振返ると、他人と自分の明らかな差分を、明らかな差分と認識できていなかった。自分を客観視できないわけじゃなく、人は人をどう見ているものなのか、普通とはどういうことなのか、の認識がゆるゆる。たとえるなら犬も猫もミニブタも、4本足で哺乳類だからおんなじだよね、みたいな非常に緩い境界で、かなり下位のものも許容範囲に入れてしまって、まあ及第点だろうと判断する価値観。さすがにトカゲは違うにきまってるじゃん、あれ爬虫類じゃん、という区別はつく。多分、昔はつかなかった。さらにその昔は、生きて動いてるから生物は全部同じくらいの価値観だったかもしれない。例えです。
小さい頃って自分の服装や髪形なんて気にならなくて、親が買ってきてくれたものをそのまま着るだろう?そしていつかはそれがダサいということに気付いて、自分で服を買いに行くようになる。
それは何歳くらいからなのか、なぜそういう意識が芽生えるのか、その判断は何を基準としているのか、は多分「普通」があって、それが早い人はおしゃれな人生を送るはずで、おそらく周囲からの指摘で、ああこれはダサいらしいなと気づいていくんだと思う。
それに気づかないと、俺みたいに中学生になってもパジャマみたいな恰好で街をうろうろすることになる。それに気づいたあとも、どう見られるのがよいか、を理解しておらず間違った方向性に走る。これはあるあるだと思うのでいいんだけど、さらに時がたっても、どうしたらよい方向に見られるか、がわからず混乱。別におしゃれじゃなくてもいいからダッサーと思われない、普通の格好がしたいんだけどそれがわからない。何かが違うことはわかるんだけど、何が違うかがわからない。
今思えば、服がしわしわとかよれよれとか、汗臭いとか足が臭いとかそういうところがもうヤバかったはずだし、ひげをそったことすらなかった気がする。
社会人になって私服を着る機会が減ったので一安心。とりあえず吊るしのスーツ着ておけばなんとかなるかなと思ってた。が、ワイシャツの生乾きとかそういう臭いに無頓着で、靴下も連続で履くなど、多分臭かった。なんで臭いって気づかなかったのか、いまだに謎。人ができる普通の格好ができない。
私服は洗濯の仕方がよくわからなくて、すぐ服がくしゃくしゃになってしまって買いなおしてた。くしゃくしゃの服を着ているのはよくない、ということは理解できたらしい。
その後、清潔感を高めれば多少の事は許される、という学習をしたのでワイシャツや靴下、下着は毎日変えるし、歯も朝晩は磨くようになった。ひとまず事なきを得て、社会人として生活できているが、40になって社会的地位が向上しても全身ノーブランドで腕時計もせず、毎日同じスーツと同じ靴を装備している。知識として、スーツは毎日異なるものを装着すべし、と聞いたことがある気はするし、革靴はなんかボロボロになってきたらまだ履ける状態でも変える、サイズがあってないスーツはカッコ悪いからセミオーダーメイドくらいする、ネクタイピンやカフスボタン的なものもこの世には存在する、という知識はある。王様の仕立て屋さんというマンガによるとその辺は基本も基本のキでそこから先になんかTOBだかOJTだかに合わせたなんちゃらのマナーなりセンスなり、こいつわかってるなという洗練の領域があるらしいけど何言ってるのか全然わからないし、それが普通なのかどうかがわからない。普通よりずいぶんと背伸びした上位2-3割の話だとしたら自分には関係ないし、世の中の大多数がわかってることだとしたらわかっておいたほうがいいんだと思う。多分関係ない方の話だと思う。
今は平均値の下限くらいに収まっているつもりだけど、これもあと5年10年くらいしたら、なんであの時俺はひとりであんな安いスーツやボロボロの格好をして何も恥ずかしくなかったんだと思う日が来るんだろうか。なんせ、ブランド物のなんちゃらとか、時計のよしあしとか、全くわからないから興味もわかない。
はてなに居ついて長文書いてる時点で立派な下限だろ