2020-04-13

リベラルを突き詰めるとリベラルでなくなってしまう話

あるいは左右の思想が両輪である

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以前、何故「日本人であるだけで尊い」という思いで助け合うことができないのか!?リベラル批判して炎上したツイッタラーがいた。彼はむしろリベラル的な思想の持ち主であり、内部から批判とでもいえる発言だったが、リベラル派のツイッターから散々に批判され、アカウント削除に追い込まれ

一見日本人であるだけで尊い」という思想リベラルと相容れないように感じられるが、実際は逆である。何故なら「人間であるだけで尊い」という思想こそがリベラルの根幹だから

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倫理的に食することのできる/できない生物の条件とは何だろう? 現代文明化された人類人肉食タブーとし、鯨肉や猿肉を食すのは食文化範疇として認めている((認めない向きはここでは一般的ではないとする))

ここで人間と鯨や猿の相違として問題とされているのは、人類同胞であるか否かだけである

決して、動物愛護勘違いした活動家が言うように、知能や意思疎通の可否の問題ではない。そこが問題点なのであれば、障害のために知能や意思疎通の程度が成体の鯨以下の人間は食べてもよいことになってしまう。当然それは現代倫理では否である障碍者意思疎通の可否を基準に大量殺人を犯した犯罪者が裁かれる例を見よ

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人権尊重されるのは、その人が我々人類同胞であるが故である。決して「知能がある」とか「意思疎通が可能である」とかの唯物論的な理由によるものではない。一方で、「同胞であるから尊い」という価値観保守的であり、唯物論による方がリベラル的と思われるのも不思議なことではないだろう。しかし、唯物論にべったり寄りかかるのは共産主義も犯した過ちであり、リベラルを突き詰めることでリベラルから逸脱する一種パラドックスである

  • 同じ種族である 知能が高い 少なくともどちらか一つの条件が成り立っていれば食べてはいけないということでクリアできる 単一の条件に無理に絞ろうとするからおかしくなる

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