https://heimin.hatenablog.jp/entry/2020/04/17/111700
読みづらいので、改行入れてみた。
一日中家から出なかった。一日中家から出ない、くらいのことは別に普通なのに、今この言葉を書くと、なんか意味を持つようになってしまう。自粛しての結果、みたいな。
しかし思ったけど、2月29日の元町1003でのイベント時、はっきり記憶にあるのだが私はあわててぎりぎりの時間に会場に行ったので、会場に着いた時からぶわっと汗が出てきて、「マスクしたほうがええんかなーしゃあないなー」くらいの感覚でマスクをしていて、でもそれがうっとおしいから鼻を出したり、アゴにひっかけたり、またマスクをしたり、やっぱりうざいとアゴにひっかけたり、そういう動作をマスクの口のとこをぐしゃっと掴んでこう、ぞんざいに繰り返してしゃべっていたんだけど、今ぞんざいに、とか書いたけどよ……、自分にとっては当時マスクの扱いってそれくらい雑なものだったんだよな……。当時て。
あれからまだ一ヶ月ちょいしかたってないんやで。それでもう今の自分はマスクの口のとこをぐしゃって持って何かをしたりしないし、鼻と口を覆ってちゃんとマスクをしている。この変わりようというか、変えられようというか、この一ヶ月、二ヶ月くらいでこういう小さなレベルから、いろんな変化が起きて、だから「え?あれ、たった一ヶ月前の話やっけ?」みたいな感覚になる事が色々な局面でけっこうある。
雨やまへんなあ。きのう「市場ってどうなってんのかな」と湊川のほうに行ってあちこち見てきて、予想していた通りだったのは、多くの店が普段どおりに店を開けていたことで、予想していた以上だったのが、普段より通りがにぎわっているように見えたことだ。直前にMTを見かけて「ちょっとワシ市場見てくるわ」みたいな事を言ったので「市場にぎわってるで」みたいなメールを送る。
市場の特性上(露天やし)、空気がこもりようがない所とか、誰が手に持ったかわからないカゴをさわらなくていいとか、誰が持ったかわからないカートの持ち手をさわらなくていいとか、人との距離をとりやすい、レジに並ばなくていいとか、いろいろなあれがスーパーと違って安心感があってみな行くのかな。
星野源の「うちで踊ろう」という動画に総理大臣が乗っかった動画が話題になっていて、自分はこの歌を巡ってまき起こっているムーブメントになんかこう、全然のれなかったから、正確に書くと歌をめぐって広がっていく大きな輪のようなものが見えて、自分はその輪の外にいる人間だと思っていたから、えっあほの晋三がやってるのかと思い初めて歌を聴いた。映像を見て、なんか久しぶりにこれはおもろいぞ、と思った。
怒りがなかったのはやはり、歌に感情移入していなかったからだろう。たとえば100日後に死ぬワニの話でも、ずっと楽しみにしていた人にしたら最後あんなぐじゃぐじゃにされたら腹も立つだろうけれど、何も見ていなかった自分には滑稽にうつるだけ、みたいな感じだろうか。なんか説明しにくいんだけど、みんながこういう状況の中でもいい感じにやっている事に対してあほの晋三みたいなのがとつぜんやって来て、それで「おまえこっちに来ていい人間ちゃうやろ」みたいな理屈はわかるんだけど、そういう構図があるのならば、私もまた、あっちに行っていい人間とちゃうな、みたいな思いがあり、輪から外れた場所でふと隣を見たらあほの晋三君がぽつんと立っている、みたいな奇妙な感覚すらおぼえた。
うちで踊ろう、と歌ってる歌手の着てるシャツにFuck RacismとかRacist Go Homeとか書いていて、それにあほの晋三が乗っかってきたのなら、おまえ差別と断絶でメシ食ってんのに気でも狂ったのか、と私も驚くけど、あの歌やん。ワシらアレに8年付き合っとんねんで。自分の発言のせいで人さまが死んでも平気な顔してるような人間ならやるやろこれくらい。「うちで踊ろう」じゃなくて「官邸を燃やしてしまえ」だったらぐっときた。踊ろうって言われてもな。
もっと、今の状況にふさわしいドス黒い歌がききたいな。もっと、あほの晋三の顔を引きつらせるような。輪から外れた場所でふと隣を見たらあほの晋三君がぽつんと立っていて、私は、おれら仲間やったりしてなとあほの晋三君の手をとって、おれらはあんなんじゃなくってこれで踊ろうやと言って、赤木俊夫氏の遺書を私が朗読する。そのあと私たちは牛馬に引き裂かれる。