今の若い人々には全く想像がつかないかもしれないが、30年くらい前になると、道端のそこイラ中にゴミが捨てられていた。雑誌やペットボトルなんか車の窓からポイポイ捨てる人たちがいた。おもむろに車を止めて道路に灰皿の中をザバッと開けて立ち去る人もいた。
もう10年位遡ると、通勤ラッシュの地下鉄の中でタバコを吸う人がいた。窓も開けられない地下鉄の社内は煙草の煙が充満していた。
今、ポイ捨てする人たちや電車の中でタバコを吸う人はいるだろうか?いるにはいるが、絶滅危惧種だし、それはだめなことだと社会的なコンセンサスが取れている。
日本ではタバコは男が吸うものだったし、ゴミをポイポイ捨てるのも男性が多かった。道端になんの躊躇もなくゴミを捨てることはどこか男らしい、という認識があったように思う。
タバコで言えば、女性は煙を吸わされる、臭くなる、服を焦がされる、というやはり被害者な立場であることが多かったし、子供の目にタバコの火が入って失明したなんていう事故を知っている人もいただろう。
こういう問題について当時のやっていた人々(主に男性なんだが)「ルールとか関係ないわ、俺はやるわ」っていう人とか「いやいや、タバコとか取り上げようっツーの?人権侵害だろ?」とか「ゴミ持ち歩くのってうっとおしいし、ポイ捨ての何が問題なの?」とかそういう人はわんさかいたのだが、今ではポイ捨てする人もほとんどいないし、タバコは喫煙所で吸うことが守られている。
ポイ捨て問題については「汚くて嫌だからやめてほしい」という意見はあったし、タバコについても「臭くて嫌だ」という意見はあった。たが、ここは論点にならなかった。というよりもちょっと後に出てきた論点だったと思う。そもそもそういう人々は多かったのだが、これらの問題に対応するときの最初の論点ではなかった、とでも言ったほうがいいだろうか。
タバコをそこいら中で吸うことの危険性や健康に対する問題というのが啓蒙されていたし、ゴミを捨てることについても環境問題何かと絡めていたと思う。つまり、物理的で客観的に確認できることを問題にしていた。なので、メディアも動きやすかったように思う。
これらの問題はつまるところ
物理的で客観的に証明できそうな問題(戦いに持ち出した論点)+感情的で主観的な問題(もっと本質的な論点)
の合計だった。
物理的で客観的に証明できそうな問題(戦いに持ち出した論点)+感情的で主観的な問題(もっと本質的な論点)
こちらの式の前半、戦いに持ち出せるカードが少ないのだ。まず、色っぽい写真や萌キャラのメディアを公の場に張り出すことの物理的な問題ってなんだろう、と思うと、なかなか見つからない。主観的な問題はわんさか出てくる。
「環境型セクハラだ!」とか「性的搾取だ!」と言ったところで「お前の感情論にそれっぽい理屈つけただけだろ」と言われてしまうのだ。当然ひどい嫌悪感を持つ人々はいて、私は彼らにも慮る必要はあると思っている。もうちょっと言うならば、もっと適切な表現ややり方は模索すべきじゃないのかと思う。だって、これは差別問題だから。
海外でもこういったアウトプットを問題にするのは昔はやった。レースクイーンは性的搾取だとかその手のやつで、このときも「いや、これ私がプロとして自分で選択してやってるんですけど、私はこの仕事に誇りを感じている」とか「アンチのせいで私は職を失ってしまった、これからどうやって生きていけばいいのよ」と同性からも反発を食らっていたのは覚えている。
海外ではこういったアウトプットを直接的にぶん殴るよりは、教育を変えていくようにシフトしたように感じている。そして環境型セクハラと言っていいようなメディアは姿を消した。色っぽい表紙の雑誌は未だに公然と売られているが。
フランスではポルノ雑誌がそこかしこで売られているというのは「男女ともにそれがもはや環境型セクハラとして感じられなくなった」または「特定の人にはそれは未だに環境型セクハラだが、誰も同意できなくなった」ということでもあるだろう。
タバコもポイ捨ても社会的なコンセンサスが取れたことで新しい問題を生み出した。それは当初の反対派が想定しなかった方向に転がった、ということでもある。海外でも同じだろう。おそらくフランスでは今でもキオスクでエロ本売るなっていう人々はいるだろうけど、今の時点ではおそらく男女ともに「え、なんで?」ってなるようにアップデートされてしまっている。だが、それでもいいようには思う、何故か。
海外のフェミニズムたちの活動における最も重要な成果は「誰が言ったかにかかわらずそれは議論に値するトピックだ」と誰もが考えるようになったことだと思うからだ。そしてそこには教育が重要であると言ってもいい。そしてこのトピックは「性教育」の一項目だったりもする。子どもたちが目にする最初の多様性は男女や人種だからかもしれない、単純で理解しやすいからかもしれない。
なので、日本のフェミニストたちは海外の性教育を一度見てみることをおすすめすするし、そういう書籍を発行したりしてもいいかもしれない。