2022-11-23

森富子著『森敦との対話』を読む

森敦は横光利一門下で太宰治檀一雄らと同人雑誌青い花」を創刊。世代的には無頼派とかなんだろうけど、この人は一回パッタリと書くのをやめてしまって、40歳になるまで意識的に書かなかった人だ。

森敦が1974年に62歳で最高齢芥川賞をとったとき太宰と親交があったとコメントしていた。

森敦の回想(『わが青春わが放浪』)によれば、檀一雄太宰治と森敦は「絣三人組と呼ばれて、文壇悪名を流すことになる」ほどの交遊ぶりであった。やっとのことで出た『青い花』に、太宰治は「ロマネスク」を発表し、「これで太宰治文壇進出は、ほとんど決定的なものになった」というのである。その頃すでに森敦は『酩酊船』で文壇デビューしていたが、その後はなぜか放浪を続けて文壇からは遠く離れていった。 そして、太宰治があれほど激しく望んで逃した芥川賞を、40年後、森敦が「月山」で受賞して「文学に帰って来た」のだから、まるで両端にある生きざまを見るようで感無量というほかない。

森の芥川賞受賞時に最終候補津島佑子も残っているのがこれまた縁を感じさせる。

───────────────────

さて記事タイトル作品感想をつらつらと書きたいと思う。

俸給の代価としての作業という通常の意味でではなく、ある何かの作品創造をおのれのやるべき仕事と考えている者の家族とは容易ではないなと、思わせられる。

森敦というさまざまな意味稀有作家の周囲で20年以上の月日をともにし、あの『月山』の誕生に立ち合った、のちに養女ともなる森富子の標題作品を読んで心に沈んでいくのはそのことだ。

作家志望の富子は30数歳で上京し、神田小出版社に勤めはじめる。

同時にある同人誌はいり、そこで森敦と出会う。その席での立ち居振る舞いと発言で、森の人がらと何より文学素養と奥行きと後輩の作家志望者への指導言葉の的確さに、魅了される。その日から間もなく府中の森のアパートを訪ね、森夫妻との親しい交友がはじまる。

そこで描かれる夫妻との交友は、穏やかな日々で、微笑ましいものだ。森の妻の暘の、50代になっても童女のような天衣無縫ぶりには唖然とさせられるが。父親ケンブリッジ出身という酒田名家の娘という何不自由ないお嬢様育ちが背景なのだうそパーソナリティである

暘は富子を「私の娘」と呼んで可愛がる。

このずっと以前の時期から、森は無職である。以前に働いていたときの貯えでおそろしくつましく暮らしている。

だが、その微笑ましい暮らしなかに、やがて悲劇が忍び寄る。

それは富子が、並々ならぬ力を秘めていることはまちがいないと確信している森に小説を書かせようと思い、さまざまな方法で森に対しそれを仕向けはじめたことがきっかけだ。なぜそれが悲劇かというと妻の暘は夫の敦が小説を書くことを強く嫌がったからだ。それはその執筆作業時間に敦がひとたび入ると、「うるさい!音を立てるな!」とか「隣室にこもって静かにしていろ!」など敦の神経が異常に張り詰め、室内のその緊張に耐えられなかったかららしい。

から妻は頻りに、「ねえ、アツシさん。夕焼けがとてもきれいな、あの庄内の吹浦に帰りましょう」と、妻にとってふたりが最も幸せな日々を過ごした土地のことをいう。私はこの本を読み終えてから、この言葉が胸に残った。

やがて、妻は精神に異常を来たし、精神病院に収容される。 敦と富子のふたりが十分注意しても、敦が小説を書くことに精神を集中しはじめたことを妻が察知し、またそのことで夫を小説に奪われたと絶望にも襲われたからではないだろうか。

この時期に書かれたのが短編『鷗』であるのだが、妻亡き後の自分想像して創り上げたような内容。森は妻に読ませたらしい。正気なのだろうか。

こうして、知り合ってから10年の心血を注いで出来上がったのが、あの『月山』なのである

妻はそれが芥川賞を獲得したことも分からない。妻は発狂してから心身が急激に衰弱し、それから間もなく他界してしまう。

その過程の全体を綴ったのが、妻の死後養女となり森富子という名になったこ女性それから10数年後に著したこの本だ。

森富子は、暘の発狂理由について推測めいたことは何も書かず、ただ事実に語らせるだけだ。だが、発狂と『月山』の生誕とが同期していることで、そのふたつが密接に関連していることも、正直に明かしている。

そのふたつの関連について、「森に作品を書くよう促したことは、やるべきではなかったのだろうか?いや、だが・・・」と彼女の内部で数え切れない回数を反芻し、然る思索ののちにこの作品執筆にいたったのだろう。

妻が哀れである。だが富子の心も、事前に予想もしなかった取り返しのつかぬ出来事を発生させてしまった重いものを抱えていることは、間違いあるまい。そのように妻を死なせたことで、何よりも敦の心に、いいようもないものが沈んでいったであろう。人間世界には、どうすることも出来ず、ある方向に必然の進行をたどるということが、あるのだ。生きることは、つらく、悲しい。

森敦の養女となりその晩年を支えた森富子。森敦資料館というホームページを作ってらしたが一昨年の2月以来更新がない。お元気だろうか?

  • 太宰治は「飲み歩きながらも机に向かうことは忘れなかった」と言われているよね。勤勉だったんだよね

  • 敦は団塊世代ぐらいだとまだ記憶に残ってるかなーな感じで、丸谷才一も同じくらい。 森敦が芥川賞取った時の審査員で、唯一森敦が何者か知ってて且つ推してくれたのが大岡昇平なん...

    • 森は旧制一高在学中に、処女作を菊池寛に認められ、横光利一に師事した。 昭和52年の「国文学解釈と鑑賞1月臨時増刊号 芥川賞事典」を見ると「受賞のことば」のなかに「殊に、芥川...

  • なんじゃこりゃ? しかる思索ののちに 叱る思索?

  • 森敦が1974年に62歳で最高齢芥川賞をとったとき太宰と親交があったとコメントしていた。 森敦の回想によれば、檀一雄と太宰治と森敦は「絣三人組と呼ばれて、文壇に悪名を流すこ...

記事への反応(ブックマークコメント)

ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん