30歳で人生に飽きた増田の言う通り、自分のような凡人がお絵描きやスポーツや料理や技術やらを極めようとしてみたところで、クオリティや評価・名声といった絶対値の上ではほとんどの確率でトッププロに及ばないわけで、つまりプロの引いた道を後からなぞって疑似体験してるだけの消費者って気がしてくる。
一方で、例えばよく消費と言われがちなアニメ鑑賞でも視聴を通して自分の世界を広げてフンフンと頭をひねりニヤニヤできていればそれなりに創造的な気もする。
自分を例に挙げると登山になるだろうか。自分の場合、正直言って無雪期に登山道を通って山頂を目指すだけの登山は比較的楽しくない場合が増えてしまった。あまりに開拓・確立された山は他人の跡をなぞっているだけのような気分になって、あえて自分がそれをやる意味を見出せなくなり、それに伴ってやる気も楽しさも減ってしまうような気がする、という具合だ。
自分も含め、山にある程度ハマった人は一定数おおよそこのようなことを感じるようで、より高度な登山を目指したり、気候や地質や植生に注目したり、速さに拘ってみたり……。自分の場合は少人数のパーティで他人のいない眺望の良い場所をだらだら歩くのが好きでよくやっている(つまり登攀や冬季の登山が多くなるのだが)。
多分、これらは何かへのマウントのためにやっている人ばかりではない(全員山へマウントしているが)。いずれの場合も、あえてそれをやる意味と、その意味に伴って増える楽しさを求めてそうした道を選んでいるような気がする。もちろん登山にも素晴らしいプロはたくさんいるし、技術的な意味では到底及ばないが、自分の立てた計画でその日その気象条件でその場の景色を楽しんでいる自分だけ、みたいな理屈で、なんだか楽しい気分になれるのだ。「オリジナリティ」「自分だけの何か」と言ってしまうと酷く陳腐に聞こえるが、消費 <-> 創作の間に限らず、そうした自分を納得させる、言い換えると自分の脳を騙せるようなラインを自分自身に問い続けて見極めることって、けっこう大事だけど多くの人の間ではあまり重視されてない気がするな、みたいなことを考えてた。