2020-02-19

屈辱ながら「そこまでの存在しかなかった」事実を受け入れざるを得

過去の話に過ぎないのだが、これまで自分から好きになった、いいと思った相手とは付き合うに至れた成功体験がない。

ある程度までは仲良くなれるのだ。

連絡先は交換するし、日常的なやり取りも続く。

2人だけで出かけることもある。

しかしそのようなことがどれだけ続いても、相手は私と付き合いたいと思わせるような素振りや"サイン"を見せることは決してない。

慎重(臆病)になってその"サイン"を見抜こうとするが奏功せず、時既に遅し(わかりやすく言うと「想いを伝えたときには既に別の相手がいた」ということ)となるばかりであった。

一方で相手の出方を伺っているだけでは何も進まないので、自分から想いを伝えることも当然考える。

だがこれも同様で、想いを伝えたときにはまだ気持ち成熟しておらず時期尚早だったとなるばかりであった。

いずれにしてもこのような"サイン"や"タイミング"を「的確に見抜くだけの能力」が私には欠落しているのだ。

また、たとえこのような"サイン"や"タイミング"を見抜けなかったのだとしても、男としての十分な魅力や価値を備えていれば、相手の反応も間違いなく変わっていたに違いない。

(何の魅力や価値もない男とわざわざ付き合う者などおるまい)

したがって、これらの経験から導き出される唯一無二の事実は、「ある程度までなら仲良くする価値はあるが、それは恋人としてのそれではなく、恋人とするほどの魅力や価値まではない」、つまり(どうでも)いい中途半端な人止まり存在しかないという極めて屈辱的な事実である

甘んじて受け入れたくはないが、揺るぎない事実として目の前に存することは確かである

そこで一旦はこの屈辱を受け入れ、まさに臥薪嘗胆(?)の心でこれから自己研鑽に励みたい。

いつか自分から好きになった、自分好みの相手を確実に射止めるために。

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