「現在話題になっている女性表象に関する表現だけでなく、全ての表現が規制され、国家から市井の人々まで全員が、他人に伝えるような物語を紡げなくなる状態というのは、物語(ストーリー)が自分の思考を妨げない(=自己を保っていられる)という点において、一種の理想なのかもしれない。
つまり、ある人間が考える「悪い」表現を禁止するのではなく、他人にストーリーを与えてしまう表現全てを禁止すれば、人々はストーリーに影響を受けることなく、自己が本来持つ自身のストーリーに忠実に生きていけるだろう。
だから、表現規制をやろうとする人々は完全に徹底してやってほしいと思う。
一部の表現を選択的に禁止するのではなく、人々がストーリーで繋がることが無くなるくらい徹底的に全て禁止してほしい。
人々が物語を共有できなくなるくらい、完全な表現規制を求めてほしい。
(今の表現規制は、その規制を求めること自体がストーリーのひとつになっているため、私が希望する表現規制にはほど遠い。
ストーリーによる悪影響を消すためには、表現規制自体が物語性を持たないくらいに徹底的な表現規制が必要なのだ。)」
という私の言動も、物語性を帯びてしまっているのだ。まあ、つまり、そのようなレベルの表現規制など無理だということだ。
「自己の物語」なんてものは存在しないのです。「自分の成功」「自分がどん底から這い上がる」「自分が本来素晴らしい才能を持っている」というような願望も、物語の類型として文...
「エクリチュールの零度」みたいな話かな? そのようなエクリチュールは存在しないとの結論だったような。