2019-04-10

映画を見るのが好きだが映画について語るのが好きなわけではない

自分趣味に求めているのは没入感であって、何を得るか考えるかではないんだと思う。

散歩は好きだがウォーキングしたいわけではない。旅先でぼんやり景色を見てる時間が好きだ。一人旅で撮った写真は、大抵、帰宅後にパソコンに保存せずネットに公開せずデジカメに入ったままになっている。

好きな作品風景もただそこにあるだけでいい。

その作品風景が好きだから、そこに自分言葉を足す必要はない。伝えたいわけではない。自分を装飾したいわけでもない。

でもそれって結局何かを享受するのみでいたいということで、ひたすら受動的で、何も生産せず、社会にとっては無価値な、未熟な態度なのだろうか。

自己表現とか、発信とか、成長とか、共有とか、趣味のつながりとか、そういう風にあらゆるもの関係の中に組み込まれ、逃れられない。答えが欲しいわけではない。見たいだけ。

映画が好き。映画を見るのが好き。映画を観た人の感想を読むのが好き。でも自分が語りたいわけではない。

映画を道具にして誰かとの繋がりを求めているわけではない。自分はいらない。

そんなことを考えていると自分もまた消えていくようで、だからせめてこうして書いているのだけど、名前を隠して文章を書いて、消えたいのか消えたくないのかよく分からない。自分ではない「誰か」になってここではないどこかに行きたい。自分探しをする年齢はずっと昔に過ぎて、どう振る舞うべきかなんて分かっていても消えないこのわだかまりを、一生引きずっていくのだろうと思いながら、そんな自分を嫌いになりきれないので、変わらず生きている。

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