個人に犠牲を強いたり、事実を大きく歪曲させなければ感動ポルノだろうが特に問題はないと思う
どのような存在もストーリーとして誰かに提供しようした時点でそれらは一般大衆に消費されるコンテンツとしての方向性と意味を付加される
作品を作るものが、報道するものが誰にも意識されず何も考えさせないものを作ろうとするだろうか?
ないものをあるもののように語るのは問題だが他者になにかを伝えようとする場合、他者に伝えようとする過程である側面が強調される
これは、その行為そのものの持つ性質であり、特定の個人に帰されるような問題とは違う
私は感動ポルノを擁護してるわけではなく感動ポルノは消費行為という過程の中で否が応でも生まれてしまうものだと言っているんだ