2021-02-03

研究者の手技や実験技術について(社会学場合

学者研究者が明確にどう違うのかはよく分からんが、たとえば外科医なんてもの学問的な論文評価とは別に外科手術の腕前で評価されることはあるだろう。もちろん、自分のやった難しい手術について論文を書いたりもするのだろうが、やはり難しい手術をしたということ自体評価されるのではないか

そして、どうも理系でも手技というもの評価されるようで、今では自動的実験をする装置も多いが、やはり最先端の分野では機械がすべて自動的にやってくれるというわけにはいかないだろう。そうすると、例えば遺伝子工学にしても難しい遺伝子操作をうまくやれる研究者というもの評価されるはずである。難しいことをやるから、他の人に出せない結果を出せて、それが論文になるという見方もできるが、手技自体評価されるのではないか

そうすると社会実装かいものについても、どんなやり方であれ、社会を変えるという結果を出す能力学問とは別に評価されるだろう。そして、その能力評価されるということは、そのやり方が肯定されるということである

こういう優れた手技をゴッドハンドというらしい。しかし、どんな実験手法も許されるという訳でもない。動物実験動物倫理適用されるならば、人間社会に対する実験には人間倫理適用されるべきであろう。という考え方をする社会学者も一部には存在するかも知れない。

すると今問題となっているのは、社会学という分野の社会実装という方法についての方法論であろう。

仮説A:社会学においてはいかなる社会実装方法も許され、結果的社会を変えることが出来れば、その手段は問わない。

仮説B:社会学に追いても社会実装方法には制限がされるべきであり、社会実装方法が適切でなければ、その社会実装を試みたものだけでなく、社会自体が滅亡してしまう。

この二つの仮説に基づいて、仮説Aを実証するための社会実験と、仮説Bを実証するための社会実験が同時に進行中なのである

これは純粋社会学的な研究であって、感情的批判を避けて、どちらがの仮説が正しいのか、この実験の結果を見守るべきだろう。

仮説Aが正しいとすると、社会学の分野においては今後もこの社会実装手法が広く採用されることになるだろうし、仮説Bが正しいとすると社会学は消滅するだろう。

もちろん、どちらの仮説も間違っているという可能性もある。しかし、両方の仮説が正しいということはないはずである

我々はこの純粋学問的な実験の結果を客観的に見守ろうではないか

記事への反応(ブックマークコメント)

ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん