要するに今回の劇場版SLAM DUNKは、遊園地とかで体験するアトラクションとかと同じなわけ。
USJとかの遊園地に行った時に、3D眼鏡を掛けて乗り物に乗って、スパイダーマンとかの立体CG映像を見て、頭を空っぽにして「スゴかったねー!」と一時的に盛り上がるでしょ。遊園地のアトラクションを体験する時に「主人公の人間性が描かれていない」とか「物語として破綻している」とか言わないじゃん。
試合後の勝利歓喜の中心が宮城リョータになるのは不自然だとか、安西先生は宮城リョータのアメリカ行きに何も言わず止めなかったのかとか、頭を空っぽにして遊園地のアトラクションを楽しみたい観客が、そんな物語としての辻褄をいちいち考えるわけないじゃん。
そもそも彼らには、映画を物語作品として楽しむという発想が無いの。彼らにとって何か物事を楽しむことは、イコール頭を空っぽにして楽(ラク)をすることなわけ。だから、物語の辻褄を考えるとか、キャラクター作りの矛盾とか、映画を見て脳味噌を使うこと自体が、彼らにとっては論外なわけ。主人公が宮城リョータと宣告されたら、もうそれだけで世界が宮城リョータを中心に回る理由として十分なわけ。宮城リョータの過去とか家族関係とか、そんなことはそっちのけで「細かいことは横に置いて、とにかく試合シーンのCG表現だけは良かった!」としか言わないし、言えないわけ。
その反応で井上雄彦は助かったと思うよ。何しろ今回の映画で描かれた宮城リョータの過去・家族の話は、ありきたりで陳腐な御涙頂戴劇でしかなくて、ストーリテラーとしての井上雄彦は完全に死んでいるという現状を如実に示していたから。でも「試合のCG映像は凄い!」で盛り上がる遊園地の観客なら、ストーリテラーとしての能力が云々なんて細かいことは気にしないもんね。良かった良かった。
とはいえ井上雄彦本人が、今回の映画に肯定的な観客たちから「宮城リョータ周りのヒューマンドラマとか、そんなことはどうでもいい。とにかく試合場面だけは良かった」と言われていることを、どう思っているのかには興味がある。監督・原作者として大きく力を注いだはずの人間ドラマ部分に関して、観客から「そんな部分はどうでもいい」と言われることは、普通ならば物語作家として屈辱的だと思うんだけどね。
25年前の少年漫画のアニメ化を高尚な目で見てるおっさんwww
おっしゃる通り宮城の生い立ちてめっちゃありきたりで陳腐だけど井上雄彦が描くとなんか特別な感じになるんだよな。悪く言えばあの方はもう権威になってるのかなって。
批判ありきのネチネチとした粗探しだけで「脳味噌を使ってる」つもりなのが問題
いきなり「彼ら」とか言われても
「彼女ら」・・・・?
桜金造さん「おやまゆうえんち~」