定期的に電子書籍と紙の本どっちがいいみたいな話題が出てくる。
まずスペースの問題だ。これはまっさきにだれもが思い浮かぶところだろう。実際、自分はマンガやらラノベで2万近いとこまで行って、これはもう人間の生活として限界だと思って、あるとき全部処分した。内田善美の本とか、もう二度と電書で入手できないこと確定みたいなもん以外、すべて。そしたら、信じられないことにモノがものすごく少なくなりました。びっくりしました。要するに俺の持ち物のほとんどは本かCDでした。あとエロゲの箱。
で、万を超える物量感を体験している人間としては、もう二度とあの状態にはなりたくない。もちろん歩いてると本屋とかは見てしまうわけで、そうするとふらふらと入ってしまう。紙の本ってそれ単体が「モノ」であり、モノとして訴求する力を持っている。ゆえに買いそうになってしまう。1冊くらいまあいいか。そこが地獄の入口だ。禁煙なんかと一緒である。
これだけの本を読んでいるということは、とうぜん活字中毒的ななにかである。出先で本を切らしたときになんでもいいから活字がないと死ぬと思って本を買った経験は一度や二度ではない。ある程度の期間の旅行ともなれば、10冊くらいは本を持っていくしかなかった。ついでにいうと音楽も切らすわけにはいかないので、かつてはカセットテープを10本とか20本持ち歩いていた。いまやこれがスマホひとつである。もうアラフィフなので思う存分老人仕草をすることにするが、いい時代になったもんだ。もっとも、これおっさんにけっこう多いと思うんだけど、ガジェットを単機能で持ちたがる癖があって、電書はKindle端末だし、音楽は、サブスク用のスマホを別に持って歩いてたりするんだが、まあそれでも本を10冊持ち歩くよりははるかにましだ。最低でも未読の本を5冊くらいは持ち歩いてないと落ち着かない。「この小さな端末のなかに文庫が100冊!」という安心感はなにものにもかえがたい。
さらに老眼の進行である。俺はドがつく近眼であり、かつ老眼もだいぶ速やかにご訪問くださりやがったので、裸眼で見えるスイートスポットが異常に狭い。日常生活で使えて手元も見える遠近両用とか頭痛するし、肉体的に文庫の活字を読むのがきついのである。その点、電子書籍なら安心だ。小1の教科書よりもでかい活字で表示できる。ディスプレーを見続けることによる目の疲れもKindle端末ならそれほど問題にならない。
俺にとって本は消耗品である。スナック菓子を食うみたいに活字を食う。あるいはトイレットペーパーみたいなものだ。この手の人間にとって所有権がどうこうとか、貸し借りが云々とか、子供が親の背中を見てとか、そういうのはいっさい問題にならない。読めればいい。本屋の営業時間を気にすることもない。なんならうんこしてる最中でも続きが買える。すばらしい。せめてそこはうんこ終わるまで待てないのか。
もちろん電書にもデメリットはある。
ブコメで頻出だった閲覧性、参照性の問題。これは絶対に紙に軍配が上がる。紙の本の「確かこのへん」でなんとなく探り当てるような探しかたって、シークバーではまず同じことができない。ただこれは単なるUIの問題である気もする。閲覧性でいうと、本棚よりも特定の本にアクセスするのが難しいというのもある。もちろん検索で対応できないこともないのだが「確かあれ、あの、なんだっけ、海辺でボーイミーツガールで……あれだ、あのエモいやつを読みたいんだ。20年前に読んだきり本棚のどこかに放り込んだあれを」みたいなときに、電書の3000冊とかのなかから探すのはかなり骨が折れる。Kindle端末本体ではどうにもならないし、いざパソコンの前に座って購入履歴を、と思ってもあれなんか妙に目が滑りません? やっぱりこういうとき「モノ」が厳然として存在している、というのは非常に強い。実際、紙の本で持ってたときに「確かあのへんに置いた」で見つからなかったことってあまりなかったと思う。
あとマンガな……。老眼に電書のマンガまじきつい。パソコンのディスプレーで見る以外の手がない。マンガのながら読みっていうか、部屋でぼけーっと寝転がってるときにそのへんのマンガを手に取ってなんとなく読む、という行動は激減した。10インチくらいのタブレットで解消できる問題ではあるけど、これ以上ハード増やしてどうすんだ的な感じもある。
電源切れとかは経験がない。そもそもモバイルバッテリーを持ち歩いてるし。あと端末の故障に備えて新品の予備は常に一台キープしてある。
俺が思う電書の最大のデメリットは「すべての読書行動を電書のみに絞り込むことができない」ということだ。これはほんとでかい。いちばん多いパターンが、新書なんか読んでて参考資料とか引用先で出てきたおもしろそうな本を買おうと思うと電書化されてなかった、というやつだ。またそういうのに限ってやたらおもしろそうだったりする。アマゾンで調べてる場合だと、1クリックでそのおもしろそうな本が(紙でなら)買えてしまうので、なおのこと心が揺らぐ。
これは読書に限らず調べものなんかもそうなのだが、一定のレベルよりも深堀りしようとすると、最後は紙の書籍に頼るしかない、という場面が頻出する。たとえば東ローマ帝国について調べていて、まあざっとした歴史の流れだとか、政治体制だとか、要するに概要を掴むくらいならネットでの調べもので充分だし、電書でも通史のたぐいはいくつも出ている。しかしもし、東ローマ帝国の庶民の食生活について知りたくなったら、電書ではどうにもならない。そこは学術書の領域で、論文探してヒットすりゃいいけど、こういうニッチな研究ってたとえば1960年くらいに書かれた本がいまだに最新の研究だったりすることもよくあって、こうなるとお手上げだ。紙の本しか選択肢がない。
これに限らず、マイナーな作者の小説だとか、古いタレント本だとか、古い時刻表だとか、とにかく紙の書籍は資産が膨大であり、とうてい電書ではカバーできない。そして今後もおそらくは電書化はされない。要するに紙の本から完全に足を洗いたくても洗えない、というのが電書一本槍にしたときに最大の障壁となる。
ま、図書館行けって話なんすけどね。なんでまあ、現状は「購入はほぼ電書、足りない分は図書館で」というかたちになっている。
あと最後に、電書のデメリットとして日常的に多く使ってる人は感じてると思うんですけど、無駄に買いすぎますね……。講談社学術文庫とかよく50%ポイント還元やってますけど、ああいうときやばい。
ついでですけど、アンリミは「なんでもいいからラノベ読めればいい」みたいな人間にとっては、けっこうよい状況になってるので、おすすめです。ただし1巻だけ対象でそれがおもしろかった場合は地獄みる。向こうも商売だから、まあ考えるわな。
キミはそういうことじゃないってことが想像できないんだろうね
表紙とかタイトルをざっと見て面白そうと思えるものを選べるけど
電子書籍は一覧にして見れるのって数冊でしょ。
そんなことはないと思う。エロい人の方が多い印象です。
11話もブクマでは作品を嗜んでいる意見が多数派だが、正直自分にはイマイチだった。
まず、東君を巻き込んであんなに引っ張った父親のところへ行く計画が、実質1ページで実行完了してしまった。
物語上の必然性の有無とか尺の事情とかがあるのだろうけど、ストーリーとしては肩透かしに感じた。
東君が裏切った影響も全くなさそうだし、東君パート必要だったのだろうか?
「誰の視点かによって描き分けてる」と解釈しているブクマカが何人もいた。
自分としては、叙述トリック系の作品でもないのにそういう信頼できない語り手のようなことを複数やられると、
考察するための材料が信頼できなくなるため、トリック以外のテーマに対する興味が急速に薄れる。
しずかちゃんのバイオレンスも、しずかちゃんのキャラクターのブレに拍車をかけているように感じた。
初期のころはいじめにあっても、反撃せずただ耐えて、
それでいて飼い犬のことになると自〇するようなキャラクターだったのに。
過去か未来か分からないが、年代が飛んだことで、ここにきて新たな謎が出てきた。
この作品の単行本は上下巻ということで、おそらく次回、もしかしたら次々回で最終回を迎えることになるが、
「読者に想像させるためにあえて結末は明示しない」という名の投げっぱなしEND
こんな感じで『タコピーの原罪』の評価が自分の中では下がり続けている。
それでも来週が気になるくらいにはまだ興味はあるのだけど。
例えば電子書籍だと「50ページと100ページを同時参照しながら読む」みたいなのは未だにやり辛いんだよな。学術書とかだとこれが困る。
小説とかだと「そういえばあの伏線が……」って前のページに戻るのがちょっと面倒臭い。
それを自分好みへ徐々に開発していくんだよ…
いや、今回の件で「人権て言葉を軽く使うのがよくない」みたいなことを難しい顔をして宣ってはる人らがいるけどさー。そういうのどうなんかな?そもそも何があかんねん。
うちのセンセーもよー言うてはったわ。「え、ジンケンジンケンて、犬とちゃうねんで」てな。人権なんてな、そのぐらい、もっと軽ーく使たらえーと思うねん。
「うわ人権ない」って軽く使って笑えるのは、それはみんなが「いや人権はあるやろw」「人権てw大げさww」ってツッコミ入れられるからやろ?
「人権はあって当たり前のもんや」「それでいてメチャメチャ大事なもんや」ってみんなが共通で思っとるからやろが。めっちゃええことやないかぃ。
だいたい人権なんて、当たり前にどこにでもあって、誰の人生にも少しずつ関係してるもんやろ。だから人権なんて、後生大事に棚に飾っておくような宝物と違うし伝家の宝刀とも違う。もっとトイレットペーパーくらい景気よく使い倒すべきもんなんや。そんでひとしきり使ったら、あとは笑い飛ばして水に流すくらいでちょうどいいんや。
胸ナイから人権ない。身長ナイから人権ない。アホか上出来やで。人権はあるやろて。マジに悩むなやーw。アッハッハ。
……でもな、なんで胸やら身長やら、そんな見た目で、俺らそーやって悩まなあかんのかな…? さてその辺から、そろそろ本気で人権の話になってきたりもするわけや。
せやからな、「人権なんて気楽に使うな、真面目に語れ」なんて話には、あんまり耳を貸さんでええんとちゃうかと俺は思う。
真面目さと笑いの分量、四分六くらいがちょうどエエで。せやから「人権」なんて言葉も、笑い六分、ライトに使うくらいでちょうどええんよ。
幼少の頃はニュートラル以外はどうかしてると思ってたが、長じてからは全員敵に回すニュートラルこそどうかしてると思うようになった