【旧体制『映画秘宝』と「女性(を含めた他者)との関係構築」の話】
枕から始めますが、世の中には「勝ち負け」を付けたがり、その基準として「異性との性交渉経験(の有無)」や「性交渉を持った異性の人数(の多寡)」を持ち出したがるタイプの男性が存在します。
某男性お笑い芸人は、過去に「オレのことを批判したり嫌ったりしている人間よりも、オレの方がいっぱい女たちを抱いとるねん!」という主旨のことを著書に書いていました。つまり、これを言うことによって「オレよりも異性との性交渉の経験人数が少ない奴には、オレを批判する資格が無い!」と彼は言いたかったわけです。他にも似たような物言いで「オレを批判する人間は、オレよりも金稼いどるんか?」等も有りましたね。そのように言いながらも、彼とは段違いと言っても過言ではない『才能が有って、しかも興行収入の実績も有る映画監督』のことを「この監督は『映画の基本』が分かってませんねえ」と批判していたのだから面白いものです。5本目の映画は撮らないのでしょうか?
ところで、その某お笑い芸人は、自身が司会を務めていた音楽番組の場で、番組ゲストのミュージシャンたちから以下のような暴露トークをされて、全国放送の電波で流されました。
曰く「後輩芸人たちがセッティングした合コンの場で、その某お笑い芸人が『お持ち帰り』の対象として狙いを定めた合コン参加者の女性を、後輩芸人たちが複数人で囲んで『✕✕さんに抱かれたいと思ってんのやろ?!』『✕✕さんに抱かれたいて言え!』と囃し立てる」(※飲食店で、その某お笑い芸人の合コン現場を目撃したと云う、番組ゲストの男性ミュージシャン)
曰く「劇場で出待ちをする女性ファンたちの間では『中学生ぐらいがストライクゾーン』と云う噂が共有されていたから、自分(=音楽番組のゲスト女性ミュージシャン)も中学生の頃に、その某お笑い芸人からナンパされるのを狙って劇場の出待ちに行った」(※番組ゲストの女性ミュージシャン)
そういえば、その某お笑い芸人の番組に度々ゲスト出演していた梅宮辰夫が、若い頃の話として「狙っている女性がいた時は、自分の所有するプレジャーボートに乗るように誘い、逃げられない沖合の海に連れ出してから性行為に及んだ」と語っていましたね。梅宮辰夫は「面白おかしい話」として語っていたようですが、私は「身の毛もよだつ、おぞましい話」と思いました。
こういう「異性との性交渉経験(の有無)」や「性交渉の人数(の多寡)」を矢鱈と持ち出したり、面白おかしく語りたがり、自慢したがる人間には、警戒した方が良いと思います。それは兎も角。
この手の男性は「『経験人数』や『経験場所』や『風俗店で遊んだ話』などを自慢したがる一方で『紳士的な方法で異性と距離を縮めていった過程』を話さない/話せない」と云う特徴があります。
彼らが何故それを話さない/話せないのかを考えるに、彼らが「女性と『対等な関係』の下で『一対一で向き合う』ことを怖れている/避けている」もしくは「女性と対等な関係になることは『男としての恥/屈辱』である」と云う考えの持ち主であることが理由ではなかろうかと、私は推測しています。おそらく「上下関係」や「力関係」が介在しない場では、彼らは自力で女性を口説くことも満足にできないのではないでしょうか?相手が「弁えない女性」の場合には特に。
はてな匿名ダイアリーに引用するために『ファビュラス・バーカー・ボーイズの映画欠席裁判』その他を読み返し始めたところ、町山智浩らが話す「女性に関する話題」に関する『或ること』に改めて気づきました。
曰く「高橋ヨシキが『自分の女性パートナーの胸を揉んでいい』と言うから、揉ませてもらってキスもした」
曰く「女性から聞かされた話を(聞かされたことも忘れて)、その女性当人に対して上から目線で教えようとした」
曰く「どこそこの風俗店が云々」
曰く「誰それのオコボレを目当てに、後から着いて行って云々」etc.
このように、町山智浩らの周囲から出る「女性に関する話題」には「『対等な関係』として『一対一』で女性と向き合った話」が乏しいことに気づきます。聞かれてもいないのに、わざわざ自分の方から「女性に関する話題」を持ち出しているのにも関わらず、明らかに乏しいのです。「奥さんが転がり込んで来た」という話も、要するに「棚ボタ」なのであって、決して「自ら主体的・能動的に動いた話」ではないことにも注目して下さい。
おそらく、町山智浩ら自身にも「自分たちは『きちんと一対一で対等に女性と向き合った』と云う経験に乏しい」という自覚と、それに伴う「劣等感」が有るのではないでしょうか。そのことが、目下の者や読者に対して頻りに「オレたち『大人の男』ってのはさあ」という『説教』をかまそうとする町山智浩らの動機になったように思えます。
しかし、いくら説教をかまそうとしたところで「経験していないこと」や「体現できていないこと」を語るのは土台不可能なわけですから、いずれどこかで無理が生じます。
一時期の町山智浩は、頻りに「恋愛論」を語っていました。あれだけ『ファビュラス・バーカー・ボーイズの映画欠席裁判』等で自ら何度も「若い頃はモテなかった!モテなかった!」と書いていたのに「今さら正気か?」と私は感じたものです。それでも町山智浩は、自分に都合が良いように捏造/美化した記憶を語って流布させることで「過去を上書き改変すること」が出来ると考えていたのでしょう。
しかし、某地方映画祭関係者などから情報が漏れ出した途端、町山智浩は「恋愛論」を語るのを止めたようです。おそらく、自分の実像を知る人間から情報を暴露をされたら、薄っぺらい「恋愛論」による目眩ましなど一溜まりもないことを理解したからだと考えられます。
例の騒動の時には「女性から教えてもらったことを、その女性に教えようとする『マンスプレイニング』の気質の持ち主である」ことをも示唆されていましたが、このマンスプレイニング気質も、根本に「女性(を含めた他者)との『対等な関係』に堪えられない」という気持ちが有ることの顕れだと思います。
この「女性(を含めた他者)との『対等な関係』を構築することができないのではないか?」という疑いは、高橋ヨシキ、てらさわホークについても同様に向けることができます。
現在の高橋ヨシキ、てらさわホークは、自分たちよりも年齢の若い女性アメコミ翻訳家やヒップホップミュージシャン等とばかりつるんで配信に勤しんだり、あるいは、自分たちよりも知識が乏しい人間が集う『共感シアター』など「上から安心してマンスプレイニングすることができる場」に閉じ籠もってばかりいますが、これは何故でしょうか?
私はこれも、結局は彼らが「女性(を含めた他者)との『対等な関係』に堪えられない」ことの顕れだと推測しています。
対等な関係に堪えられないから、自分の理解できないコンテンツ/ジャンルを自分の女性パートナーが楽しむ姿に我慢ならず、その価値観を否定したり、馬鹿呼ばわりしたりするのです。
そんな高橋ヨシキの著作『悪魔が憐れむ歌――暗黒映画入門』が、ちくま文庫から目出度く再刊されました。同書に田野辺尚人が寄せた解説を読むと、高橋ヨシキは「魂の自由を重んじている人間」とのことです。
そんな「魂の自由を重んじている」人間が、自分の女性パートナーの肉体を町山智浩に献上したところを見ると、高橋ヨシキは「女性には魂が無い。したがって、女性の魂には自由が無い」と考えていると見ても、さほど間違いではなさそうです。
よかったら皆さんも一度、高橋ヨシキの本を読んでみて下さい。
長くなったので、とりあえず今回はここまでにします。
ヘイル・サタン!
そういえば、いっときいろんなところに連れまわしてた愛人って、どういうツテでコマせたんでしょうかね非モテな町山さんが。
まだやってんの?