これは個人的なメモである。もう二度とこんなことをしないためのメモである。
2月9日、その日私はある人への誕生日プレゼントを買いに30分ほど離れた大きな駅に行っていた。その人はTwitterで知り合った異性で、何度か会ったことがあった。通話もしたことがありかなり仲が良かったが、あくまで友達だった。翌日2月10日はその人の誕生日で、たまたま会うことになった。そのためプレゼントを買いに行っていたのだ。
一時間くらい迷って高めのボールペンを買った後、昼ごはんを食べていないことを思い出し、近くのマクドナルドに入った。ダブルチーズバーガーのセットが550円だった。罪悪感を押し殺してなんとなくそれを頼み、YouTubeを見ながら食べた。
その時にふと思った。ODをしなければ。そうじゃないと私はこの虚無感を壊せない。ちなみにODとはオーバードーズの略で主に精神科の処方薬や市販薬を大量に服用することである。私は精神科に通っていたが薬の効果を感じられなかったこともあって真面目に薬を飲んでいなかった。まるで溜めているかのように大量に積み上がっていく薬を毎日眺めていた。よし。そう決めたら視野が狭くなって、それしか考えられなかった。ODでは死ねないことはわかっていたので死ぬ気はなかった。もちろん普段から死にたい気持ちはあったものの、自分が死んで遺される家族のことを考えると死ねなかった。だからむしろ死にたくなかった。本当は今日スーパーで買い物をする予定だったがそんなことはもうどうでもいい。家までの30分の間に治まるかに思えた気持ちは治まるどころかどんどん膨らんでいき、私は電車の中でTwitterのアカウントを全部消した。
そして家に着いた私はお茶のペットボトルを用意して一心不乱に薬を飲み始めた。薬を飲むのには時間がかかる。パソコンでYouTubeをつけた。いつも見ているゲーム実況の動画。たまたまおすすめに出てきた病院経営ゲームの動画を再生し、聞き慣れた挨拶を耳にしながら私はどんどん薬を飲んでいった。
一時間くらい経っただろうか。抗うつ薬と睡眠薬合わせて120錠を飲んだ私は、完全にふらふらでまともに歩けなくなっていた。そして思った。私は一人暮らしだ。このまま家でいたら死んでしまうかもしれない。直接薬の影響で死ぬことはなくても吐瀉物が喉に詰まるなどの事故はあり得る。そう考えた私は外に出ようと思った。外に出て倒れれば誰かが救急車を呼んでくれるかもしれない。もうそれに頼るしかなかった。今考えれば大迷惑なカスである。家で自分で救急車を呼ぶという考えも、今ならなんとか薬を吐き出せるかもしれないという考えも頭から抜け落ちていた。
そうして外に出たものの、全然歩けない。なるべく家から離れようと思ったがそんなことを言っていられる状況ではなかった。吐き気が込み上げてその辺に吐いてしまいそうになるのを何とか抑えて、道の脇にうずくまった。やばい動けないどうしようと思っていると通りすがりの青年が「大丈夫?」と声をかけてくれた。うなずくだけで精一杯で、首を縦に振ったり横に振ったりしていると救急車を呼んでくれることになった。電話してくれた青年は私のことを10歳くらいだと思っていたらしいが、私は実際には19歳である。情けなかった。電話をしてもらっている間に我慢できなくなって道端に吐いてしまい、道路と服を汚した。
救急車のサイレンの音がして、救急隊が来た。全く現実感がなく、まるで夢を見ているような感覚だった。立てますかと言われてなんとか立ったものの一歩踏み出すだけで倒れそうになり、最終的に担架に乗せられて救急車に乗った。睡眠薬をたくさん飲んだせいで横になるとすぐ眠ってしまいそうになり、何度も肩を揺すられた。とりあえずこれは言わないとどうしようもないと感じたので「オーバードーズしました」と伝えた。その後名前や住所、親の連絡先などを聞かれたが答えられる状態ではなく、勝手に財布の中を漁ってもらった。「できれば親に知られたくない?」と聞かれてこれは親に知られない道があるのかと一瞬期待したが別にそういうわけではなかった。未成年は絶対に連絡しないといけないらしい。だが親の携帯の番号がどうしても思い出せず、何度も意識が飛びそうになる度に肩を揺すられて、わからないと首を振るだけで精一杯だった。揺れる救急車の中で、ああ取り返しのつかないことをしてしまったと思った。だが一方であまりに現実感がなさすぎてこれは夢ではないかとずっと感じていた。夢ではなかった。
冷たい泉に素足を浸して
今までの君は間違いじゃい〜♪
怒られない程度にうまくサボりながら仕事するというやり方で、特に評価はされないけれどそこまで悪い扱いも受けずにやり過ごしてきた。「やり過ごす」というのが私の仕事に対する基本的なスタンスで、人生の中で仕事の占めるウェイトはなるべく小さくしておこうとしていた。
というわけで野心も出世欲もなく、上を見ないから挫折する機会もなく、他人から見たらどうか知らないが、個人的には順風満帆な会社員人生だと思っていた。もちろんしんどいことはあるし、少々心を病んだりもしたけれど、総合的にはうまく仕事と付き合えていたと思う。
スキルアップや、社会の変化に合わせた自分のアップデート、情報のインプットなどにも積極的ではなかった。時間が空けばサボってたし、何よりプライベートを優先した(自分では当然のことだと思うんだけど)。なので、会社員として「これについては自信がある」というものは身につけてこなかった。
ただ、自分の仕事への距離の取り方や、心を病んだ経験、上司にどう見られようが大して気にならないという立場を活かして、周りの人の心身のコンディションに気を配ることだけは積極的にしようと考えていたし、その能力には実は少し自信をもってもいた。周り、といってもその半径は狭く、せいぜい同じチーム、10人に満たない数の同僚に目を配ろうとしていた程度だけれど。
言うほど努力していたわけではない。機会をつくって個人的に話を聞いたり、職場でなるべく周りを巻き込むような無駄話をしたり、仕事を相対化するような発言を敢えて大きめの声でしたり、そんなくらいのことだ。
でもそれが機能していると私は思い込んでいた。役に立っていると傲慢にも考えていた。
人事異動でチームの人数が減った。それより前にすでに産休で欠員が出ていたのに補充はないまま、さらに人員構成が厳しくなった。
私だけでなく皆が危機感を感じていたと思う。上長もなるべく仕事を整理して、業務量の減少に注力していた。
その根本的な責が会社組織にあるとしても、少なくとも私は無策や無為によってそのことに加担はした。それは疑いようのないことだった。
特に会社来れなくなった中の一人、若い後輩の彼に対して、私のやり方は何から何まで間違っていた。私は彼の異変に気づいていた。話していて、少しお金の使い方が荒くなっているなと感じていたし、そもそも仕事は優秀な彼に明らかに集中しすぎていた。
彼は圧倒的なコミュニケーションスキルをもつ人間で、私は話しやすくて毎日のように会話した。彼は自分のことをよく把握しているように見えた。残業しても集中力がもたないと言って残業はあまりしなかったし、休日には一切仕事をせず、ちゃんと休んでいた。だから私は心配しながらもどこかで安心してしまっていた。
私は本当は何一つ彼から発せられている情報を汲み取っていなかった。汲み取る努力もしなかった。ヒントはそこら中に転がっていた。今思えば。
最悪なのは私が彼と話すことを楽しんでいたことだ。たとえば私がある仕事でテンパっていた時、彼は「増田さんも大変ですね」と言ってくれた。私はそこにある「も」の含意に気づかず、あるいは気づきながら無視して、自分がいかに大変かを話す有様だった。聞いてもらって喜んでいた。何という愚かさだろうか。
仕事へのモチベーションについて話した際も、私は彼が非常に的確な相槌を打ってくれたり、上手な質問で話を引き出してくれたりするので、相談に乗るというより会話自体を楽しんでしまった。彼は聡明で、聡明な人間との会話ほど楽しいものはない。
私は彼とのコミュニケーションをただ楽しみ、もっと言えば仲良くなることを喜び、彼の辛さについてより深く関わろうとしなかった。
私が何かすることで彼を実際に助けられたかどうか、ということは重要ではない。一番の問題は私自身の無為、圧倒的な無策だ。あの時何か試みていたとしても効果の程は分からない。いまさら検証のしようもない。でも、できることはあった。それをやらなかった。試みようと考えつきもしなかった。
彼との会話の楽しさに浮かれず、もっと虚心で向き合えば、するべきことは見えたはずだし、少なくともシンプルで素直な手の差し伸べ方はできたかもしれない。
私は漫然と彼の叫びを見逃した。
これだけ仲良く腹を割って話せているのだから、本当に大変な時は直接私に助けを求めるだろうとすら思っていた。
なぜ彼の叫びが「他ならぬ自分に向けて発せられる」などという傲慢な思い込みをしたのか。本当に厳しい状況にある人の絞り出す声は弱々しく虚空に吐き出されるもので、そもそも誰かに向いたりするものではないのに。
私は何から何まで間違えていた。
彼はまだ戻ってこない。このまま辞めるかもしれない。それはそれでいいと思う(彼の選択なら)。
戦争で死にまくったくせして人間が増えたのは結局金回りが良くなったからに他ならないけど失われたn十年を延々と続けてる今はどうかな