自分が十五歳だった時に、この道徳の教科書についての授業が行われたんだけど、その時こんな課題が付された。「この物語の続きを書きなさい」
元々この挿話「カーテンの向こう」はヤコブという名前のヘブライ系の男が主人公の話らしいんだけど、授業で提示されたのは現代日本にローカライズされたバージョンだった。しかも、「ナースコールを押せる状況下で押さない」というひと押しが追加されていた。
「物語の続き」と聞かれた時に、自分の中でその続きは完全に決まっていて、つまり、「窓際のベッドを譲られた男もまた、他の患者たちに優しい嘘をつき続ける」というものだった。これは一つの典型的な答えではあったのだけれど、この答えを提出した時に、当時の担当教師が我が意を得たりとばかりに頷いていたのを覚えている。
トラバに従って「カーテンの向こう 指導案」で検索してみたところ、指導の方向性についての示唆がPDF形式で大量に表示されることとなった。しかし、これらを見るにつけ違和感が膨らんでいくことしきりであった。「人間愛を育む」「思いやりの心を育む」。授業の方針として並べられている言葉――この物語の教訓は「人間愛」なのか? 「思いやり」なのか? と。
嘘をつく窓際の男、その窓際の男と成り代わる別の男、そして見えてくるうらぶれた壁。
この物語を読んで、「いやー、人間愛って素晴らしいですねー」などと感想を宣う人間がいたら自分は「なにいってだこいつ」と思うだろう。どうにも、物語の主旨と、そこから導かれる教訓との間に大きなズレがあるように思えてならないのである。
苦しむ窓際の男を放置する男、嘘をつく窓際の男、現れる灰色の壁。そして、嘘をつくことでしか表現できなかった優しさ。
あるいは、窓際の男は、自分がこの世から去った後に行われる営みを全て熟知していたのかもしれない。自分の代わりに窓際のベッドを譲られた男が、一体何を口にするのか、それを意識しなかったということはないだろう。つまり、彼がついていた嘘が全て優しさから成っていたかと問われればそこには疑問があるということだ。また、この窓際の男もまた、これより以前に別の男から窓際のベッドを譲られている可能性もある。そう考えた時、物語の筋は錯綜し、その中に優しさと悪意によってあざなえる一つの輪が浮かび上がってくることになる。そこにあるのは縄ではなく、優しさと嘘と悪意によって紡がれた一つの輪なのだ。
入院してる二人の男の話あったじゃん 二人とも不治の病かなんかでまともに体も動かせない。 一方の男は共同病室の窓際のベッドを使ってて、季節が巡る度に窓から見える風景を...
anond:20201204140145 文学というものは悪意を前提に描かれる場合もある。 自分が十五歳だった時に、この道徳の教科書についての授業が行われたんだけど、その時こんな課題が付された...
「カーテンの向こう」でググったら指導案がいっぱい出てきたけどPDFだから開きたくない
今PDF見たんだけどなんつーか違和感しか無かったわ
教訓は嘘をつくなっことかな
うーん
俺は今でもこの話が教科書に載ってていいと思うけど、 今だとふとした瞬間にツイッターで炎上しそうな話だな ???「こんな嘘つきの話を道徳の教科書に載せるな!誠実な嘘なら...
お前さんのその発言も大分ポリティカルではあるw
唐突に女の話に持っていくのおもろいw言いそう