石焼き芋を25年ぶりくらいに買った。食べたのが25年ぶりではなく、
買ったのが25年ぶりである。25年はだいたいの話で、正確ではない。
購入した石焼き芋は、流行りの蜜がたっぷりな、やわらかいタイプのものであった。
食べてみるととても甘く、まさにデザートといった味わい。自然のデザートというのが気持ちがいい。
好物といってもよい石焼き芋だが、食べると心がざわつく。買うのはもっと気分が悪い。
石焼き芋の販売を告げるアナウンス。幼きころ、その声は、それはそれは気持ちを高ぶらせた。
あの、石に焼けて堅くなった、皮の周りの実。堅く甘いあの部分が食べたい。特に食べたい。
共働きの親は石焼き芋にいないことが多かった。自分で買うお金はない。お金があったとしても、
自分で石焼き芋屋を買っていいという発想が、子どもの時分にはなかった。
それでもたまには母親がいる。母親のいる際に石焼き芋が来る機会もある。母親も石焼き芋は好きな方で、
たまに弟と三人、寒空の下、家を出て石焼き芋屋に向かったものだ。
石焼き芋を買いに行くときのうれしい気持ち。そんな気持ちは大人になってから抱くことはない。
500円で買えるのは小さな2本だけ
それを3人で分ける
500円しか買えない
たくさん食べたかった
一人でたくさん食べたいのではなく、家族みんなでたくさん食べたかったのだ
少ない量だと、自分が食べれば他の人の食べる分が減る。
弟の結婚祝いにたくさんの祝い金を出すこともできる
子どものころの悔しい思いが昇華されて今の状況を作り上げたともいえる
ただ、子どものころの思いは何も消えない。今できるからよいということでは全くない。
それどころか、そんなこともできない親に対する、なんとも言えない気持ちが湧いてくる
嫌な気持ちが起きてくる