隣で母親が祖母にブチギレるのを壁越しで聞きながらそれを打ち消すようにイヤホンを耳に差し込み斉藤和義の「やさしくなりたい」を聞きながら、就職出来ずにニートになってしまうんじゃないかと自分の未来に怯える日々。
私にとって母親は大切で尊敬できる、私に最も優しい人で、大好きなんだけど、この瞬間の母親はあんまり好きじゃない。
自分にとって優しい人が誰かに優しいわけじゃないし、善人が本当に善人ってわけでもなくて、生理的に許せない存在はあるんだな。
私は母親に似てるって言われるとちょっとだけ嬉しい気も起きるけど、母親は祖母に似てるって言われても全然嫌そうだ。
相手を好きになったり、嫌いになったりとか、物を好きになったり、嫌いになったりするのは苦手で、なんでも受け入れたい、という気持ちがある。特に、悪人でも、嫌いになれないことが多くだ。「アイツは悪いやつだから好き」「アイツは悪いやつだから嫌い」とかたまに聞くけど、私が好きになるのは善人だろうが悪人だろうが、自分にとってそれが尊敬するものだったり、「天才」とか自分の考えを凌駕するような存在が好きだ。
現実では、いつも悪人の裏側ばかりを考えている。どんな悪人でも「ああだったら」なんて、やったことが取り返せる訳でもないのにね。
結局、「人間」「女」「男」「日本人」「中国人」「白人」「黒人」「若人」「老人」っていう大きな分類で考えすぎて、皆息苦しくなっている気がする。
例えば、Aさん(70歳)(女)(日本人)がわるいことをしてしまったとして、Aさんを責めるはずが、「これだから老人は嫌い」「これだから女は嫌い」「これだから日本人は嫌い」みたいな感じで、偏見が出来てしまう。
確かに統計で見たらそうなのかもしれないし実際そうなんだろうし、自粛とかそういうのをすべきなのかもしれない。
でも、私という人間や、個人という人生で、相手と相対するならば、「これだから」という言い訳や偏見はできるだけ無くしていきたい。
個人の本質とか、言いたくないけど、全てをさらけ出すことが善というわけでもないけど、私という人間の豊かさを得るために、大きな分類で相手を仕分けたくはない。
何を目指して生きていくのか。動物が繁殖を目指して生きていくのならば、私達はどこに向かうんだろうか。幸せのため、とか、生きていくため、とか、それぞれ見つけていくんだろうか。
こんなことを考えるなんて、社会に役立つわけじゃないし、自分を苦しめて、鬱になっていくだけで、答えは出ないし、就職に役に立つわけじゃない。
私は何をしてどうやって生きていくのかを、まだ決められもしないし、一生未来に不安を抱いて、現在の幸福を未来に切り売りしながら、自分の首を絞めていく。
みんな死ぬまでそうやで。
近頃の 若い者は 目上の者への 態度がなってなければ 挨拶もできていない 近頃の 若い者は 言葉遣いがなっておらず 勝手な造語ばかり使う 年長者たちは近頃の若者た...