「新聞ではなくネット記事で社会を学んできた集団らしさのあるコメントをしていく」というゴミのような自負であり、それによってコメントの多様性は失われエコーチェンバーが加速し、劣化が進んだ。
更にトドメになったのが実質的な「ダジャレ禁止法案」とも言える建設的コメントAPIの導入である。
ダジャレがトップコメになるサイトというのは老害臭が強烈で極めてダサかったのは事実だし、ダジャレなら何を言ってもいいかのような風潮も問題があった。
だが、それでもダジャレがトップにくる圧倒的くだらなさは一部ユーザーの中にある謎の承認欲求に冷水を毎日のように浴びせる効果があったように思う。
建設的API導入後のはてなにおいては、建設的APIをすり抜けるような建設的風味なコメントが上位に来るようにはなったが、彼らが建設しているのは「お気持ちの塔」「憎しみのオブジェ」「怒りのメタファー」「断絶の壁」とも言いたいくなるような負の遺産ばかりであった。
確かに建設的APIは、より建設的な物を建設し続けたが、それらはそれぞれの身勝手な正義に基づいた新たなる不和の種ばかりを生み出し続けていたのではないだろうか?
結局の所、はてなブログがその中心ではなくなり、増田さえもナイフ片手の殺人鬼が暮らすスラム街の如き扱いとなったはてな、たった100文字のコメントだけで全てを包括した気になる超低メモリ人間の巣窟になったはてなで、無理に建設的であることを求めたのが間違いの始まりだったのではないだろうか?
その中で「どうせ俺たちは建設性とかないし?」で皆がスルー出来ればよかったのだが、そこにヤフコメというライバルが存在したことで「俺らなりの建設を見せてやんよ?」という余計でしかない対抗心が焚きつけられたのが最悪すぎた。
実際の所全ては偶然であり、ヤフーが悪いというよりもはてなという集団が自ら道を踏み外す過程において触媒としてヤフーが極め強い効果を発揮していただけに過ぎない。
それでも、結果論だけで言えば「はてながここまでおかしくなったのはヤフーのせい」とも言えるわけである。
だが、これは「おかしくなったのは」にかかっていそうな「せい」が実際には、「ここまで」にしかかかってないという詭弁である。
皆もこれからは「詭弁を言ったら、最後にネタバラシをする」という癖をつけたらどうだろうか?
どうせ遊びでやってるんだろ詭弁遊びは?
それで本気にした人が変なことして責任を取らされるのは面倒だぞ。