心に余裕がなくなると「お前のようなクズは死んでしまえ」という声が聞こえくる。
私が社会的弱者だった当時は職場で「使えねー」「死ね」「生きてる価値がない」「同じこと二度言わせんな」と言われ続けてきた後遺症だ。
スキルがないクズには何をしてもいいというマッチョイズム、富を持たない者に人権を認めぬ資本主義、都合が悪すぎて存在しないものとして扱っている連中が目に映ること自体すらも忌み嫌う日本社会の構造そのものが、個々人の人格すらも支配して私を攻撃していた。
今でこそハラスメントに対する罰則の厳しさや、私自身の立場の向上により昔ほどは純粋な人権侵害を向けられることはなくなったが……それでもあの頃のトラウマが蘇ると、誰かの言った嫌味の中に「死ね」という言葉を見出してしまう。
そもそもをして今の世の中においてハラスメント対策が取られているのは、ハラスメントを行う者が最大の社会的弱者となるからであり、結局はルールが変わっただけで社会的弱者は強者によって攻撃されていいという不文律に変化は起きていないように見える。
弱者を攻撃した強者が明日の弱者にならないシチュエーションにおいては、変わることなく弱者は強者によって攻撃を受けているし、その正しさを誰も疑っていない(正論によるリンチ行為をはてなで見ない日があるだろうか?)
そんな世の中にいると、心の奥に沈殿させることが出来た「死ね」の言葉が消滅することは決してない。
いつまでも残り続ける。
ふとした拍子に心がかき回されると、かつて投げつけられた「死ね」が頭の中で暴れだす。
ソレに対してある種の防衛本能が機能することにより今度は私自身が「死ね」を撒き散らしてしまう。
飛んできた「死ね」を受け止め続けて死なないためには、自分も殺意によって武装する以外にない、そんな状況を人生において味わいすぎたのだ。
相手が強者であれば、それは単なる無謀な喧嘩で済むが、相手が弱者であったなら私が一方的に「死ね」をぶつけるだけでその場が終わりかねない。
死ね。
死んでしまえ。
終わらないループだ。
殺し合うしかねえ。
もうダメだ。
オレの心をどう修復すればいいんだ。
ふざけやがって。
殺してやる。
てめーらそこに並べ。
殺してやるよ!
俺が今から!
全員殺す!
死ね!
ふー……ふー……