「ましらのぶんきち」と読む。「目明し文吉」とも。
「今太閤」と称された島田正辰の妾として養女を差し出したことから彼の懐刀となり、
安政の大獄では幕府の手先として、尊攘派の志士らを次々に探索・捕縛していった。
また、島田が営む高利貸しでも借金取りとして活動し、苛烈な取り立てをして恐れられた。
1862年、島田が田中新兵衛らに暗殺されると、文吉も岡田以蔵らに捕まった。
あまりに恨まれていたために殺害を希望する者が多く、最後には籤引きで決めたという。
文吉のような人間を斬れば刀が穢れると、細引き縄で首を絞めて殺された。
死体は肛門から串刺しにされ、陰茎に釘が打たれた姿で三条河原に晒されたという。
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