今年50歳になった。
自分のセクシャリティがAセクシャルであると自認してから、ほぼ20年が過ぎた。
自認はしたものの、Aセクシャルを名乗る事に迷いがあったのも事実である。
それは「もしかしたら、いつか誰かに性愛を向けることが有るかもしれない」という可能性を感じていたからだ。
しかし、結局のところ私は誰にも、どのセクシャリティにもどのジェンダーにも、性愛を向けることが出来なかった。
愛情を抱く事は有っても。
性嫌悪ではないので、行為をしようと思えば出来ないことは無かったが、私はそれを拒んだ。
その気が無いのにすることが、なんだか不誠実な気がして…
過去の幾度かの経験で気持ちの伴わないセックスは相手にもその「気持ちの無さ」が伝わってしまう事も判っていたし。
その「気持ちの無さ」は私にとっては「拒絶」では無かったが、そう捉えられてしまう事が多かった。というより殆どだった。
多くの人にとっては性愛や恋愛感情を含まない愛情は、家族や友人間に向けられるものでしかないという感覚だから当然のことである。
「友達以上にはなれないんだね」という意味合いの言葉と共に「僕が(私が)〇〇だから?」と、その人の属性(セクシャリティや人種、社会的な立場等)であるが故に拒絶された、その属性を否定されたと思わせてしまったような言葉が発せられる度に、自分自身の無力さを痛感した。
「私が相手に抱く愛情を、(多くの)人は『愛』とは呼ばないのだ」という事は解っていたが、どうにかして伝えたかった。
その人を本当に愛していると。
「身体の関係に応える事が出来なくても、私に出来る事ならあなたの望みを叶えたいし、力になりたいし、あなたを幸せにしたい」と。
「私にとってあなたの存在そのものがとても尊くて愛しくて、私を凄く幸せにしてくれる最高に素敵な人だ」ということを。
「行為の拒否は、あなたという人格や属性への否定ではない。あなたは何も悪くない」ということを。
でも、それは出来なかった。それは私の力不足の所為。(エゴイスティックな性格も関係してるかも知れないが)
私がもっと成熟した人間で、私の発話に説得力があったなら、少しは伝わったかもしれない。
その人達にもう会う事はないと思うけど、今でも私は伝えたい。