2021-03-19

坂口

そのころ私は伊東温泉に住んでいた。伊東には川奈日本一ゴルフ場がある。もっとも、当時は占領軍接収されていて、日本人は立入ることができなかった。

 私の住居からメートルぐらいのところに尾崎士郎さんが住んでた。士郎さんのところへ出入りする人で、彼の小説の中でカチンスキーとよばれて登場する怪人物がいる。カチンスキーといっても先祖代々の日本人であるが、ゴルフ界で顔の売れた世話人である。私がゴルフ道具を手に入れたときいて、やってきて、

川奈ゴルフに行きましょう」

 と誘う。

「あそこは日本人が行けないのでしょう」

普通はそうですが、ボクと一しょなら行けるんです。進駐軍川奈接収したとき司令官に頼まれて、いわれた数だけのゴルフ用具をそろえてやったんです。お礼に何をやろうかといわれたときに、ボクとボクの友だちにゴルフをさせろといってみたんです。よろしい、ではお前とその他七人のお前の友だちはゴルフをしてよろしいということになったんです。七人の名前を書きだしてきましたが、要するに一度に七人以内ならだれでもいいんですよ」

「それは、ありがたいね。じゃア、あなたゴルフを教えてもらおう」

「ぼくはゴルフをやらないんです。ぼくはゴルフの道具を銀行会社へ売りこんだり、ゴルフ場工事請負ったりしてたでしょう。ボクがヘタでなってないフォームバカな振り方をやるとお客がよろこんで、つまり商売のコツだから、ボクは昔からゴルフやらんです。ハハ」

 怪人物言辞はモーローとして心もとないから、私は士郎さんをたずねて、きいた。

カチンスキー氏が川奈ゴルフ場へ出入できるというのは本当ですかね」

「それは本当だ。とても顔がきくんだ。司令官がでてきて、食堂へ案内してコーヒーをのませるぐらい顔がきくよ」

「オレは英語がしゃべれないから、そう顔がきいてもこまるな」

「イヤ、キミはこまらんよ。司令官食堂へつれて行くのはカチンスキーだけだ。先日カチンスキーの会社社長が彼の案内で川奈へ行ったが司令官カチンスキーだけ食堂へつれて行ってコーヒーをのませてくれて、カチンスキーは二時間ぐらいコーヒーのんでたそうだ。社長はその間、吹きさらしのゴルフ場へ放ッぽりだされていたそうだよ。キミも食堂へ案内される心配はない」

カチンスキー氏は英語が達者なのかね」

「イヤ。全然できないが、二時間でも半日でも持つそうだ」

 妙な人物がいるものだ。カチンスキー氏の社長ゴルフを知ってるだろうから、吹きさらしの中で二時間放ッぽりだされても持つかも知れんが全然ゴルフを知らない私はカゼをひくだけの話である

 こういう次第で、日本一ゴルフ場で人のできない練習の機会には恵まれていたが、私は怖れをなして行かなかったのである

 一九五二年二月二十九日というハンパな日に、私は群馬県桐生市という赤城山麓の織物都市引っ越した。

 私は引っ越しくるまで知らなかったが、そこは書上文左衛門という桐生一の旧家で桐生一の富豪母屋であった。せまい部屋が一ツもない。どの部屋からも一陣の突風が吹き起りそうな広さがあった。

 ここを探してくれたのは作家南川である潤さんはこの母屋に人が住んでいないことを知っていたが、まさか人に貸すとは思わずに、念のため訊いてもらったのだそうだ。すると意外にも実にアッサリ貸してくれたのだそうで、私も引っ越してみて、貸すのが当り前だと思った。

 誰かが住んでいなければ、夜な夜な怪風吹き起り、日中といえども台所や座敷などにツムジ風などが起り、ネズミその他のジャングルとなるであろう。かと云って、タダモノの住みこなせる家ではない。第一当家の人々が奥の方に然るべき住み心持よき家をつくって移住しているほどだ。トラック一台の荷物なぞは、片隅のゴミのようでしかない。

 どうしたら人間が住めるであろうかと皆々が思案投首というところへ、文左衛門さんがやってきて、

山寺のようでしょう」

 と云う。まさしくその通りだから

「まったく、そうです」

「御挨拶ですね。オヤあなたゴルフをおやりですね」

「やりません」

「道具があるじゃありませんか」

 私は返事をしなかった。ゴルフの道具はある。たしかであるしかし、ゴルフは知らない。たしかである。そのナゼであるかは、何年前かに文六さんのウィスキーの肴にされたテンマツから話をしないと、誰にもわかってもらえない。そして、そのテンマツを語るにはハナシ家が高座で一席うかがうぐらいのイキサツがあって、途中できりあげることも、途中から切りだすこともできない。要するに、返答しない方が無難なのである

 しかし、文左衛門さんはイサイかまわず「私のウチの裏庭にゴルフ練習場があります戦前に造ったもので、いたんでいますが、練習に差支えはありませんから、御自由にお使いなさい」

 言いのこしてさッさと行ってしまった。文左衛門さんはその後私の顔を見るたびに裏庭の練習場を使いなさいとすすめるが、私はかりそめにもゴルフクラブを手にとらなかった。それは文六教祖の訓戒をケンケンフクヨウしているからで、はじめにはプロについて正しいフォームを習いなさい、この一ヶ条だけは守りなさいという。だいたい教祖言辞学校先生大臣長官の訓辞よりもなぜ信仰されるかというに、たいがい教祖の訓戒は一ヶ条ぐらいしかない。ここが教祖の自信マンマンたるところで、また実力あるところである大臣先生もの訓辞はとてもこうはいかない。

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