でも例えば著しい精神的苦痛によってうつ病などを発祥させた場合、傷害罪が成立する場合もあるよね。(パワハラやストーカーなどでよくあるケース。)
ここで言う「精神的苦痛」と「不快にさせる」は全く別の概念なのよ。程度の問題とかじゃなくて、概念から違う。これは「怪我をさせる」のと「痛みを与える」のが違うのと似ている。
この意味での「精神的苦痛」を与える「表現」は、どうやら憲法学的には「表現とは見なされない」というのが定説らしい。(自分もにわかだから最近知ったし、上記のような説明はツッコミどころだらけだろうけど。言われてみれば「人を殴るのも表現だ」は通用しないよね。)
「精神的苦痛」による傷害の他には、名誉毀損とかも具体的な罪状なので、これもまた「不快にさせる」表現とは概念から異なるんだよね。
えっちな表現についてはまず立法的な議論も必要だとは思うけど。とりあえず人を「不快にさせる」表現というのは、はすみとしこみたいな「ヘイト」表現とは概念からして異なるのよ。
こういうことを言うと「えっちな表現でPTSDを発症する性暴力サバイバーもいるから、えっちな表現は許されない」みたいなことを言い出す人も出てきそうだけど、それは全然違うよね。どんな表現にもそれによってPTSDを発症する人は存在するので、その理屈を認めるとこの世に許される表現は無くなってしまう。
そもそも「えっちな表現を見てPTSDを発症した」という現象において、「えっちな表現」は原因であっても責任はないよね。これは事件と事故が違うのと同じ。ただまあ、「車が歩道を走っていて、誤って人をはねた」となれば責任の大きさはまた変わってくるが、それは表現で言えばゾーニングの議論になるだろうね。(「徹底的に隠せ」という主張も、「どんどん表に出せ」という主張も、どちらも極端すぎる。ゾーニングは「するかしないか」ではなく、「どのようにあるべきか」という話。)
また車と言っても三輪車とぶつかった程度で大騒ぎするのもアレだが、その辺の程度問題を語ろうとするとセクシュアリティ議論が必要になって論点が大きくズレるのでこの辺で終了。