2020-08-18

教育格差に打ちのめされながら救われた現実

自分教育格差について実感する事はよくよくある。

かくいう自分は、小中高と地方公立学校から国立大に進学して上京したので、

自己認識としては自分は優秀なつもりだったし、事実としても、自分の通う中学から自分の通う高校に行けるのは一握りだったし、

自分の通っていた高校から自分大学合格するのは何年かに一人だった。

東京にきて、優秀な同級生と接するたびに、特に東京私立で良い環境を受けてきている人と自分境遇を比べるといっそ惨めな気分になる事はよくあったが、それは今まで通りの惨めさでもあった。

お金持ちでなかった自分は、集合団地に住んでいてもゲーム機を買ってもらえる友達が羨ましかったし、中学からは多くの一軒家に住んでいる同級生が増えて、遊びに行かせて貰うたびに自分の家との違いに悔しい思いをしていた。

運動が得意ではなくて、本ばかり読んでいたので、よくいじめられたり無視されたりもした。だからこそ勉強読書によく逃げ出していた。

しかし、大学で机を並べる同級生たちとの格差の水準はそのレベルではなかった。国立だったから、地方から出てきた公立上がりは他にもいたので、だいぶんマシな方だろう。私立だったらもっとすごかったかもしれない。

それでも、東京に来て正直自分は救われた。

同級生たちは決して僕をあからさまに無視したり嘲ったりしなかった。もちろん年齢の成長に伴う社会性の向上はあるが、価値観尊重してもらえるという点で変化は劇的だった。最近都会のリベラル価値観が進んだものとして振る舞う若造に対して反感を覚える人がいるという意見も見かけたが、自分はあの地方社会から出て行く決断をして本当によかったと思っている。たとえ格差自体は都会の方が激しかったとしても、だ。

勉強しろ国立大へいけ、と言ってくる親が疎ましく思った時もあったが、今ではそれこそが親がくれた最も大きな財産だったと実感している。

それがあったから、自分はここまで来ることができた。これもまた格差だ。

大きくなるにつれて頑張れば頑張るほど格差残酷なまでに見えてくる。

日本人学生の一部が就活には研究なんて要らない自己分析が大事だと自己流の攻略法を語るのは珍しくない光景だったが、

一方で、有名大学を目指す中国人アメリカ人は、下手をすれば高校生の時からpulication(論文投稿実績)を作るべく活動し、大学で色々な企業インターンに行って職務履歴を作っている。

別に日本学生ダメだと言う訳ではないが、グローバルで実績を作ろうと検討した時に、自分が今まで競争の土台に乗らないでいた間にずっと先に進んでいる同世代人間たちがたくさんいるという事を思い知らされる。the 格差

アメリカコンピュータサイエンス系の大学院を出た学生年収1000万なんて最低ライン2000万は狙わないと、という感覚でいる。普通に

日本でもG社やM社に行けば数年で1000万は超える。業務が激烈だとか成果が物凄いとかではなく、ベースラインがそれくらいあって、実績を残せばそこから更に上がる。

自分年収1000万は簡単に超えたが、周囲への劣等感で泣きたくなる事は日常茶飯事だ。こんな記事を書いて自分を慰めている時点で察して欲しい。

振り返るとお山の大将というやつに憧れていたけど、いつも気づくとずっと大きな山の下で土を噛んでいる。

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