「あのね、私、結婚することになるかもしれないの」
どこにでもあるようなチェーンの居酒屋で僕の正面に座っている彼女は珍しく静かな口調でそう言った。
後ろのおっさんの声がうるさいなとか、煙草の煙が邪魔だとか、東京で食う刺身って何でこんなに不味いんだろうとか。
数瞬の間に色々なことが頭の中でぐるぐる浮かんで、最終的にどうして彼女はそれを他人事のように話すんだろうという疑問に着陸した。
しばしの思索。浮かんだ解答は”試されている”。
おそらく彼女には期待する答えがあって、それを求めて僕を試しているのだと。
「そうなんだ」
「うん」
「良かったね。おめでとう」
困惑を悟られないよう無理に作った笑顔、の失敗作。そんな感じの表情。
もしかしたら笑顔の下に隠したものは落胆だったのかもしれないが、彼女が求めている本当の答えが分からない以上僕にはどうもしようがない。
目の前のたいして美味しくもなさそうな焼き鳥の串に手を伸ばしつつそんなことを思った。
片手で足りる程度の友達しかいない僕の、たった一人の異性の友人。
知り合って10年ぐらいになるが、見た目も性格もほとんど変わらないように見える。
大人げなくてわがままで無駄に明るく、話をするのも聞くのも上手い普通の女性だ。
彼女には付き合って数年になる恋人がいることも知っていた。なのにこうやって二人だけで食事に来ている。
不自然と言えば不自然だし、彼女の恋人に対する罪悪感も少々ある。
だが、自分の方が古い付き合いだし、彼女はちゃんと恋人に断ってきていると言う。
先に言っておくが、彼女とは何も無い。今までも、そしてこれからも。
それなりに長い付き合いだが、1年に数度こうして食事をするだけの関係だ。
互いの家も知らないし、一緒に夜を過ごしたこともない。そもそも触れたことがない。
それ以前に僕は女性が少々苦手だ。多分、これは母親の影響だと思うけど。
アルコール分解酵素を持っていないくせに彼女は酒好きだ。ほとんど飲めないのでいつも半分以上残してしまう。
いつもより飲むペースが速いと感じたのは気のせいだろうか。
「君さぁ、私が結婚したらこうやってご飯食べに行ってくれる?」
明らかに酔っぱらっている。すぐ顔が赤くなるから分かりやすいのだ。
店員が厨房に向かったのを確認して彼女に向き直ると、露骨な不機嫌顔。
でも僕の答えを待つかのごとく黙ったまま。いつもの彼女らしくない。普段は立て板に水のように喋る人なのに。
内心ため息をつきながら、常識的な回答を口にする。
「それはダメだろ」
「何で?」
「何でって、例え食事だとしても既婚の異性と二人きりで会うのは良くない」
僕にも一応分別はあるし、そのルールに則ると未婚か既婚かというのはかなり大きな違いで、所謂超えてはいけない一線というものになる。
「君は私のことを何とも思ってないじゃない。不倫にならないよ。」
「周りはそう思ってくれない」
「彼に許可取っても?」
「そういう問題じゃない。他に誰かいるならいいよ。3人以上なら」
「君、友達いないのに?私が誰か連れてきたら猫かぶるし。そしたら面白くない。会う意味が無い」
まるで僕のレスポンスをあらかじめ知っていたかのようだ。何を言ってもコンマ一秒も経たずに返答が返ってくる。
「とにかく、社会通念上良くない。僕もそう思う。だから無理。以上終わり」
これ以上の話は不毛だ。それに楽しくない。
僕らは楽しい時間を過ごすためにこうやってわざわざ会ってるはずだ。
「それでいいの?君は」
正直に言おう。イラついた。基本的に男だからとか女だからとかそういうことは言いたくない性質だが、この時ばかりは”これだから女はウザいんだ”という言葉に心から賛同してしまった。
僕が良いとか悪いとかの問題じゃない。これはどうしようもないことなのに、一体彼女は僕に何を期待しているんだ。
確かに彼女じゃないと盛り上がれない話がある。彼女と二人じゃないと過ごせない楽しさがある。それは事実だ。
でも、僕は彼女がいなくったって生きていける。ただ人生の楽しみが一つ減るだけで。
瞬間的に湧きあがった不快感をぐっと押し殺して、僕は努めて平静を装った。
ぬるくなったビールを喉に流し込む。答えは沈黙、彼女にはちゃんとそれが伝わったようだった。
小さい溜息の後、彼女は諦めの混じった、ちょっとからかうような表情で呟いた。
「君に彼女が出来ればいいのにね。その3人だったら楽しめそう」
「それはないな」