来月から新しい年号に変わるということで、この年のゴールデンウィークは10連休だった。
だけど、学会の準備と学振の申請書書きでまるまるつぶれてしまった。
僕は自分の頭の悪さとか、研究の業績がぜんぜんないこととか、論文を読むのが苦痛なこととか
そういうことにうんざりしていた。いわば自己嫌悪のようなものだったのだろう。
自ら望んで、それが叶って入った分野だった。憧れに近かった。
でも、悲しいけどあまり向いていないということは早いうちにわかっていて、
だけどなんとか未練がましくしがみついているという状態だった。
いいのか、というか、どの道を選べば(そもそも道なんてあるのか?)納得できるのかが皆目見当がつかなかった。
また、この頃はたぶん見込みのない恋もしていた。
相手は大学関係者だったので(教員ではない)、万が一内気な僕が何かしらの行動を起こす勇気を振り絞ったとして、きっと困らせるだけだと思った。
僕がその人に気に入ってもらえるかは別にして、道徳的な人のように思えたので、いずれにせよ気持ちを受け入れてはもらえないだろうという気がした。
その人のことをどうして好きになったのか、はっきりとした理由はよくわからなかった。やさしかったからかもしれない。
僕には友人がほとんどいなくて、おまけに親元も離れていたので
特にこの時期は研究室の人と、その人と、バイト先の人くらいしか接触の機会がある人間がいなかったから、寂しかったのかもしれない。
勘違いかもしれないけど、この頃から必要最低限の会話に加えて雑談みたいのもするようになって、あとハンカチを貸してくれたりして
少し距離が近くなったように思えていた。
だからこそ、状況としては見込みがないのに、勘違いして期待のようなものをしてしまって、余計に苦しかった。
その人に思いを伝えるかやめるか
きっと、何ヶ月か何年か経った後に、こんな風に思い返している気がする。
僕には、今までに何度か
この先の未来で、選択に失敗した僕が、戻りたいと切実に思っている「あの頃」というのがいまの僕がいる時間だ、と感じることが幾度かあった。
その度に必死に考え、多少の後悔はあっても、僕のできる最善をつくして行動してきた。
その時期が、また訪れたような気がしている。
誰かが見てくれるとは限らないけど。
好きにしたらいいわ 取り返しのつかないロスジェネに比べれば なにをどうしようと取り返しがつく時代に生まれてうらやましい
研究は何とかなる。手法と技能の問題なので、慣れが必要。 論文はたくさん読もう。発想の元になる。 論文読めないのは、言語感覚のせい。何語を使っているから知らんが、言語感覚は...
俺も今学振PD書いてるけどマジできつい。申請書を書く体験が初めてで、論文書いてる時にあるような、"最後の完成形が見えててそこに向かってる"って感じがまるでない。
研究に必要なのは執着だと、常に感じていた。もうすこし残って踏ん張るというのが、もしもその地点に居たら私がしたと思う選択です。