2019-06-22

社会的弱者だった頃に溜め込んだ憎しみが暴走してしま

心に余裕がなくなると「お前のようなクズは死んでしまえ」という声が聞こえくる。

私が社会的弱者だった当時は職場で「使えねー」「死ね」「生きてる価値がない」「同じこと二度言わせんな」と言われ続けてきた後遺症だ。

替えがいくらでもいる底辺労働者への社会の風当たりは強い。

スキルがないクズには何をしてもいいというマッチョイズム、富を持たない者に人権を認めぬ資本主義、都合が悪すぎて存在しないものとして扱っている連中が目に映ること自体すらも忌み嫌う日本社会構造のものが、個々人の人格すらも支配して私を攻撃していた。

今でこそハラスメントに対する罰則の厳しさや、私自身の立場の向上により昔ほどは純粋人権侵害を向けられることはなくなったが……それでもあの頃のトラウマが蘇ると、誰かの言った嫌味の中に「死ね」という言葉見出ししまう。

そもそもをして今の世の中においてハラスメント対策が取られているのは、ハラスメントを行う者が最大の社会的弱者となるからであり、結局はルールが変わっただけで社会的弱者強者によって攻撃されていいという不文律に変化は起きていないように見える。

弱者攻撃した強者明日弱者にならないシチュエーションにおいては、変わることな弱者強者によって攻撃を受けているし、その正しさを誰も疑っていない(正論によるリンチ行為はてなで見ない日があるだろうか?)

そんな世の中にいると、心の奥に沈殿させることが出来た「死ね」の言葉消滅することは決してない。

いつまでも残り続ける。

ふとした拍子に心がかき回されると、かつて投げつけられた「死ね」が頭の中で暴れだす。

ソレに対してある種の防衛本能機能することにより今度は私自身が「死ね」を撒き散らしてしまう。

飛んできた「死ね」を受け止め続けて死なないためには、自分殺意によって武装する以外にない、そんな状況を人生において味わいすぎたのだ。

その「死ね」をぶつける相手は時に強者である弱者でもある。

相手強者であれば、それは単なる無謀な喧嘩で済むが、相手弱者であったなら私が一方的に「死ね」をぶつけるだけでその場が終わりかねない。

そうなったとき死ぬべきは私の方なのだ

死ね

死んでしまえ。

そうして自分自分死ねと言った言葉がまた心に積み上がる。

終わらないループだ。

殺し合うしかねえ。

もうダメだ。

オレの心をどう修復すればいいんだ。

ふざけやがって。

こんな精神状態にしたのは、社会のものでもあるんだぞ。

俺が一方的に悪いかのように言いやがってもう騙されねえ。

殺してやる。

てめーらそこに並べ。

殺してやるよ!

俺が今から

全員殺す!

人類!全員だ!例外はねえ!

死ね

われはメシア明日世界粛清する


ふー……ふー……

やはり、最後に心を救えるのはユーモアだけだな

面白さは重要じゃない

回路に別のものを割り込ませて無理やり処理を一時的に止めてしまえばそのスキに修正できる

記事への反応(ブックマークコメント)

ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん