さあ?
前提として、私は犯人の子供も生きられる、誰の子供でも生きられる社会がいいと思ってる。同時に、産む人の命や精神や生活が損なわれない方がいいとも思う。ある種トロッコ問題であるという気がしている。
元増田が中絶容認論者に対して言ってるのか、中絶する人に言ってるのかイマイチわかんないけど、妊娠中の気持ちや、もし産んだら産んだ人が育てるだろう、その子育て中の暮らしはいくらか想像はできる。
子供に罪はないと考えるだろう。同時にその子が産まれる原因となった出来事の記憶に苦しむだろう。つらい記憶と、目の前の子供を一切結びつけないことはなかなかに難しいだろう。
葛藤に満ちたストレスフルな生活になるだろう。しかし産まれたら子供を育てない選択肢を選ぶのは制度的にも難しいのではないだろうか。
子供を生むということは収入が激減するということだ。そして人を一人育てるには20年の時間と費用がかかる。
おそらく多くの場合、生活は裕福ではなくなるだろう。出産後続く20年の低収入高支出の生活を補える制度は乏しいだろうと思う。
子の福祉ということなら、子はもちろん出自による差別されずに生きる権利がある。変愛情深く育てられるべきとも思う。でもそれは産んだ人だけが提供しなければならないものかというと疑問がある(これはすべての子供についてそう思う)。
しかしこれについても、補える制度は手厚いとは言えないだろう。
ダラダラと脈絡なく書いた。
子の生きる権利ではなくて犯人差別の話を考えようと思ったが、他のパターンでの望まれない子供との違いが私にはよくわからなくなった。
あ、
差別って言葉、民族差別とか人種差別のような出自による差別のほかに、兄弟の片方に辛く当たるとか気に入らない人を理不尽に冷遇する時にも使うよね?その二つ(人種差別と冷遇)は別のことだと思うんだけど、犯人差別って言葉の中に両方ごっちゃに入ってる気がする。
あーでもこれもよくわからんな…。
犯人差別という概念を私が勝手に解釈していいのか?もっと説明してもらってよく理解してからでないと、私は考えを書くぺきではなかったかもしれない。
でもキモ