大人になって母親の手料理に対して、時々、「あんまり美味しくないな」という感想を持つようになってしまった
自分の味覚に合った料理を自分で作ったり、美味しい店の美味しい料理を食べたりするようになり、それと比べると母親が作るものはお粗末なものになってしまった
俺はもうそろそろ三十路を迎えるが、今までくじが当たったことがほぼない。
宝くじ、ガラポン、懸賞、その他もろもろ、応募したやつは全部外れている。
たまに「なんか、今日は当たる予感がする…!!!」的な直感があるのだが、当たったことは一度もない。
小学生のころ、ビンゴ大会で2回か3回、欲しくもない5等賞が当たったことがあるだけだ。
そんな俺だが、人との出会いに関しては運がいい。
なんていうのかな、毎度毎度自分が必要としている人がこれ以上ないタイミングで現れてくれる。
人生に挫折し途方に暮れてて、しばらく誰にも会わずにすむ空間で孤独に過ごしたいと思っていたころ、
人里離れた山の中にアトリエを持っている芸術家が「ここに住んだらいい」とアトリエに住まわしてくれた。
数年後自分は山を欲しくなったのだが、山を買うっていってもそうそういい条件の山はない。
道に隣接してるとか、平地があるとか、そういう条件が加わると、100万以上になる。
自分は金がないから、どうしようと思っていたら、たまたま知り合った人が「いっしょに林業やろうや」って言って、
その人がいろいろ動いてくれて条件のいい山が手に入った。
よく運には総量があるとか言われるけど、量だけでなく質?みたいなものもあるんかもしれんな、という話。
好きに生きるがよい
なんか例のナチ肯定?小論文の話とか見てて思うけど、ナチ肯定論で持ち出されがちなのはアウトバーンを評価するというものだと言われている印象がある。
勿論、アウトバーンがいかに良いものであっても、その根底にはナチのあってはならない思想があるわけで、
アウトバーンが良いものであることを根拠にナチを肯定するのはあってはならないと反論されている。自分も当然そう思う。
しかし、こういう議論には疑問がある。そもそもアウトバーンって、自明に肯定されて然るべきものなのかと。
現代日本では高速道路ばっかり作りすぎ、そのせいで公共交通が衰退した、云々と高速道路の整備はそこまで全肯定されてない気がする。
なぜアウトバーンだと、とりあえず高速道路が望ましいものであることは前提な意見が多いのかよくわからない。
政権の思想と関係なく、交通論としてアウトバーンを批判するということは無いのだろうか。
勿論、自分は歴史学に詳しいわけではないし、そういう方向からのアウトバーン批判は駄目だとすでに実証されてたりするのかもしれないが
ナチ思想は当然悪いし、その思想の上に成り立っている施策なのだから、それぞの施策も全否定されるべきものだが、
だからといって施策に対して、思想以外での批判が無くて良いわけではないと思うのだが、この点詳しい人はどう考えているのだろうか。
猫の感情を理解するには猫そのものを知性をあたえ安全な関係をつくった上で腹を割った会話をしていかなければならない
ロックは今や上級市民のご家庭のインテリお坊ちゃまお嬢様が聴くものだからな
法的な親子鑑定結果には納得できんやろ
毎回毎回何か作る度に「もう創作やめよっかな・・・」って言うヤツくっそめんどくさ
やめないでください!みたいなコメント来ると「フォロワーさんのおかげで創作できてます!」とかテンプレで元気になるのもクソめんどくさ
いやいいんだよ。別に評価や反応や交流を求めて趣味を行うのが悪いとは言わない。
でも毎回毎回「もうやめたい」みたいな事言ってんの見るとやめれば?としか思わない。なんのためにやってんの?まぁ賞賛だろうけど。
私が何か喋ったり作ったりするたびに場合によってはパクりって叩かれそうなぐらい類似の物体作ってくるのはなんなんだ。まぁ反応してほしいんだろうけど。
なんか普通にそういう意図が透けて腹立つから放置してると「どうして駄目なんだろう…。」「やっぱり落ち込んじゃうな…。」みたいなツイートが並ぶ。
言動も作品もな~んかズレてて気持ち悪い。まぁスタンスの違いと言えばそれまでなんだけど何故かそれを全然理解してくれない。しつこい。
もうやめたい・・・なみだとまらない・・・。→やめないでください!→あなたのおかげでやめずにいられます! の繰り返しを100回ぐらい見ていい加減気分悪くなったのでブロックした。