知る限り、父親はこれといった趣味もなければ友達と遊びに行くみたいな話も聞いたことがなかった。
毎日家と職場の往復で夜は発泡酒をあおり、酔ってよく母親と喧嘩していた。土日もネットサーフィンに費やしているようだった。そんな父親が怖かった。何が楽しくて生きているんだろうと思っていた。何の目的も持たずに生きていて怖くないのかと思っていた。
育ててもらった感謝はあるけど、こんな風にはなりたくない、自分は人生に目的を持って充実した人生を生きていくんだと当時は思っていた。
実家を出て上京し、10年近くが過ぎた。気づけば、生き続けることが恐怖になっていた。
仕事はしてるからお金には困らない。でも、毎日同じことの繰り返し、これから先も同じことの繰り返しという人生にだんだん耐えられなくなってきた。
家族は当然いないし、趣味だって誰かと共有するようなものはなかった。アニメを見たり、音楽を聴いたり、たまに絵を描いてみるけど、ただ苦しい現実から目をそらす鎮痛剤以上の役割は果たさなくなっていた。
運動は好きだから社会人サークルにも参加した。体を動かしている間は気が紛れるしそこそこ楽しいけど、元々仲のいい集団の中にいるのは苦痛だ。なんとなく話を合わせるけど、興味のない話題についていくほどしんどいことはない。みんな充実した人生の出来事を自慢するように話すし、価値観も合わない。
サークルで旅行に行くことになったけど、気が重くて仕方がない。体を動かして気を紛らわせればそれでよかったのに、集団に属することはどうしてこうも濃密な人間関係とセットでやってくるのだろう。
あれほど受け入れ難かった父の生き方を理解できるようになってしまった自分に愕然とした。
誰かと関われば価値観の違いに傷つく。一人で何かをしようとしても虚しいだけ。きっと自分はパートナーを持っても傷つけてしまうという確信さえあった。
ただ、父と母は離婚することもなかったし子供たちが大人になるまでちゃんと育てた。家庭という重しは時として生きる希望になるのかもしれない。
自分はきっと無理だ。誰かと生きることさえ受け入れられない。この世に何も残さず、誰とも交わらず、一人で消えていきたいと何年も、何年も呟き続けながら、ある日そっと朽ち果てるのだろう。
ネットサーフィンが趣味で、ネット上で友人を作って交流してるんやろ