2019-12-21

深夜におかあさんといっしょ

ベッドに入って眠ろうとすると、会いたくもない連中が思い出したくもない場面を再現するから気分が悪い。あの時できなかったことや言えなかったことがあったけど、今度はああしてやろうとか、こう言い返してやれとか考えて、その完成度を高めたり、有効かどうかの確認をしたりして、どうにか気分をすっきりさせようとする。だけど、もう過ぎたこと。変えられないんだから、今さらやっても意味は無い。同じことなんて起きない。次なんてないって、冷静な自分冷や水ぶっかけてくるからますます気分が悪くなって眠れない。

そういうときは布団をはいで、時間確認して、それから気持ちを切り替えるため、リビングへ行くことにしている。温かいお湯を飲みながら、やかましくないテレビをぼうっと見て、苛立った気分が大人しくなるのを一人で待つ。そのつもりでリビングへ行くと、既に母がいて、こたつに入って、テレビを見ていた。母の「眠れないの?」の問いに「そう」と答えて、二人してEテレドキュメンタリーを見たりして、気分が落ち着くまでリビングで過ごした。

翌日、昨晩の話題になって、母に体調を心配された。申し訳なかった。適応障害になって、退職して、実家に戻ってからずっと心配をかけてしまっているから。

必要とされる人になりたくて仕事に就いたけれど、実際は上司に怒られてばかりで、「薄情者。」「程度が知れるな。」「お前が人生でやってきたことは、何一つこの仕事に生かせない。」等々言われ放題で、職員からはもちろん施設利用からもその家族からも他機関の人々からも関わる人々全員から役立たずと思われていたに違いない。だから世の中に自分の居場所はないと思った。職場の周りには高い建物がいくつも建っていて、昼飯を買いに外へ出るたび、それらを見上げて、想像自分分身ベランダとか屋上とか、とにかく高いところに置いて、分身を落としていた。そうすると少し気持ちが落ち着いた。それでもダメときはこみあがってしまって、トイレや外で嘔吐した。だから昼食を食べることを止めた。でも吐き気は変わらずあったから、空ゲロを繰り返した。そのうち涙もこみあがるようになった。今までなら耐えられた業務上圧力。それは毎日のことだから当たり前に押し寄せてきたけど、そのときは堪らなくなって、涙がこみあがり、溢れる前に建物を出た。できるだけ悟られないようにしたけれど、どうだったのだろう。それから涙腺がバカになったみたいで、毎日涙が溢れてしまい、その週の終わりから休職が始まった。

半年経ち、休職の期限を迎え、退職することを選んだ。その旨を伝えるため、理事長と話したとき、話の流れから少し前に就職希望面接に来た人についての話になった。

「この間、面接にきたのは、履歴書たらころころ仕事を変えてて、(胸を指でトントンしながら)ここやってるわけだ。ここにある自分の考え方の問題解決しないで、職場を変えれば問題解決すると思ってる。そうじゃない。お前みたいに精神やって休職する奴は、また元の職場に戻れば良いんだよ。そうすれば仕事が続くのにな。」

そう話す理事長は、これから離れる元職員へ向けて、はなむけの言葉をくれてやる良い上司だろう、俺。みたいな笑顔だった。だけど俺の気持ちは励まされなかった。休職半年間、職場に戻れる気はまったく感じられなかったが、戻らない選択したことで、この先、お前の未来は真っ暗だと告げられたようで、とても不安になった。退職意思を告げるために職場へ行くくらいには回復したつもりだったが、その日からまた体調を崩した。

それで実家に戻った。布団に入ったり、風呂に入ったり、一人になったりすると、いつの間にか嫌な記憶に取りつかれている。

そんなわけで母は、眠れないでいた俺を心配してくれていた。しかし母もまた十数年にわたって鬱を患っているから、俺としては、母が昨晩リビングいたことの方が心配だった。

こんなことってある?と母はぽつりぽつりと話しだした。

20年くらい前、人に言われたことが頭から離れない。」

「今さらそれを言った人に『なんであんなこと言ったんだー!』って言いたいわけじゃない。」

「けど自分の嫌なところを言われて、それが言い返せないくらいその通りで」

「ずっと忘れられなくて、あんなふうに眠れないときがある」

「こういうのっておかしい?」と母に訊かれたから、「そういうことってあるよね」と答えた。

からも訊きたいことはあった。“誰から?”“どんな状況で?”“何を言われたの?”それらを訊こうか迷った。けど、なんのために?

聞いた上で、あーしたらいい、こーしたらいいなんて解決策でも提示しようっていうのか。それは本当に必要だろうか。話している相手がそれを欲してるとは思えなかった。何か言ってもうまくいくイメージは湧かなかった。それに話を聞いてほしいんだろうなとも感じた。逆の立場ならそうしてもらいたいし。そしてその上でできることを探した。同じ理由で眠れなかった俺にできることは、共感しかない。そう思って答えた。

だけど、怖さも感じていた。還暦をすぎてもこの苦しみを抱え続けていることは恐怖だった。俺が今抱えているものは、俺が母の年齢になっても抱え続け、怖れ、苛立ち、苦しむのだとわかってしまたから。若い頃に受けた苦しみの処理の仕方は、老いてもわからないまま。かといって苦しみのうまい抱え方も知らないから、耐えて、耐えて、死ぬまでやり過ごす。きっと俺もそうなるのだろう。これから先も嫌な記憶ばかりはっきり思い出され、リアルタイムで傷つけてくる。なのに幸せ記憶は、そのあったはずの幸福感が再生されず、過ぎ去ってしまたことの悲しさに取って代えられてしまう。

とても憂鬱だ。

しかし母は泣いていた。安心したら涙が出たそうだ。俺が共感したことに救われたと言って。

それから、もし父に言ったならば「いつまでもそんなことでうじうじしているんじゃない。そんなだから病気も良くならないんだ」と怒られてしまっていただろう、と。そして母の父親(俺にとっての祖父)であれば、口だけではなく、手も出てきたかもしれない、と話した。

彼らは己の価値基準で、相手の話に勝手善悪判断をつけ(それも語られる苦しみの背景も考えずに)、相手の苦しみに目を背け、見なかったことにしようとしてきた連中だ。周りがそんなだから母は疲れてしまうのだろう。

あんたも病気で休んでるのに、こんなこと喋ってごめん。」と母に謝られた。そして「でも話を聞いてくれるのは、あんただけだよ。ありがとう。」と言われた。

ないと思ってた居場所は、実家にあると、今はそう感じている。家族にそれを感じられることは、恵まれているとも思うけれど、家族に甘えっぱなしの脛かじりな今の自分をみっともないと感じているから、このままではいけないとも思う。だから家の外に居場所を作りたい。それをやる体力気力は、まだないけれど。

  • うんこ

  • 鬱って遺伝するのかな

    • 各種の精神疾患の遺伝性が研究で次々と明らかになってるね。

  •                                                                                    ...

  • 子育てしてるとさ、 「満たされなかった自分を哀れみ、育て直していた」って思うことってあるよ。 自分の気持ちを聞いてくれる、それだけで救われることってあるよ。

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