身バレが怖いので具体的な話はほとんど書いてない上に長文です。
同期が出来ていることが全く出来ず、優しかった先輩がだんだん呆れ顔になってきた。
大学時代から気付いていたが、はっきり言って要領は悪いしミスも多い。患者とのコミュニケーションも下手だ。
しかしそうした点ではなく、もっと根本的な部分で医療者に向いてないなと思い始めた。
一つ、患者に対して興味が持てないこと。
そしてもう一つ、どうしても患者に対して「生きていることそれ自体が無条件で尊い」とは思えないことである。
こんなことを言うのもみっともないが、高校時代の成績から言えばどこかの医学部に入れたと思う。
それでも「五感を使って患者さんをアセスメントし、医者とは違う側面から患者さんの生活を支えるクリエイティブな仕事」という看護師像に憧れ、親族の反対を押し切って看護師の道を選んだ。
「患者さん一人ひとりが自分らしい死を迎えられるように手助けしたい」と思ってホスピスで働くことを選んだ。
しかし実際に看護師になってみると、患者に対してケアをすることに全く喜びを見出せない。
一つ一つのケアがただの業務に成り下がっており、勉強する意欲も失ってしまった。
元から経済的な面や安定性を求めて看護師になったのであればそれでも耐えられるのだろうが、高い志を持ってこの仕事を選んだ(つもりだった)ために余計に辛い。
基礎研究をしている研究者の話を聞くと楽しそうで羨ましくて仕方がなく、選択を誤ったという思いが強い。
そしてもう一つの話なのだが、もし良ければリンクで紹介する記事を先に読んで欲しい。
ホスピスケアを中心として活動されている新城拓也先生がお書きになったものだ。
「医療従事者が『こんな生産性のない病人には生きている価値がない』と考えるのは未熟と無知によるバーンアウトが原因であり、十分な教育があればそのような考えには至らない」
本当にそうなのだろうか?
実は私は大学時代から「生産性のない病人を生かすことに社会的な価値があるのだろうか」とずっと考えていた。
生産性がなくても、生きていてほしいと誰かに思われているのなら医療は全力を尽くすべきだろうとは思う。
では、例えば長いこと寝たきりで、家族にも嫌われないまでも重荷だと思われているような場合はどうだろうか?
そんな事を考えてしまう自分が嫌で、きっとホスピスに行って現場を見ればそんなことも考えなくなるだろうと思っていた。
しかし現場に出てみてもその疑問は解決されないばかりかますます私の頭を圧迫している。
それでも救うべきだ、と断言できる人間だけが臨床には必要とされている。
新城先生の言う「教育」とはコミュニケーションの技法なのだと私は解した(もちろんそれだけではないと思うのだが、具体的に大きなウェイトを占めるものはコミュニケーション技法だろう)。
しかしその解釈の場合、「コミュニケーションが取れない人間は生きている価値がない」という思想を持つ植松聖の凶行は止められなかっただろう。
真に必要なものは「医療倫理が善しとする方向に感情を向ける技術」である。
患者がどのような状況であっても善行・無危害原則に則って行動し、患者の権利を擁護することに専念するための感情操作技術。
医師にしろ看護師にしろ介護士にしろ、終末期医療にはそういう燃え尽きてしまった人間を弾く制度が必要なのではないか(「医療」という枠とはまた別で)。
少なくとも医療という世界に限れば、それくらいのことが許されると思う。
普段祖母を嫌うような言動をしていた両親と兄とが沈痛な顔をして座っていて、もしかするとここにいる誰も祖母の死を悲しんでいないのではないかと思った。
それ以来、死んでも誰にも悲しまれない人間というものが存在するのではないかと思うようになった。
今も見舞いに来る家族に対して「この人は本当に患者に死んで欲しくないと心から思っているのだろうか」と疑問に思ってしまう。
もし将来家族がいないか家族に疎んじられていたら、働けなくなった時点で自殺したい。
とりあえず、ホスピスで働くのはもうやめようと思っている。
少しだけ提言染みたことを言うならば、コミュニケーション技法の教育というのは本当にしっかりやったほうが良いと思う。
アレをただの情報収集技術だと思って大学時代まともに聞いていなかった私は大馬鹿だった。
そうした技術論は患者をパターン化しているように思えて、一丁前に不誠実だとも感じていた。
熱いハートさえあれば十分だと思っていた。
どうやらそうではなかったらしい。
医学部受けて医師を目指すのはダメなの?