2022-05-11

父はイチボも知らずに死んでいった

田舎料理人をしていた父の最後はかなり惨めなもので、末期の胃がんにより食欲もなければ味覚もおかしくなっていた。

恰幅の良かった体格は女性モデルのようになり、鍋をふることはおろか立つことも不可能になった。

父は田舎料理人だった。料理に自信はあっても、人が少なく、みな貧乏田舎では、父の料理にそこまで需要はなかった。

父は「銀座に食べにいきたい。料理の師がそこにいるから久しぶりに会いたい」とよくいった。

父はそれを叶えることなく死んだ。

都内焼肉屋で希少な部位を食べるたびに父を思い出す。

イチボです。カメノテです。サガリです。トモサンカクです。

地元焼肉屋では聞くことのない肉たち。

料理人の父はそれらを食うこともなく、痩せ細って苦しんで死んだ。

亡くなったとき悲しいとは思わなかった。

しかし、美味しいものを食べるときにふと思い出すのだ。

店の椅子に座り、客が入るのを待ってじっとドアを見る父の姿を。

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