2021-09-19

経験に基づいた今の気持ち

今の気持ち小説っぽく残したもの

イシュタム

 彼女は突然現れた。それは夜だったか、朝だったか、八月の太陽にジリジリと焼かれた屋根の下で汗を流しながら自身が乗る電車を待っていた時だったか、はたまた寝苦しい夜に一度起き、エアコンをつけて再び暗闇に包まれて目を閉じた先に広がった曖昧世界でだったかからない。

「イシュタム?」

 彼女自身の名をイシュタムと言った。

楽園か、私そういうの信じてないんだよね」

 彼女は私に楽園の話をした。それはキリスト教とかでいう天国みたいなものことなのだろうと私は大雑把に解釈した。

 彼女はさまざまなところに現れた。現れた、というよりは私に着いてきたと言った方が正しいかもしれない。とにかくどこにでも現れる彼女は、私が朝仕事に向かうために家を出る時最後に見る鏡の中や電車の窓、パソコンの中、飲みかけのアイスコーヒーの氷が溶けた水面にも現れた。

「しつこいな。楽園なんて興味ないってば」

 私が彼女に強く言っても、彼女はただ私のそばに居続けた。

 しかし、何日経っても、何週間経っても彼女は私の前から消えることはなかった。ついに私も諦めて彼女存在無視し始めた。

『俺の誕生日に来てくれなかったの結構しかったんだけど』

 彼は私が中途半端に出した手に手を重ねてそう言った。私は目を見開いた。嫌な夢を見たと目を擦って、身体を起き上がらせる。彼の言葉を未だに覚えている自分に寒気がした。コップに麦茶を注いで一気に飲み干す。口内に収まりきらない麦茶が顎を伝ってTシャツを濡らした。

 彼は同じ手で私の身体に手を這わせ、同じ口で『二、三回ヤったくらいで調子乗るなっていうか…』と言ったのだ。

 コップの底に溜まる麦茶に映る彼女と目が合ったような気がするが、私はすぐにコップを流しに置き、顔を洗いに洗面所へ向かった。顔を洗っている間中彼女は私の背後に立っていたが彼女も何も言わず、私も何も言わなかった。

 あの時は私も精神的にかなり状態が悪く、誰かに受け入れてもらえなければ立っていられないような気さえしていた。だからあの時の私は正直に言えば誰でもよかった。それを見透かされていたのかもしれないし、彼もそうだったのかもしれない。あの時の私は彼を心の底から信用できず、信用できる根拠必死になって探してはそれを盲信することに必死だった。

 私は洗面台を後にして、机の上に鏡を立ててメイク道具を取り出して並べた。私が順番にメイクしている間中彼女はずっとそれを見ていた。

「私が愚かだったんだよね。人を道具みたいにしようとしたんだ」

『でも彼らは愛のない特別な結びつきについて肯定的なはずです』

「どうして彼らはそんなことができるんだろうね。私には罪悪感しかないよ」

 私にとって彼は、私に大きな影響を与えた四人目の人物だった。

 そのうちの一人、順番的には三人目の男は、初めて会ったその日の夜に彼の深くに踏み込んでそれから二度と会わなかった。

『後悔していますか?』

「うん。私は人一倍そういうのに敏感であったはずなのに、いざ自分となると全く彼の意思無視してしまったよ」

『あの時のあなたは何も理解していませんでしたね。分かったような口調で論じながら、結局のところ何ひとつとして理解していなかった』

「そうだね。理屈をわかるのと丸ごと全部を理解するのとじゃあ全く違ったよ」

 私はメイク道具をしまって再び洗面台に戻った。ドライヤーを取り出して、絡まるコードを丁寧に解いてからスイッチを入れれば熱風が勢いよく飛び出してくる。

『初めからそうだったわけじゃないでしょう』

「堕ちていくってああいことなんだと思う。だけどそもそも私は人の悪意に鈍感すぎた」

 ドライヤーで髪の毛に熱を通して、乱雑に散らばった髪の毛を櫛で落ち着かせる。

「対等だと思っていたんだよ、そもそも。私のどうでもいい話を聞いてくれた彼が、いや、私にとっては大事な話だったわけだけど。とにかく、私と一緒に多くの時間を使ってくれた彼が、私自身に興味がなかったなんて信じられなかったんだよ」

『初めはあなただって彼を信用してなかったでしょう』

最初どころか、ずっと信用してなかったね」

 これは私の過ちで言う最初の男だ。愚かで、何も分かっていなかった私は、彼と友人であり更には彼が私に好意を持っていると思っていた。今になって思えば、それは仕方なかったのかもしれない。私にとって、私の話をちゃんと聞いてくれた男は彼が初めてだった。

「私は寄りかかれる人が欲しかったんだと思う」

『実際に、彼とあなたが過ごした時間ほとんどはベッドだったじゃないですか』

「そうだね。まさかそのために他のあらゆる時間を使うなんて発想は私にはなかったよ」

 彼が私にもたらした影響は大きかった。彼は、その後のあらゆる過ちの引き金となった。自身の過ちと彼や私の間にあった異常な関係性、その後の私を取り巻く環境が私に与えた悪影響とそれによって疲弊した私の心身の全てをきちんと整理し、理解できたことは奇跡だ。

 その頃だ。私の前に彼女が現れ始めたのは。

 私はストレートアイロンで前髪を巻いて、マスクを耳にかける。唇は荒れるし、マスクで見えないかリップはしない。

 そしてその頃から世界のあらゆる悪意がより一層見えるようになった。私に他人の痛みがわからなかったように、彼らにもやはりわからないのだろうか。その頃はそんなことを考えていた気がする。

 部屋を出て、鍵を閉めてから最寄駅に向かって歩く。自身の影と共に彼女の影が映る。

「本当に世間知らずだった。恵まれすぎていたんだ」

あなた以外の人はそんなこととっくに知っていたのに』

 私はあれからたくさんのことを考えた。私の無知について、彼らの家庭環境が彼らに及ぼした影響、私が感じた罪悪感について、彼らがなぜその罪悪感を感じないのかについて、私の友人が同じような境遇に長く留まりそして傷ついていることについて、YouTube女性向け恋愛アドバイス動画主の男性率、電車にぶら下がる裸同然の女性が映る広告、走る風俗勧誘とその物自体の敷居の低さ、韓国女性アイドルが発信するメッセージ衣装の布面積について、日本の一部の女性アイドルグループが、ある一定の年齢枠で固定され売り出され続けていること、毎日のように流れるセクハラ猥褻に関するニュース強姦犯の芸能界復帰、集団強姦の不起訴、そして殺人事件加害者の大半が男性であり、被害者の大半が女性であること。

 全てはひとつの枠の中で複雑に折り重なり、積み上げられていた。それは私が過ちを犯すずっと前から何度も目にし、耳にしていた結論だった。しかし私は、それをこの時ようやく理解したのだ。

「こんな世界に生きていたのかって思ったよ。何もかもが、私を含む女全体を歓迎していなかった。社会に認められていたのは女体そのものしかなかった」

『それで私を必要としたのですか?』

そうかもしれない。だけど、私には私を愛してくれる家族や友人がいる」

『ならば私は必要ないではありませんか』

彼女らが私を愛してくれているからと言って、私の絶望を共有できるわけではないんだよ」

『話せばいいのではありませんか?』

「それには長い時間がかかるだろうし、私も自分の後悔について言及しなければいけなくなる。今の私にそこまでの勇気は持てない」

 だから私は彼女必要としているのだ。いざと言うときに、全てを彼女に委ねたかった。歴史を知れば知るほど、どの時代においてもどの場所であっても、そして今もさまざまな形で私たちは女体としての価値のみをひたすらに認められ続け、それ以外を否定され続けている。そして宗教ですら私たちを救うに足るものではないのだ。

あなた存在を知ったときは嬉しかった」

 私は今日電車に揺られながら、窓に映る彼女存在に安堵するのだった。

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