悲喜こもごもを抱えた背中を見送ってから、大学の一室では無名戦士たちの戦いが繰り広げられいるのを知っているだろうか。
ビシッとスーツを着た事務屋がガラガラと台車を押しながら戦場に入ってくる。それが開戦の合図。
待ち受けるはラフな格好をした歴戦の猛者、ニコニコ顔の志願者、騙されて連れてこられた無表情の新人。
誰もが等しく山のように積み上げられた紙片に向き合う時間が始まる。
ここから一週間、ひたすら紙に書かれた論理を追う。そしてそれが正しいのか考え続ける。
綺麗に述べられた論理は癒しである。極まれにそういうものを見つけると、ハッカのような爽やかさが頭を駆け抜けるようだ。
ミミズのような字ならまだ良い。
脈絡のない記述、楔形文字のような乱文、何か言っているようで何も言っていない小泉構文など無意味から意味を見出すことほど苦痛はない。
たかが紙束と侮るなかれ、たくさんの記述を読めば読むほど、自信、あきらめ、焦燥感などの情景が思い浮かぶ。
戦いも始めのほうは新鮮さがある。
ときどき、意表を突かれる良いアイデアが書かれている。そんなときは野球の審判よろしく部屋の中心に輪になって審議する。
紙片との格闘が進んでいくとカフェインでドーピングする。煙草休憩が多くなる。
あるものは「もう無理じゃ~」といって部屋を飛び出ししばらく帰ってこないこともある。
別のものは、紙片を見ながら「センスねえなぁ~」と嘆きのためいきが出る。
そんな戦いも終わりが見えてくれば、希望を感じ、最後の一枚を終えたときには拍手喝采となる。
再びスーツを着た事務屋が押す紙束を乗せた台車を見送れば戦いは終わる。
だが、その数字の裏側にある戦場を誰も知らない。感謝されることもないが文句を言われることはある。
それでも、無名戦士たちがほとんどタダ同然の報酬にもかかわらずこの戦場を辞めないのはなぜか。単なる義務感かもしれないし、サービスの精神からかもしれないし、自らの頭脳に対する矜持かもしれないがその答えは誰も知らない。
感謝してくれとは言わない、気づいてくれとも言わない。ただ、あなたが文字を書くとき、記号を書くとき、数式を書くとき、それを読む無名の人々がいることを忘れないでほしい。