2022-05-01

弱者定義にはアイデンティティの獲得の失敗を含めるべきだ

なぜそう思うかというと、自称弱者が極めてうざいからだ。

そして自称することによるウロボロスを退治したいとも思っている。

私たち否定的弱者属性自身の特徴であるとするとき、大抵は自身行為によることが多い。

私は〇〇しかできないか弱者だ。私は○○だから弱者だというときに、○○は本人に依るだろう。

から○○をしない、○○ではない状況であれば彼は弱者ではない。

しかし話はそう単純ではないだろう。

他称である場合、そういった定義相対的である

限界まで普遍的であるとはいえるが、いかなる想定を超えてまで普遍的であるとは言えないのだ。

まりあ文化社会グループにおいて弱者であるとされていても、別のグループでは弱者にはならない可能性は常にあるのだ。

これは自称であってもそうである自称は他称によって得られるものだろう。

さら現在グループであっても、グループが何らかの変化によって、または破壊によって定義は変化する可能性もある。

そう考えると、他称されることとは一時的承認であると言える。

一時的承認であるが、自称となった(他称から自認へ)場合承認者は自己である

こうして彼はアイデンティティを獲得するわけだが。

弱者である場合(と私は仮定するのだが)、そういった自己承認はほぼ不可能なように思える。

それがどれだけマイナスものでも、可能な限り事実であったとしてもだ。

どれだけのマゾヒストなら自身にとってネガティブなことを自分承認できるのだろうか、ほぼ無意味だと思うだろうというのが一点と

弱者自己否定性を考えれば、その自己承認がどれだけの意味を持っているのだろうかというのが二点目だ

私が思うに、弱者による自称は、自称っぽいがほぼ他称であるだろうということ。

そして自己承認をされなかった自称もどきは、ひどくもろいだろうということだ。

こうなってくると、アイデンティティを一時は獲得したもののすぐ壊れてしまい、彼のアイデンティティはすぐに無くなるだろう。

私はここまで考えると、"弱者であること"に類するの定義にはアイデンティティの獲得の失敗を含めておくべきだろうと思う。(獲得したとしても本当に短い時間だろう)

こうしておくと、かなり良いことがある。

まず、自称弱者はほぼ消滅する。

なぜなら、自分弱者である(弱者であるというアイデンティティ)と言うことが不可能からだ。

次に、弱者自分のことを弱者だと思う必要は無くなる。

弱者自称することが無意味なのだから自分が本当に弱者かどうかということを考えることは無意味だ。

もちろん他称としての弱者は残るので、結果は変わらないし、彼はアイデンティティを獲得できない。

偽物のアイデンティティを獲得してぬか喜びする必要はないし、取っては壊れ取っては壊れるというような賽の河原の石積みのようなことはしなくていい。

では弱者は何も言えなくなってしまうと思うだろうが、アイデンティティを獲得を失敗したと自称することはできる、私が言いたいのはまさにその点にある

アイデンティティを持つもの強者で、持たないもの弱者だ。

私が思うに、もし弱者がいて、弱者と他称されていて、弱者弱者と自認でき、そして自称が広く他者承認されている場合

そのケースはあり得ない、あったとしたら、もしそれを可能とすることができるのならそれは弱者ではない。

想定される弱者のケースとは、弱者と他称されていて、弱者自分弱者だと言えず、言えたとしてもほぼ他称の自称を言い、そしてその自称自己または他者によって簡単否定されるものだ。

まぁこういうと、否定されることによって弱者は完成するのだが、もし否定する人と弱者になりたい人が共犯的な関係を作り出してしまうこと、そしてそれを意図して行われてしまうともうよく分からないことになるだろう。

である強者のケースを考えてみよう

強者と他称されていて、強者強者と自認でき、そして自称が広く他者承認されている場合

うん、これは強者だろう

強者と他称されていて、強者自分強者と言えず、言えたとしてもほぼ他称の自称を言い、そしてその自称自己または他者によって簡単否定される

うーん、微妙なところだが、強者アイデンティティ獲得を失敗しているので弱者に近くなる

話を元に戻すと、強者定義にはアイデンティティの獲得の失敗を含める必要はないだろう。

おそらく強者自己否定性はそこまで高くないだろうと思からだ。他称されている点に注目すれば、彼を認める者は少なくともいるということだろうし。

それに他称は変わらないし、弱者であることと、強者であることに何も変わりはないのだ。

これは自称による内面問題回避のために組み込むものだ。

私が問題とする2点は回避できる。つまり自称弱者という不可思議存在と、弱者によるいびつアイデンティティの獲得の防止。

もう一つ解決しなければならないのは、謙遜による弱者性を自称することだ。これは文化社会に密接に組み込まれていて、つまり彼らは弱者属性を体よく"使っている"わけだが

これを否定することはできない。恐らく強者であろうと弱者であろうと使うだろうというものからだ。

しか問題根本はここにある。

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