2020-03-15

魔女裁判

新型コロナウィルスについて、連日様々な情報が入ってくる。

各国の対応の違いは関心を持って見ているが、「制圧」とはどのような基準使用されている言葉なのかと疑問に思う。

このウィルスの「無症状・軽症の多さ」「特徴的な症状の無さ」から一時的新規感染者を押さえ込んだとしても、社会ウィルスが残っている可能性は極めて高い。

本気で制圧するというのなら、全ての人々を殺菌した個室に閉じ込め、社会のありとあらゆるものを殺菌し、その後わずかなウィルスも検出する完璧検査キットで人々を検査し、陰性の人間だけに社会生活を許す、といった非現実的な話になるのではないか。(もちろん感染源と考えられる野生動物は皆殺しになる)

感染者や環境に残存するウィルスゼロにできない限り、武漢最初発症者が確認されてから検査により大量の感染者が見つかった流れを、また繰り返すだけではないのかと思う。

(無症状・軽症が多いウィルスで、発症者が確認されるということは、その時点で感染者はたくさんいる)

では、様々な国が「制圧」「収束」を目指し、ことさらアピールするのはなぜか。

こういった対策をしてもまた再燃するはずの感染流行を「だれか」のせいにする流れができることは明白で、その対象とされたくないという意識があるのではないかと思う。

要するに、見せかけの「制圧」行動をした国で再流行したウィルスは、残存したものではなく制圧をしていない国から持ち込まれものだという見方である魔女裁判のように・・・だれかを血祭りに上げなければ納得しない社会への生贄が必要になるのではないか

これにより、人種差別・国交上の優劣が生まれるおそれは充分にあると思う。

実際には、「制圧」「収束」をアピールしたとしても、その後は感染の発生を注意深く監視し、感染者が発生すればそれをたどり対処する、そしてワクチン特効薬の開発と集団免疫の獲得をじっと待つ、という現在日本がとっている対処と概ね変わらない対応をせざるをえないのでは、と思える。

世界の「魔女」にされないために、日本はどうするのだろう。

国際社会自身正当性を主張することが苦手な国だけに、少し心配ではある・・・。

記事への反応(ブックマークコメント)

ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん