うんちと書く人には少なくとも2種類いるらしい。
一つはうんち的文章が増えるのを抑止するために書く。
もう一つは素早く内容を把握する訓練で、内容がうんちの場合マークする。
前者について、うんちと書くと抑止力になるというのは、うんち的文章を書いた人や書こうとする人がうんちを見て嫌になり、書くのをやめる可能性を高く見積もっているのだ。うんちを付けられても平気だったり嬉しがったりするだろうと予測していたら、抑止力として使おうとは思わないだろう。自分の好みの場に保つためには他人を嫌な気持ちにさせるのだ、という自己認識は潔い。
この回答をした人は、うんち的文章が嫌いとまで行かないが、増えすぎてほしくないと言っていた。
後者はその文章がうんち的であるかどうかは、うんちと書いた本人の感覚でしかないので、内容把握力の検証はできない。訓練には何らかの効果があるかもしれないが、うんちをつけること自体は無意味だ。しかし自分で後からうんち付きを複数見直して、内容にブレがないか検証することはできる。もしかしたらそのような運用をしているのかもしれない。
なお、いわゆるうんち的文章を表すのに「うんち」という記号を使うのは、全く含意なく増田の伝統に則ったものなのか、多少は一般的にうんちという言葉が纏う否定的ニュアンスも含んでいるのかは興味があるが、そこまで突っ込んだ質問なされていなかった。
この2種以外に、憎しみや嘲笑や嫌悪といった強い感情からうんちを付ける人もいるのかもしれないが、未確認である。
ちんす考はないのか
⚡️🐉💩