2018-08-03

善悪がわからなくなりつつある

人の立ち位置を考えて、なぜそう思ったのか、なぜそんな行動をしたのか、そういったことが理解できるようになってきた。

なぜ物事はこうなっているのか、どんな経緯でシステムがこうなったのか、どうしてこういう思考が発生するのか、この思想の源流はどこか、なぜそれを思いついたのか、なぜこの人からこの発言が出たのか、どういう人生を送ってその発想が生まれたのか、いまどんな環境にいるのか、どのような生活を送っているのか、感情ストレスはどう変化しているか、ということを考えるようになった。

気付けば「世界とはそんなものだ」という感覚が身についた。怒りも笑いも悲しみもない。あるのはそこに横たわった現実と、それをどう変えればどれが解決するかという発想だ。

ぼくには目的がない。自分自身感情を強烈に揺さぶらせる、雄大で荘厳な、人生をかけたいと思うような目的がない。ある意味怖いのかもしれない。目的自体はたまに思い浮かぶ。どれもこれも解決が困難な課題だ。ただ「人生をかけたのに達成できなかったら……」というブレーキが働き「人生をかけるほどのものではない」とたかをくくってしまう。この先何十年もそれに邁進するという選択が取れない。

自分が何をしたいかがわからない。自分が何を考えているかからない。ぼくは刹那的に、そしてただ外部からの刺激を受け取って、過去のできごとの蓄積から考えをアウトプットしているパブロフの犬しかなかった。今もそのことは変わらない。変わらないが、それを自覚して、ぼくは自我が芽生えたとでもいおうか、ぼくはぼくが動物機械であることを知った。

ぼくは知識貪欲に求めるようになった。世界はまるで子どものころのように新鮮に見える。ぼくはほとんど何も知らない。毎日知らなかった概念発見する。そうなると1ヶ月前のぼくはぼくではなくて、ぼくはだんだんぼくでなくなっていく感覚を覚える。知らないことを知ること、知らなかったことを知ったことで、他者が何を考えているか想像やすくなった。知識はぼくの心の渇きを忘れさせてくれる。ぼくが何者かを考えさせないように没入させてくれる。ぼくにとって、ぼくが暇であることは毒なのだろう。

ぼくはきっとそのうち悪の道を選びそうだ。わかりやすいし自由を尊びたいし、善の道は舗装されているからだ。

ともかく、ぼくはこうしたなんとなくの切なさと寂寥感を抱えて、今日も元気に一日を過ごそうと思う。

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